関東鉄道竜ヶ崎線に乗って
龍ヶ崎
探訪
(
2014
年
1
月
30
日)
前週で東海大学の授業が終わりました木曜日の二〇一四年一月三十日、朝一番で、三十年来 行きつけの柏の歯科に かかりました。治療は三十分足らずで終わりましたので、本来ならば柏から上京して史料閲覧、すべきところですが、その日は常磐線を北東に向かいました。目的地は龍ヶ崎です。近場にありながら関東鉄道竜ヶ崎線に乗車したことがありませんでしたので、ちょうど良い機会、と思い立って足をのばしました。
今回は、鉄道に乗るのが第一の目的でしたので、『龍ヶ崎市史』の確認など、事前の準備は一切せずに、いきなり訪れました。
常磐線の佐貫駅で、関東鉄道竜ヶ崎線に乗り換えます。昭和時代の面影が色濃く残されている非電化の同線は、所要7分、二駅目で終点の竜ヶ崎駅です。
関東鉄道 竜ヶ崎駅
その日の天候は、曇り。
下駅して改札口の先をまっすぐ歩いた先の交差点の右手に、「薬師堂」があります。がらんとした感じの境内に、樹木が印象的です。
その交差点を北に進みますと、まもなく左手に、市役所の巨体が見えてきます。
駅の向いの薬師堂
市役所
市役所で、「龍のふるさと 龍ヶ崎
都心にいちばん近い「いなか」かも知れない
」と表題のある案内地図をもらい、それを手に、まず、市役所から北北西にある丘の上の龍ヶ崎愛宕神社に参拝しました。
伊達陸奥守忠宗の創建とされる
龍ヶ崎愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社
龍ヶ崎に所領を持った伊達忠宗が寛永十八年(
一六四一
)に勧請し、宝永五年(
一七〇八
)に再建されたという愛宕神社の本殿には、見事な彫刻があります。
また、「愛宕神社」の扁額は、「赤穂侯九世之孫」の旗本、浅野長祚(梅堂)が慶應二年(
一八六六
)十一月に揮毫したものであるとの由です。
神社の西隣は龍ケ崎市立愛宕中学校。
その北西、丘の下には、中央図書館と文化会館があります。
文化会館の西を南北に走る「おなばけ通り」(県道土浦竜ヶ崎線)の西には歴史民俗資料館がありますが、それより先に、隣接する「馴馬(なれうま)城跡」を南側から訪ねました。
中央図書館
その城跡らしいヤマ(後で曲輪Uと知りました)に入る細い道がありましたので、そこを登りますと、道の先が下りになるあたり、右手に谷あいのような道(空堀状遺構)が続いております。そこで、右に曲がりました。暗いヤマ道を抜けた先は、土盛状の上の道(土橋)となり、視界が開けます。右手に駐車場と、案内板のようなものが見え、そちらへ到る下り階段もあります。早速、向ってみますと、案の定、「馴馬城跡」の案内板でした。
「馴馬
(なれうま)
城跡」
南東方向より「曲輪U」を望む
「土橋」より「曲輪U」を望む
「曲輪U」と「土橋」を望む
案内板
案内板は、「縄張図」を確認したのみで、説明文は帰宅後にゆっくりと読めばよい、と写真に収めるや、専ら周囲を見渡して地形等を眺めてばかりおりました。
そのため、その説明文中に「南朝方の部将、春日顕国が立て籠った「馴馬沼田城」が、・・・・・ 馴馬城に比定されている」とあることに気付かず、帰宅後、ようやく気付いた次第です。
歴史民俗資料館の側から「曲輪U」を望む
馴馬城跡の側から歴史民俗資料館を望む
案内板の東に広がる駐車場は、龍ヶ崎市歴史民俗資料館の駐車場です。
駐車場の先には、近代的な建造物と、民家のような建築物が見えます。
前者の建物は、歴史民俗資料館です。普通、訪問者は、中央図書館・文化会館の側、正面(東側)から入るべきところですが、私は「馴馬城跡」から迂回して来ましたので、いわば裏口から入ったような形となりました。
龍ヶ崎市歴史民俗資料館
歴史民俗資料館の前庭の
建築物
歴史民俗資料館の展示室は、こじんまりとは しておりますが、なかなか充実して見応えがあり、いろいろと勉強になります。
特に、中世の「龍ヶ崎と土岐氏」の展示は、興味深く感じられました。そもそも私の本籍は、もともと岐阜県瑞浪市土岐町にあり、土岐氏については それなりに関心があります。室町期、土岐氏の一族が江戸崎に拠点を得て活動したことは、一応、知っておりました。しかし、龍ヶ崎にまで江戸崎土岐氏の勢力が及んでいたとは、不勉強ゆえ、恥ずかしながら、その日まで知りませんでした。
なお、中世以前に創建された龍ヶ崎の寺社の多くには、土岐氏との関係が伝えられており、それらの概略は、館内で配布されているパンフレット類からも知ることができます。
龍ヶ崎市歴史民俗資料館の
龍ヶ崎鉄道4号蒸気機関車
歴史民俗資料館の敷地内、入口付近には、龍ヶ崎鉄道4号蒸気機関車(川崎造船所 兵庫工場 大正十四年(
一九二五
)七月製造のC型タンク機)が展示され、訪問者を出迎えております。
歴史民俗資料館の見学を終え、再び「馴馬城跡」の「土橋」に戻り、次は、重要文化財の多宝塔がある来迎院に向かいます。
来迎院
来迎院の多宝塔
来迎院境内の「春日中将顕国公碑」
来迎院
来迎院は「馴馬城跡」の西方にあります。
多宝塔の宝珠は、その複製品が歴史民俗資料館の展示室に陳列されておりますが、宝珠の銘文に、「土岐美作守治頼嫡男大膳大夫治英朝臣」が弘治二年(
一五五六
)五月に「修善」したと記されております。
優美な多宝塔を仰ぎ、真新しい本堂に合掌し、境内を眺めまわしましたところ、本堂から東に臨んで左手にある駐車場の先、多宝塔の手前にあるブロック塀を背にして、新しい石碑が建っております。そこには、「建武忠臣 春日中将顕国公碑」と題されております。実は、この碑文を見るまで、龍ヶ崎が春日中将に所縁があるとされていたことを全く知りませんでしたので、この石碑には かなり驚かされました。
平成十九年九月に建てられた新しい石碑ですが、碑文からは、七十年以上前の日本における精神的世界の様態が、彷彿とさせられます。
なお、この記念碑、やや“虐待”されており、碑陰が背面のブロック塀に近接しており、覗き込むにも一苦労、その文面を写真に撮影するのは至難の技でした。
来迎院から、三たび「馴馬城跡」に戻りました。
今度は西側の小道から城跡のヤマに登り、最初に通った「空堀状遺構」そして「土橋」を通り、城跡の北北西に位置する日枝神社に向いました。
風が吹き、台地上の乾燥した畑の土埃を巻き上げます。
日吉神社は木立ちの中にあり、昼なお暗い、ひなびた御社(やしろ)ですが、年老いた女性が、ちょうど参拝しておりました。
社殿の前に、花のついた椿の枝がポツンと置かれていたのが印象的でした。
日枝神社
馴馬城跡北方から日枝神社を望む
日枝神社
日枝神社
日枝神社
日枝神社の叢林を東側から望む
日枝神社から東に向かい、「おなばけ通り」を横断して、愛宕中学校の運動場の北の道を下り、再び愛宕神社の下に到り、門前の道を西南西に歩きます。次の目的地は般若院です。
般若院の門前を左右に走る道は「撞舞通り」と名づけられており、野田市内の「津久舞(つくまい)」と同系統の「撞舞(つくまい)」という伝統行事(かつて般若院の場所にあった八坂神社の神事。国選択・県指定無形民俗文化財)が行われることで知られております。
般若院
般若院
般若院
般若院の枝垂桜(しだれざくら)
般若院は、本堂裏手の枝垂桜(茨城県天然記念物)が有名であり、花見の季節には見物客で大変な賑わいになるということです。
さて、般若院に参詣している途中から雨が降り出し、「龍ヶ崎城跡」である竜ヶ崎二高の方に向かっているうちに本降りとなりました。
龍ヶ崎城跡の東に位置する
御嶽神社
(竜ヶ峰御嶽)
やや風が吹く雨の中、「龍ヶ崎城跡」の北側を回り、その東に位置する丘の上に鎮座する御嶽神社(竜ヶ峰御嶽)を経て、北から龍泉寺(龍ヶ崎観音)の境内に入りました。
龍泉寺(龍ヶ崎観音)
龍泉寺(龍ヶ崎観音)
水子供養の風車が回る龍泉寺
龍泉寺(龍ヶ崎観音)
龍泉寺(龍ヶ崎観音)には、本堂の西側に水子供養の地蔵が多数 並んでおり、雨の中、おびただしい風車(かざぐるま)がカラカラと回っている光景からは、やや異様な雰囲気が感じられます。
若い男性が、一人、本堂に熱心に祈っておりました。ちなみに、龍泉寺の観音様は「安産観音」として知られているということです。
依然、雨は止みません。そこで、大統寺や頼政神社には寄らずに、まっすぐ竜ヶ崎駅に戻ることにしました。
途中に、龍ヶ崎コロッケ発祥の地、「まいん・商工会」があり、龍ヶ崎市街地の案内地図が掲げられております。
龍ヶ崎「コロッケ国取り物語」
駅への道の途中にある「八坂神社」は、「大震災復興・大修繕工事」中でした。
本殿前、頭上の青いビニルシートに雨水が溜まり、いささか不穏な状況です。
本殿の裏手には、龍ヶ崎市指定文化財 天然記念物のケヤキの樹があります。
「大震災復興・大修繕工事」中の
八坂神社
八坂神社
八坂神社
八坂神社
八坂神社
竜ヶ崎駅に戻りましたところ、列車の発車時刻まで、多少、時間がありました。
そこで、駅の周囲を少し回り、駅の南手にある鉄道車庫を見たりしておりました。
竜ヶ崎駅の車庫
竜ヶ崎駅
さて、龍ヶ崎駅から佐貫駅に戻った頃には、雨が小降りになりました、暗くなるまでには時間もありましたので、佐貫駅の北方にある「太田山金龍寺」に行ってみました。
金龍寺
金龍寺の新田氏墓所
金龍寺には、新田氏・由良氏・近現代新田氏の墓があります。義貞の墓というのは、単なる供養塔(五輪塔)ですが、近現代の新田家の墓は、むろん、ホンモノです。
佐貫駅周辺には、平貞盛や平国香に関連する遺址がありますが、今回は巡ることができませんでした。
なお、佐貫駅周辺は、行政区画の上では龍ヶ崎市です。ちなみに、牛久沼は、全域が龍ヶ崎市で、牛久市ではありません。
以上のとおり、久々に寺社・城跡巡りをいたしましたが、比較的近くにありながら龍ヶ崎の歴史については知らなかったことが多く、少なからぬ知識を得ることができたのは収穫でした。
既に述べましたように、龍ヶ崎市内には、戦国期の土岐氏に関係する社寺が多いのですが、大統寺など、巡り落としがいくつかあります。よって、近日中、できれば桜の季節に、再訪してみたいと思っております。
(
2014
年
3
月
2
日記. 同
5
日訂)
関東鉄道の乗車券(軟券)
関東鉄道の乗車券(硬券)
常磐線の乗車券
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