皆に愛されて幸せな岡崎四郎義実翁

 先週水曜日(二〇一二年四月二十五日)、一年半ぶり、三度目の相州岡崎訪問をいたしました。
 東海大学より東へ徒歩四十分程の所にある岡崎の地は、平塚市と伊勢原市の境に位置します。そこには、前期岡崎城の中心地とされる岡崎神社や、大森氏頼の館址と伝えられる大森山紫雲寺(大森氏頼開基)、三浦一族の鎌倉御家人である岡崎四郎義実石橋山の合戦で、郎党文三ブンゾウと共に討死にした佐奈田(真田)与一義忠の父にあたる)の墓と伝えられる墓所、後期岡崎城の中心と見做されている帰命山無量寺など、日本中世史に関連する旧跡があります。しかし私には、授業の終了後、日没までの限られた時間と、二本足の移動手段しかありません。一度に全てを巡るとすれば、どうしても「駆け足」になってしまいます。そのため、前回、二〇一〇年の秋には、十月十四日と二十一日の二度に分けて、岡崎詣でをいたしました次第です。
 東海大学から真田神社経由で岡崎方面に向かうには、大根川が鈴川に合流する地点に架かる「大畑橋」を渡るのが分かりやすいですが、大畑橋より300メートルほど南のあたりから東に農道を歩いて行くと、広大な岡崎城の南区画を構成していたという伊勢原台地南端を一望することができます。やがて、鈴川に架かる「宮下橋」から交差点の信号の先、階段の上に岡崎神社の鳥居が見えてきます。
伊勢原台地の東南部を望む 2010年10月21日撮影
伊勢原台地の東南部を望む (2010年10月21日)
宮下橋から岡崎神社を望む 2010年10月21日
宮下橋から岡崎神社を望む (2010年10月21日)
 「宮下橋」北の交差点の西側には、伊勢原と平塚を結ぶ神奈川中央交通(神奈中)バス「平92」「平9」系統の「岡崎農協前」停留所があります。東側には「岡崎四郎義実像」への案内標識が立っておりますが、足元の歩道の敷タイルに注目です。
岡崎四郎義実像の案内標識 2010年10月21日撮影
岡崎四郎義実像の案内標識 (2010年10月21日)
歩道の敷タイル 2010年10月21日撮影
歩道の敷タイル (2010年10月21日)
 交差点から岡崎神社方向に向かって直進すると、神社への階段の手前で道が左右に分かれます。「岡崎四郎義実像」への案内標識に従って左方に坂道を上がると、右手に平塚市立岡崎公民館の入口があり、岡崎義実像が目に入ります。
平塚市立岡崎公民館 2010年10月21日撮影
平塚市立岡崎公民館 (2010年10月21日)
岡崎四郎義実像 2012年4月25日撮影
岡崎四郎義実像 (2012年4月25日)
 私は、二〇一〇年十月二十一日の岡崎探訪の折に、公民館に初めて入りました。入口右手にある受付に声をかけ、靴を脱いで公民館のスリッパに履き替えました。正面に、「岡崎と文化財」と題した大きなガクが掛かっております。ほかにも、写真、絵、切絵などが掲げられており、訪問者の目を楽しませてくれます。
平塚市立岡崎公民館 2010年10月21日撮影
平塚市立岡崎公民館 (2010年10月21日)
岡崎公民館内「岡崎と文化財」 2010年10月21日撮影
公民館内「岡崎と文化財」(2010年10月21日)
 入口から左手の奥には、タイル張りの「岡ア城蹟圖」が壁を飾っております。地域の歴史を大切にする公民館の姿勢が伝わってきます。
岡崎公民館内 2010年10月21日撮影
岡崎公民館内 (2010年10月21日)
岡崎公民館内「岡ア城蹟圖」 2010年10月21日撮影
公民館内「岡ア城蹟圖」(2010年10月21日)
 特に私の目を強く引いたのは、掲示コーナーに貼られている、子供が描いた大きな絵です。
岡崎公民館内「岡崎公民館のみなさま ありがとうございました」 2010年10月21日撮影
「岡崎公民館のみなさま ありがとうございました」(2010年10月21日)
 不遇の晩年を失意のうちに送った岡崎四郎。ここでは、子供たちからの感謝の手紙が二十通 貼られている真中に、立派な城閣(時代的には合致しませんが)のあるじとなって、我々に穏やかに微笑みかけております。地元の子供たちにも親しまれ、愛されている義実翁。ひつぎに覆われてから遙かの後に訪れた、無上の仕合わせです。
 私は、個人的には、《岡崎義実が、どのような先達たちによる主導のもとで、いつ頃から、如何なる方法で顕彰され、如何にそれが地域に定着するに至ったか》という点について興味を抱きます。他の鎌倉御家人たちや歴史上の人物の事例と比較してみると、さらに面白いと思います。そのような先行研究は、既にあるのでしょうか。あれば是非とも拝読してみたいものです。
岡崎公民館内 2010年10月21日撮影
2010年10月21日の岡崎公民館内
岡崎公民館内 2012年4月25日撮影
2012年4月25日の岡崎公民館内
 ところで、先週の水曜日(二〇一二年四月二十五日)にも岡崎公民館を訪れました。受付の方から、いくつか資料をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
 かの、心温まる義実の絵は、もはや ありませんでした。代わりにと言うわけでは ありませんが、平塚市博物館の平成二十三年度春期特別展「平塚と相模の城館」のポスターが目に とまりました。公民館入口で拝したばかりの岡崎四郎義実像が、大きく写し出されております。これは見逃すわけにはまいりません。見れば会期は平成二十四年五月六日まで。幸い、翌週(五月二日)にも東海大学の授業はありますので、会期内に間に合います。かくて今週の水曜日(二〇一二年五月二日)夕刻、風雨の中、15時43分「東海大学」始発の神奈中「平73」系統バスに乗って「横浜ゴム前」で下車、平塚市博物館に赴き、特別展を観覧いたしました次第です。
岡崎神社から宮下橋を望む 2010年10月14日撮影
岡崎神社から宮下橋を望む (2010年10月14日)
 さて、岡崎公民館の北、台地の上に、鎌倉期における岡崎城の中心とされる岡崎神社があります。
 岡崎神社とその周辺は、岡崎城の「山王郭」と位置づけられております。
 岡崎城に関する最新の情報は、平塚市博物館発行の図録『平塚と相模の城館』に、詳しく、且つ、平易に、述べられており、いろいろと勉強になります。
 それによりますと、「山王郭」の西には、岡崎小学校を含む「八幡郭」があり、更にその西には「御所ヶ谷郭」があり、岡崎義実の居館は「御所ヶ谷郭」にあった可能性が高い、ということです。
岡崎神社 2010年10月14日撮影
岡崎神社 (2010年10月14日)
岡崎神社 2010年10月14日撮影
岡崎神社 (2010年10月14日)
 「山王郭」の東に位置する「宮東郭」の最北部に接した所に「大森山紫雲寺」があります。
 紫雲寺の地は、大森氏頼が小田原城に移る前に館を構えていたとされ、氏頼の没後、彼を開基として紫雲寺が建てられたとの由です。
 境内に入ってすぐの右手に、「大森寄栖庵氏頼公居館址」の石碑があります。碑銘によると、この碑は、檀家の一人が故人供養のために建立したということです。
 紫雲寺から北に200mほど進むと、新道の交差点があります。「西海地さいかいち橋」の手前です。そこには神奈中バス「伊03」系統の「岡崎城址入口」停留所があります。「岡崎四郎義実の墓」への標識に従って更に北へ進むと四ツ辻があります。左折すると「岡崎四郎義實公の墓」、直進すると「岡崎城址・無量寺」。二〇一〇年十月十四日の探訪の際は、そのまま真っ直ぐ歩きました。

大森山紫雲寺 2010年10月14日撮影
大森山紫雲寺 (2010年10月14日)
西海地橋から無量寺方面を望む 2010年10月14日撮影
西海地橋から無量寺方面を望む (2010年10月14日)
 道はやがて、ツヅラオリと言うには大袈裟ですが蛇行する上り坂となります。上りきった先に左に折れる道があり、その左手に「岡崎城址(無量寺)」と書かれた入口が見えてきます。
 無量寺は、室町期、十五〜十六世紀の岡崎城の中心として知られておりますが、図録『平塚と相模の城館』によりますと、「この時期の岡崎城は一般に現在の無量寺周辺を指すことが多いが、人為的な造成の痕跡は伊勢原台地南端部全域に見られる。これをすべて城域とする見方もあり、総合調査ではこの立場を取っている」ということです。ちなみに、無量寺は、平塚市でなく伊勢原市側に位置しております。

帰命山無量寺 2012年4月25日撮影
帰命山無量寺 (2012年4月25日)
無量寺境内 2012年4月25日撮影
無量寺境内 (2012年4月25日)
 無量寺の入口から北に向かう道は、ゆるやかに左に曲がりつつ下ります。道が右曲がりになる所に、「岡崎四郎義実の墓」への標識があります。右へ左へと曲がりくねる細い山道を道なりに進むと、やがて視界が開け、なだらかな小盆地の眺望が広がります。
 先週の四月二十五日、私は上記の経路を逆に歩いて、のどかな春の光景を目にいたしました。下掲の写真は、その時の撮影です。写真中央、「伊勢原ゴルフセンター」の高い柵の左下に見える茂みのもとに、目指す「岡崎四郎義実の墓」があります。
伝岡崎義実墓 遠望 2012年4月25日撮影
伝岡崎義実墓 遠望 (2012年4月25日)
 さて、辻に出、あまり広くない舗装道路を標識に従って進みます。しばらく行くと、右手に「岡崎四郎義實公の墓 入口」と記された標識が現れます。
 坂を下った先に、岡崎義実の墓と伝えられる墓所があります。
伝岡崎義実墓 入口 2010年10月21日撮影
伝岡崎義実墓 入口 (2010年10月21日)
伝岡崎義実墓 2012年4月25日撮影
伝岡崎義実墓 (2012年4月25日)
 墓を囲む木々の中には、学問の聖木として知られているという「カイノキ」があるとの由です。先週四月二十五日の訪問時は、若葉の季節ゆえ、それほどでもありませんでしたが、「昼なお暗し」という言葉が よく あてはまります。
伝岡崎義実墓 2012年4月25日撮影
伝岡崎義実墓 (2012年4月25日)
 二〇一〇年十月十四日に初めて訪れた時は、既に日も短い晩秋の曇天の16時40分、墓所のあたりは かなりの暗さで、二枚の説明板も たいへんに読みにくかったです。撮った写真を帰宅後に確認してみましたところ、読めるように映っておりました。
 そこには縦書きで、
    皇太子浩宮殿下のご歴訪
       昭和五十四年九月十二日(一、九七九年)学習院大学
       第二学年ご在学中に岡崎城址(現無量寺)と
    この墓所をご歴訪
と書かれております(抬頭等、原文のママ)。
 三浦党の庶子に過ぎない無位無官の御家人、岡崎四郎。もし魂魄があれば、自身の墓所(とされる墓)に、のちに皇太子となる皇孫殿下が親しく到りましたことに、如何なる感慨を抱いたことでしょうか。
 とれはともかく、殿下の御来訪は、地元岡崎の方々が岡崎義実をあらためて見直す機縁となった可能性があるかも知れません。日本各地における御足跡が地域社会の文化に及ぼした影響を考察することは、社会学的に見ても興味深いのではないか、と愚考いたします。
伝岡崎義実墓を望む 2010年10月21日撮影
伝岡崎義実墓を望む (2010年10月21日)
伝岡崎義実墓を望む 2012年4月25日撮影
伝岡崎義実墓を望む (2012年4月25日)
 なお、伝岡崎義実墓の南に位置する台地の鞍部では、施設建設のための土木作業が行われております。せめて墓の東側の畑地の広がりが破壊的な開発から永く免れることを、勝手ながら心より願っております。
(2012.5.5.記)
伝岡崎義実墓付近の野仏 2012年4月25日撮影
伝岡崎義実墓に程近き崖の中にたたずむ野仏 (2012年4月25日)

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