山川水野家墓所(水野越前守忠邦等の墓)

山川水野家墓所遠景
山川水野家墓所遠景(左)

 2023528日日曜日、曇天で気温も高くなく、絶好の自転車日和でしたので、例の如く四十数年モノの自転車にまたがって北へ向かい、長塚節の生家を参観した後、さらに結城市南部、山川の水野越前守忠邦の墓所にまで足を伸ばしました。
 午前1045分に出発し、芽吹大橋を渡り、県道岩井野田線(142号線)で(旧)岩井市小山を経て(旧)岩井市街地に入り、県道結城坂東線(20号線)を進み、平将門ゆかりの国王神社を参拝しました。

国王神社
国王神社
 
旧猿島町沓掛
旧猿島町沓掛

 そして、(旧)猿島町の坂東市沓掛(くつかけ)を経て、飯沼川を「上高橋」で渡り、東仁連川を小さな「香取橋」で渡り、(旧)石下町鴻野山を経て、岡田日枝神社(小さな普通の神社です)を参拝、昼頃に(旧)石下町国生(こくしょう)の桑原神社を参拝し、そこから程近き長塚節の生家を参観しました。

桑原神社
桑原神社
 
長塚節の生家
長塚節の生家
 
長塚節の生家
長塚節の生家(長屋門)

 参観終了時点でまだ1330分頃、時間的に水野越前守忠邦の墓所に行くのも十分に可能と判断し、急に思い立ちまして、鬼怒川の西側を更に北上、下妻市(旧千代川村)を通過し、八千代町粟野の滝尾神社の付近で、ちょうど小麦の収穫が行われていたのを眺めました。

粟野滝尾神社
粟野滝尾神社
 
粟野滝尾神社付近

 八千代町野爪では、「常陸国十六郷総鎮守」を称す野爪鹿嶋神社の門前にどかーんとそびえ立つ赤い大鳥居から奥に向かって拝礼したただけで先を急ぎ、結城市南部の山川の地に至りました。
 山川では、まず結城寺(清浄蓮華山)に参詣します。

結城寺
 
結城寺
結城寺

 次いで山川不動尊(明王山不動院大栄寺)へ。山川不動尊はちょうど縁日で屋台がたくさん出ており、休日とも重なっていたためか人も多く、たいへんなにぎわいで驚きました。

山川不動尊
 
山川不動尊
 
山川不動尊
山川不動尊(人混みが途切れたところを撮影)

 なお、付近には綾戸城址もありますが、何せ突然に思い立っての訪問ゆえ、事前に"予習"を全くしておりませんでしたため、その存在に気付いでおらず、訪れませんでした。またいつか山川の地を再訪する機会もあることでしょう。
 山川不動尊の入口には水野忠邦の墓所の案内表示もあります。屋台が立ち並ぶ道を、自転車を押して、人込みをかきわけるようにして通り抜けます。

山川不動尊門前
山川不動尊門前(人混みが途切れたところを撮影)

 さらに三つの案内表示の指示どおりに先を進みますと、ようやく台地の上の墓所が見えてきました。山川不動尊からは、それなりに距離があります。

山川水野家墓所入口

 水野越前守忠邦の墓を含む山川水野家墓所には、立派な公衆便所もあり、観光地として整備されてはおりますが、ひとけがなく閑散としており、やや荒れたような雰囲気でした。説明板も、十三年前のものとは思えないほど錆が出ており、取り替えの時期に達しております。

山川水野家墓所

山川水野家墓所

 墓所には、水野忠邦の墓を始めとする山川水野家歴代の墓がずらりと並んでいます。江戸時代の名門譜代大名にしては意外と小ぶりです。

山川水野家墓所
水野忠邦の墓
 
山川水野家墓所
水野忠邦(左)・忠鼎(中央奥)・忠光(右)の墓
 
山川水野家墓所
水野忠春(右)・忠善・忠元・忠盈・忠之・忠輝(左奥)の墓

 山川不動尊のにぎわいとは一転、水野越前守忠邦のお墓参りに来ていたのは私一人だけで、その落差が非常に大きく感じられました。もっとも、「天保の改革」を主導した忠邦には、騒がしいよりも静謐な環境の方がふさわしいのかも知れませんが。

山川水野家墓所

 山川水野家墓所を1530分頃に離れ、帰途に就きましたが、そこから先が、本当に長かったです。県道筑西三和線(23号線)、さらに尾崎境線(126号線)を南下していきますと、尾崎境線(126号線)は新道に変わり、左手に日野自動車古河工場がありました(旧三和町)。これは「名崎送信所」の跡地で、2kmほど南東に位置する「八俣送信所」と共に、「終戦」の「玉音放送」が送信されたとの由です。
 尾崎境線(126号線)の新道の突き当り(古河市恩名)を右折して県道つくば古河線(56号線)の新道で東仁連川(恩名橋)、飯沼川、西仁連川(大網橋)を渡ったところを左折して米倉(こみくら)交差点を右折して尾崎境線(126号線)に入りましたが、実は、県道つくば古河線(56号線)の新道に並行して尾崎境線(126号線)も東仁連川・飯沼川(名崎橋)と西仁連川(米倉橋)を渡っており、そちらの方が距離も短く道も平坦でした。
 尾崎境線(126号線)を清水交差点で左折、あとは県道中里坂東線(125号線)をひたすら南下しましたが、これがまた距離がありました。
 坂東市(旧猿島町)に入り、沼ノ田の追分を左進すると逆井(さかさい)城跡公園に至りますが、もちろん立ち寄りません。

沼ノ田
沼ノ田の追分

 下新田、前山、菅谷を過ぎて、菅谷南で圏央道をくぐり、生子(おいご)、生子南(道正内)、借宿北、借宿、駒跿(こまはね)、と進みますが、行けども行けども、という感じです。

菅谷
旧猿島町菅谷

 「岩井バイパス」との交差点付近からは新道もありますが、旧道の中里坂東線(125号線)をそのまま南下、1715分頃に(旧)岩井市街地にようやく到達し、市街地を抜けた少し先の「総合文化ホール」の平将門の銅像のもとで最後の休憩を取りました。

平将門像

 往路と同じ県道岩井野田線(142号線)で戻りましたが、その途中、かつての「小山の渡し」のあたりで利根川の土手に出ました。北に望む利根川は実に堂々としており、大いに風格があります。

旧岩井市小山

 そこから利根川の土手の自転車道を川下に向かい、芽吹大橋に達しました。坂東市(旧猿島町と旧岩井市)をほぼ縦断した次第ですが、これは本当に距離がありました。
 こうして無事に千葉県野田市に戻り、1820分頃に帰宅しました。
 結城市山川の地からは、寄り道をしなければ、四十数年モノの老朽自転車でも、せいぜい三時間足らずの行程ではありますが、感覚的には非常に遠く思われました。単調な道が多かったためでしょう。
 このたびは、なるべく起伏の少ない平坦な経路を選んで走りましたので、意外と疲労しておらず、その後の筋肉痛も全くありませんでした。「老いてますますさかん」で、今こそ足腰が最も丈夫であるのかも知れません。
 なお、私が通りかかった各所では、南アジア系外国人の労働者たちの姿があちこちで目立ちました。山川水野家墓所のすぐ近くで草刈り作業に従事していた南アジア系外国人の皆さんは、通りがかりの私に対して大変ににこやかに挨拶の声をかけてくれました。その雰囲気から、日本での農村暮らしをそれなりに楽しんでいる様子が窺われます。なんでも坂東市と下妻市には、それぞれヒンドゥー教寺院もあるのだそうです。本当に「時代」が変わりました。
 しかし、円安と海外における物価上昇、また国際環境の激変によって、近い将来、また「時代」は大きく変わることでしょう。

山川水野家墓所
山川水野家墓所遠景(中央)

2023.6.25.記。2024.4.15.十二字追加



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