実蒔原と七沢に上杉定正の史跡を訪ねる
(平成二十四年六月六日)
平成二十四年六月六日(水曜日)十五時十分、東海大学の授業が終わるや、北北東に進路を取って、早々に出立いたしました。目的地は、扇谷上杉定正が寡勢で山内上杉顕定の大軍を撃破した、実蒔原(さねまきばら)の古戦場址です。
最短距離を取るために、相模国三宮の比々多神社(東海大学から徒歩四十分)、上粕屋神社、産業能率大学(同徒歩一時間。上杉定正の館跡があったとされる)のそばを通過しました。
途中、「高部屋小学校前」バス停のすぐ北に位置する「よろい塚」こと鎧塚古墳群(伊勢原市日向・西富岡)に立ち寄りました。
この「よろい塚」には、上杉定正が勝利を収めた実蒔原の合戦に関わる伝承があったようですが、古墳の築造年代は六世紀の終り頃であるとされております。
高部屋小学校の北を北東に進み、渋田川の小さな流れを橋で渡り、いよいよ実蒔原に至りました。
どこかに古戦場址の石碑があるはずですが、見つかりません。地元の人に尋ねましたところ、「わからない」という人もおりましたが、知っている人もいて、たどり着くことができました。前もって予備知識がないと、探し当てるのは困難であるように思われました。目印は、「上堤(かみづつみ)水路」の水車小屋です。これは、遠方から見ても、わかります。この水車の東の奥に、伊勢原市教育委員会が立てた「伊勢原市指定史跡 さねまきばらこせんじょう 実蒔原古戦場」の案内板があり、その南側に、いかにも由ありげな木が立っており、その木の東北側に、「史跡実蒔原古戦場」と刻まれた、石碑というよりも石標が立っております。
実は、石碑を探していた時、木の西南〜西側から、まさにその木の周りに石がいくつも置かれているのを見て、いささか感じるところがあり、休耕田畑の中を突っ切って木のすぐそばまで行ったのですが、裏側(東北側)までは確認せず、戻ってしまっていたのでした。おかげで随分と時間を費してしまいました。
なお、「史跡実蒔原古戦場」と刻まれた石標の傍らには、次の石碑も立っております。
かつてこの原にそびえた三畝塚古墳は
いまを去る千三四百年のころ、この地に
在つた有力な豪族の奥津城である。
いまその故地に碑を建て高部屋の古き
歴史をながく偲ぶよすがとする。
東京大學教授 三上次男撰
昭和三十五年三月 堀江重次書
撰文が、金代女真史等の研究で甚だ名高い三上次男博士であることに、驚きました。思いもかけぬ所で思いもかけぬ人と出会ったような気がいたしました。
まだ夕刻六時ほどでしたので、さらに北へ足を伸ばしました。目指すは七沢(ななさわ)です。
七沢は、現在、厚木市に属し、東丹沢の温泉郷の一つとして知られております。
七沢城は「山城」で、上杉定正の兄弟、七沢朝昌の居城でしたが、実蒔原合戦の直前に、山内上杉勢に攻められて落城しております。現在、山上に七沢病院(七沢リハビリテーション病院)が建てられております。
また、七沢城址の北に位置する吉祥山徳雲寺には、上杉定正の墓があるということです。

七沢温泉入口
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七沢温泉入口 厚木消防署玉川分署前の案内板
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まず先に、徳雲寺を訪れました。「七沢城跡」バス停のすぐ西から北を望みますと、石垣の上にある寺を仰ぎ見ることができます。
寺の関係者は誰も出てこられませんでしたが、上杉定正の墓(伝上杉定正五輪塔)などの写真を撮影させていただきました。
徳雲寺の境内から南を望むと、向いに七沢病院が見えます。七沢城址です。
七沢病院には、城の遺構は跡形も残っておりませんが、石碑が立てられており、歴史を知るためのよすがとなっております。
七沢病院から徳雲寺を望むと、白く塗られた「上杉定正公墓所」の木標を目視することができました。
なお、七沢病院の周辺、数箇所に、徳雲寺にあるのと同様の「七沢城址」の案内板が立てられております。

水汲沢
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「七沢病院下」バス停付近
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まだ暗くなっておりませんでしたので、さらに七沢神社を参拝いたしました。
それから「七沢温泉入口」バス停から、神奈川中央交通のバスに乗って本厚木に出て、帰宅いたしました。
東海大学から七沢まで休むことなく歩きづめでありましたため、たいへんに疲れましたが、充足感がありました。
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