〔シンポジウム報告 配布資料〕
赤坂恒明
「ペルシア語・チャガタイ語諸史料に見えるモンゴル王統系譜とロシア」


 次に掲げるのは、二〇〇九年十月三十一日・十一月一日に、北海道大学スラブ研究センター大会議室で開催された、北海道大学スラブ研究センター 共同利用・共同研究拠点公募プログラム・シンポジウム「北西ユーラシア歴史空間の再構築 ──ロシア外部の史料を通じてみた前近代ロシア世界──」における標記のシンポジウム報告において配布した資料である。
 本報告の内容は、『北海道大学スラブ研究センター 共同利用・共同研究拠点公募プログラム・シンポジウム 北西ユーラシア歴史空間の再構築 ロシア外部の史料を通じてみた前近代ロシア世界 報告書 2009年10月31日(土)・11月1日(日) 北海道大学スラブ研究センター大会議室』(名古屋, 2010.3)の pp.43-91 に改訂版が掲載されているので、そちらを参照していただきたい。



系図の系線が整わない場合は、フォントを下げてください。
(本文)
 ○ 「インド系統」諸本『ムイッズル=アンサーブ』におけるトクタミシュ一門の系図
 ○ パリ本『ムイッズル=アンサーブ』(MA/P)におけるトクタミシュ一門の系図
 ○ パリ本『ムイッズル=アンサーブ』(MA/P)におけるノムカン裔の系図
 ○ 『TGNN』におけるトゥメン王家を図示化した系図
 ○ 『TGNN』におけるカザン王家を図示化した系図
 ○ 『TGNN』におけるクリム王家を図示化した系図
 ○ 『TGNN』における小ムハンマド裔を図示化した系図
 ○ 『ビロードの書』Бархатная Книга 第三章
末尾


ペルシア語・チャガタイ語諸史料に見えるモンゴル王統系譜とロシア
赤坂恒明 (内蒙古大学蒙古学研究中心専職研究員・早稲田大学モンゴル研究所客員研究員)
2009.10.31.
「北西ユーラシア歴史空間の再構築
──ロシア外部の史料を通じてみた前近代ロシア世界──」
於北海道大学スラブ研究センター

はじめに

 ロシアがモンゴル帝国の支配下に入り、所謂「タタールのくびき」のもとに、モンゴル人による圧政に苦しめられた、という言説は広く知られているが、近年、それは多分に虚構に基づくものである、という事実が明らかにされている。一事が万事、このことからも推察されるように、モンゴル人とその後裔 ── いずれもロシア人に「タタール」と呼称された ── によるロシア支配については、通説的な理解と実態との間に、少なからぬ差異が存在している。それは、モンゴルのロシア支配を否定的に見る場合も、肯定的に見る場合も、同様である。
 しかし、ソ連邦の崩壊後、ここ十数年ほどの間に、ロシアを支配したモンゴル政権、所謂「金帳汗国(キプチャク汗国)」についての研究は、汗牛充棟、応接に暇なき程に増加した。日本においても、関連する学術論文・学術書・翻訳が次々と現れ、研究環境は劇的に変化した。
 本日の報告では、モンゴル帝国とその継承諸政権の歴史を研究する立場から、ロシアを支配したモンゴル政権の諸王統に関する記載のある史料を取り上げ、そこに含まれる系譜上の諸問題を検討する。なお、「中央アジア」、および、最近よく使われる「中央ユーラシア」という概念からは、モンゴル地域が欠落することが少なくないが、ここではモンゴルをも包含した概念として理解したい。

ジュチ裔諸政権とペルシア語・チャガタイ語系譜史料

 ユーラシアの諸地域を支配下に置いたモンゴル帝国には、周知のように、いくつかの下位諸政権が分立していた。帝国全体の西半を統治したのは、チンギス・ハンの長男ジュチの子孫(キプチャク草原等の所謂「金帳汗国」「キプチャク汗国」)と、次男チャガタイおよび三男オゴデイのそれぞれの子孫(トルキスタン南部等の所謂「チャガタイ汗国」)と、四男トルイの嫡出の三男フレグの子孫(イラン地域等の所謂「イル汗国」)であった。
 これらの諸王統のうち、モンゴル帝国解体後も長く存続したのは、ジュチ裔とチャガタイ裔であり、ロシアとの関係が深かったのは、前者、ジュチ裔であった。
 ジュチ裔の諸政権は、少なからぬ研究者によって「ジュチ・ウルス(ジョチ・ウルス)」と称される。モンゴル帝国時代の「ジュチ・ウルス」は、研究者によって「金帳汗国」または「キプチャク汗国」と称されるが、この「金帳汗国」という概念に問題があることは、既に報告者が明らかにしたとおりである(赤坂 2004)。それはともかく、通説的な歴史叙述に従うと、「金帳汗国」の分裂後(後期金帳汗国とも称される)、キプチャク草原の西部とその周縁地域には、「金帳汗国」の正統政権として位置付けられる「大オルダ」(大帳)、ヴォルガ川中流域の「カザン汗国」、カザンから逃れてモスクワ大公に従属した王族の封領に始まる「カシモフ汗国(皇国)」、ヴォルガ川下流域の「アストラハン汗国」、クリミア半島と現在のウクライナ南部の草原地帯における「クリム(クリミア)汗国」が成立した。
 また、キプチャク草原の東部とその周縁地域には、西南シベリアの「テュメン(チュメニ)汗国」──「シビル(シベリア)汗国」は、その系統に属する ──、西トルキスタン南部の「シャイバーニー朝」、トルキスタン北部の「カザフ汗国」が分立した。
 これら、ジュチ系の諸政権のうち、中世ロシアとの関係が特に深いのは、言うまでもなく、「金帳汗国」、「大オルダ」、及び、カザン・アストラハン・クリムの「タタール」三汗国である。
 これらの諸政権の王統については、長らく諸説が対立していたが、日本では、堀川徹氏が当該の問題に先鞭をつけ(堀川 1980)、それを発展させる形で報告者が史料の記載を検討し、ジュチ裔の諸王統のうち、重要な系統の系譜を確定した(赤坂 2005)。
 モンゴル帝国王統研究の重要性は、杉山正明氏、松田孝一氏、村岡倫氏の諸研究を見れば瞭然たる所である。モンゴル帝国解体後の内陸アジアについて見ても、モンゴルの王統については、和田清、森川哲雄氏、岡洋樹氏、中村篤志氏等の、カザフの王統については野田仁氏の諸研究において、何らかの形で検討されており、王統の研究が、内陸アジアの遊牧民の国家構造のみならず社会構造を明らかにする上で必要不可欠であることは、明々白々である。筆者も、同様の問題意識のもとに、ジュチ裔の系譜を検討したのであった。
 その際に使用したのは、ペルシア語史料およびチャガタイ語史料におけるチンギス・ハン裔の系譜情報である。それらは、網羅的とまで言い得るかはともかく、かなり詳細な、まとまった系譜情報を伝えている(各史料に関する研究文献については、赤坂 2005 の該当箇所を参照されたい)。
 モンゴル帝国期を代表する史料の一つである、ラシードッディーンの『集史』(rašīd al-dīn, jāmi` al-tawārīx)は、ペルシア語で書かれた世界史(および世界地理)の一大編纂物である(アラビア語版もあるが、ペルシア語からの翻訳である)。その第一巻「モンゴル史」における各本紀(dāstān)は、構成上、三部形式となっており、その第一部の主要構成部分が系譜情報である。その系譜情報は、原則として、文章による系譜と、図示化された系図との、両形式によって記載されている(但し、本紀のなかには、もとより系図がついていないものもある)。それぞれ、異なった典拠に基づいていると推定されており、両者の記載内容には、部分的に相違が見られる場合もある。なお、図示化された系図は、多くの諸写本には書写されず、刊本にも載せられていないことが多い。ジュチ裔の系譜情報を記す「ジュチ紀」第一部は、北川誠一氏による日本語訳がある(北川誠一 1996)。
 この『集史』の増補版の一巻を構成する目的のもとに編纂が始められ、一旦、完成した後、さらに記載に増補が施されたペルシア語系図集が、『五族譜』(または『五分支』)(šu`ab-i panjgāna)である。その「モンゴル分支」は、『集史』における図示化されたモンゴル王統系図に基づき、それを増補したものであり、チンギス・ハン一門の系図と、部将・后妃・側室の表から成る。王族の人名の多くは、アラビア文字の他、ウイグル文字による表記も加えられており、表題や注記にウイグル文字によるモンゴル語が書かれた部分もある。その「ジュチ分支」は、報告者によるラテン文字転写と日本語訳がある(赤坂恒明 2005, pp.331-363)。
 これら二史料における三種類の系譜情報が、モンゴル帝国期におけるモンゴル王統に関する基本資料である。
 モンゴル帝国の解体後も、チンギス・ハン裔の系譜情報を含む系図史料が編纂された。即ち、西トルキスタン南部のマー・ワラー・アンアフルを中心に繁栄したチムール朝のもとで編纂された『ムイッズル=アンサーブ』(高貴系譜)(mu`izz al-'ansāb fī šajarat salātīn muGūl)である、この、ペルシア語による、図示化された系図は、『五族譜』「モンゴル分支」を増補したものであり、チンギス・ハン一門とチムール一門の詳細な系譜が記されている。「トルコ系統」と「インド系統」の二つの写本群があり、前者は、チムール朝ヘラート政権のもとで増補され、後者よりも詳細な系譜情報を伝えている。
 チムール朝に代わって西トルキスタン南部を支配したウズベクの「シャイバーニー朝」── ジュチ裔諸政権の一つ ── のもとで編纂された、チャガタイ=テュルク語による年代記史料、『勝利の書なる選ばれたる諸史』(tawārīx-i guzīda[-'i] nusrat nāma)[TGNN]は、『集史』を主要典拠としてチャガタイ語訳し、さらに大幅に増補したものである。そこには、文章形式によるモンゴル王統系譜が含まれており、ジュチ裔に関する系譜情報は、分量的に、『ムイッズル=アンサーブ』を凌ぐ。
 これらの系譜資料は、すべて、記載内容および叙述形式の両面において、ラシードの『集史』「モンゴル史」の影響を濃厚に受けている。『集史』「モンゴル史」は、モンゴル帝国史研究に重要であると同時に、「ペルシア語文化圏」における後世の歴史編纂に与えた影響も甚だ大きい。
 上記以外にも、ある程度まとまった分量のチンギス・ハン裔系譜情報を伝えるペルシア語・チャガタイ語史料はいくつか存在するが、それらのうち、本報告において言及する必要があるものについては、当該の箇所において述べる。
 これらの系譜史料のうち、『ムイッズル=アンサーブ』と『TGNN』には、「金帳汗国」の解体に伴って成立したとされ、後にロシアによって滅ぼされることとなる「タタール」三汗国の初期の王統に関する情報が含まれており、それらは、中世ロシア史を研究する上でも重要なものである。そこで、次に、それら両史料における系譜情報について検討する。

『ムイッズル=アンサーブ』のジュチ裔系譜情報より

 まず、『ムイッズル=アンサーブ』。本史料は、『五族譜』同様、系図と、部将・后妃・側室の表から成る。現在、五写本の存在が知られており、そのうちの二写本(MA/L, MA/L14306)には、君主として扱われている人物に肖像画が描かれている(但し、MA/L14306 には描かれずに空欄となっている部分が多い)が、三写本(MA/P, MA/A1, MA/A2)には、「某某の絵」という表題と、肖像画が描かれるべき空欄があるのみである。君主扱いされていない人物は、男性は円形、女性は四角形の枠内に人名が記されている。これらの人物には、注記が付けられているものもある。
 肖像画の信憑性についてはともかくとして、本史料は、チムール朝史研究において、同時代史料として重要視され、間野英二氏、J.E.Woods 氏、安藤志朗氏、川口琢司氏、その他の諸研究者によって、基本史料の一つとして現に使用されている。また、本史料は、モンゴル帝国史の研究においても、杉山正明氏による、バイダル ── チャガタイの末子で、バトの東欧・中欧遠征に参陣した ── の孫チュベイの一門を中心とする、元朝に帰属したチャガタイ一門の研究、村岡倫氏によるオゴデイ裔の研究、また、報告者によるカラホト(ハラホト)漢文文書等に現れるモンゴル王族の比定、その他において使用されており、その史料性については、高い評価がなされている。
 本史料における系譜情報の一部は、ブロシェの『集史』「モンゴル史」の校訂本(Djami el-Tévarikh: Histoire générale du monde par Fadl Allah Rashid ed-Din. E.Blochet(ed.).T.U. Leiden and London,1911. 「オゴデイ・ハーン紀」から「テムル・ハーン紀」まで)において、注の中で、その記載内容が引用され、ティーゼンガウゼンの『金帳汗国史料集』の第二巻において、やはり、注の中で、その系譜情報がロシア語で記載されている。後者は、ペルシア語を解さない「金帳汗国」史研究者によって、しばしば利用される。しかし、ブロシェとティーゼンガウゼンにおいて用いられているのは、五写本のうちパリ写本のみである。なお、このパリ写本の影印とロシア語訳が、最近、カザフスタンで刊行され(MA/Voxidov)、本写本の使用が非常に容易になった。安藤志朗氏の研究(および、報告者の補足)によると、本史料の五写本は、二つの写本群に分類される。即ち、「トルコ系統」(パリ写本)と「インド系統」(他の四写本)である。前者の方が、固有名詞のアラビア文字表記が正確であり、様式的にも整っており、モンゴル王統の系譜情報も増補によって豊富であるため、モンゴル王統研究においては、専ら前者、「トルコ系統」のパリ写本が用いられてきた。しかし、パリ写本には、誤写に起因する誤りが若干存在しており、「インド系統」の諸写本をも参照する必要があることを、既に報告者は指摘している。
 さて、『ムイッズル=アンサーブ』におけるジュチ裔の記載は、「インド系統」諸本と比べ、「トルコ系統」のパリ本には、大幅な系譜情報の増加がある。それは、特に、「金帳汗国」分裂期にかかる箇所において著しい。即ち、ジュチの十三男(ラシードによる)のトカ=テムルの子孫の諸系統のうち、「カザン汗国」王統の祖ウルグ=ムハンマドの諸子、「クリミア汗国」のハージー=ギレイ、ノムカン裔 ──「アストラハン汗国」の王家は、この王統に属する ── の王統は、インド系諸本には記されていないが、パリ本には記載がある。
 パリ本『ムイッズル=アンサーブ』におけるジュチ裔系譜情報の下限は、「タタール」三汗国の成立期に相当する。それらのうち重要な人物を挙げると、次のとおりである。
 ヘラートのチムール朝宮廷において把握されていた、パリ本『ムイッズル=アンサーブ』における増補された系譜情報には、女子に関する情報が少なからず含まれている。その背景としては、非チンギス裔チムール家には、キュレゲン/クルゲン(駙馬)となるべくチンギス家女性に関する情報が必要とされていた、と考えることができるように思われる。また、「クリミア汗国」のハージー=ギレイの兄弟と従兄弟が、比較的詳細に記載されている。ハージー=ギレイの一族は、遅くとも、彼の伯叔父ダウラト=ベルディ以来、クリミアとの関係が深く、ジュチ・ウルスの中でも、その領域の最西部を根拠地としていた一門である。彼らに関する系譜情報が、ホラーサーン地方のヘラートにまで伝わっていたという事実は、当時における情報の伝播を考える上で、興味深い。

『勝利の書なる選ばれたる諸史』[TGNN]のジュチ裔系譜情報より

 次に、『TGNN』。本史料は、西トルキスタン南部のマー・ワラー・アンナフルを中心とする諸地域を支配した「シャイバーニー朝」の君主、ムハンマド・シャイバーニー・ハン自身が編纂に関わったと考えられているチャガタイ文年代記であり、所収のチンギス・ハン裔系譜は、当時、「シャイバーニー朝」の宮廷において把握されていた系譜情報を反映したものであると考えられる。
 本史料は、「シャイバーニー朝」史研究や「カザフ汗国」史研究では、重要な基本史料の一つとして位置付けられている。また、ジュチ・ウルス史研究では、ジュチ・ウルス東部の君主にして、カザフ王統の祖にあたるオロス・ハンの出自を明らかにするために、堀川徹氏によって用いられた(堀川 1980)。なお、この堀川氏の研究は、日本におけるジュチ裔王統研究の前提となり、川口琢司氏、報告者に至るまで、堀川氏の研究を出発点として、これを継承する所が多いのであるが、いずれも、『TGNN』の系譜情報に高い史料性を認めている。
 尤も、モンゴル帝国の初期に関する記載については、政治的歪曲の認められるものが存在することが、確認されている。しかし、本史料における、元朝に帰属したチャガタイ一門の系譜情報の分析によって、従来不明であった、カラホト(ハラホト)周辺を根拠地とした寧粛王家の系譜を確定し、ウイグリスターンを統治したと推測される柳城王家の系譜とその活動を推測することができ、モンゴル帝国史研究の上でも、本史料が重要な史料的価値を有することが明らかにされている(赤坂恒明 2007)。
 『TGNN』におけるジュチ裔系譜情報は、パリ本『ムイッズル=アンサーブ』より二・三世代ほど下限が下り、「金帳汗国」分裂後、ジュチ裔諸政権が再編成された直後の王統も記載されている。従って、本史料は、「タタール」三汗国史研究のためには、『ムイッズル=アンサーブ』に勝るとも劣らない重要性を持つ。
 ところが、ソ連邦の「金帳汗国」史研究者は、管見の限り、本史料を、ほとんど使用していない。
 そもそも、『TGNN』におけるジュチ裔の系譜情報を含む部分は、現在、ロンドン写本[TGNN/A]とサンクトペテルブルグ(SPb)写本[TGNN/B]の二写本を使用することができる。本史料のジュチ裔系譜情報の大部分は、『カザフ汗国史料集』において、V.P.ユーヂンによってロシア語訳されている(TGNN/MIKX)。これは、SPb写本を底本としており、ロンドン写本を参照していない。SPb写本には、本文の欠脱・錯誤(テキスト本文への注釈部分の混入など)があり、ユーヂンの露訳は、それをそのまま踏襲している。そのような誤りが、「大オルダ」(および「アストラハン汗国」)の王統の箇所に見られる。「金帳汗国」史研究において本史料が顧みられなかった理由の一つは、その誤写によって、史料全体の史料的価値が判断されたためであるかも知れない。
 ロンドン写本を底本とするアクラモフ刊本(TGNN/Akramov)は、SPb写本の誤写を訂正しているが、もとより状態が悪いロンドン写本の、さらにまた写りの悪い写真を本文として掲げ、其処に校注を施したものであり(校注の注記箇所の誤りも見られる)、テキストは、部分によっては甚だ読みにくく、使用不能の箇所も少なくない。ジュチ裔の部分も、多くの箇所において、判読が極めて困難である。
 そこで、報告者は、拙著の史料編に、本史料のジュチ裔の大部分の校訂テキストと日本語訳を載せた(赤坂恒明 2005, pp.365-515)。そこでは、人名を何処で切るか、注釈部分は何処まで及ぶか、を推定するために、『ムイッズル=アンサーブ』のほか、本史料と同系統の系譜情報を伝えるペルシア文史料、マフムード・イブン・ワリーの『神秘の海』(mahmūd ibn amīr walī, bahr al-'asrār fī manāqib al-'axyār)── ジャーン朝(アストラハン朝)ブハラ汗国において編纂された ── 等の記載をも参照し、『TGNN』原テキストの復元に努めた。
 さて、『TGNN』における系譜情報は、既述のように、パリ本『ムイッズル=アンサーブ』より二・三世代ほど下限が下るものであるが、それらのうち、中世ロシア史との関連で重要な人物は、次のとおりである。
 『TGNN』のジュチ裔系譜には、「シャイバーニー朝」成立以前にキプチャク草原東部で活躍したシバン裔のハンたちや、「カザフ汗国」最初期の系譜も記載されており、トルキスタン史を研究する上でも重視されている。なお、上述の「テュメン汗国」のイバク・ハンは、ヒヴァ汗国の君主にして文化人であったアブル=ガーズィーによるチャガタイ文史料『テュルク系譜』(abū al-Gāzī bahādur xān, šajara-'i turk)によると、「シビル汗国」のクチュム・ハンの祖父にあたる。
 このように、『TGNN』は、「金帳汗国」の分裂後に成立したとされる諸政権の初期の王統を、かなり詳細に記録に留めており、長らく「金帳汗国」史研究に用いられない状態が続いていたことが、まこと不審に思われる。今後、系譜以外の部分も含め、正確な校訂テキストが現れることが望まれる。

ロシア系譜書との比較・検討

 さて、以上、『ムイッズル=アンサーブ』(パリ本)、『TGNN』という、内陸アジアで編纂された二つの史料におけるジュチ裔系譜情報に注目し、それらのうち、中世ロシアとの関係が深い部分を紹介してみた。しかし、ここで注意しなければならないことがある。それは、両史料には、系譜上の人物について、彼らの支配地域がどこであり、彼らがいかなる民を統治していたか、という情報が一切記載されていない、という点である。従って、当然、これらの系譜史料からは、「大オルダ」「カザン汗国」「アストラハン汗国」「クリム汗国」等々の諸政権の姿は、全く窺い知ることができない。そこには、あくまでも、系譜に記された君主・王族が、ジュチ裔のいずれの王統に属するか、という系譜上の興味しか反映されていないが如くである。
 これに対し、ロシアに伝えられているジュチ裔に関する系譜史料には、王統が、政権もしくは支配地域に基づいて分類されている。
 ロシアの系譜史料のうち、最初の公的な系譜書は、補任庁(Razryadnïy prikaz)で1555年に編纂された『統治者の系譜書』(Gosudarev rodoslovets)である(Bïčkova 1975; Vásáry 2008)が、1682年に補任庁に設置された系譜院(Palata rodoslovnïx del)において増補・改訂され、1688年に完成した『ビロードの書(バルハトの書)』(Barxatnaya kniga)が現存する(濱本真実 2009, pp.108-109)。その第三章がジュチ裔の系譜であり、「アストラハン皇帝の一族」「クリム皇帝の一族」「カザン皇帝の一族」の三節で構成される。
 それらに記載されている人名には、明らかに誤写(または刊本の誤植もあるかも知れない)による誤りが見出されるが、それらを復元すれば、パリ本『ムイッズル=アンサーブ』や『TGNN』の系譜情報と合致する部分が多く、さらに、それらを補強・補足するものも少なくない。
 例えば、「アストラハン皇帝の一族」の最初に挙げられる「テミル=ベクブラン Temir Bekbulan」の「Бекбуланъ(Bekbulan)」は「Бекъ уланъ(Bek ulan)」の誤りであると考えられる。「ulan」は、『TGNN』には「ūlān」または「ūGlān」と現れ、後者の綴形は、ペルシア語・チャガタイ語の諸史料においてしばしば見られる。これは、チンギス・ハンの男系子孫に対して用いられた称号であるが、ハンの近親が「スルターン sultān」の称号を用いるようになると、ハンの血統から離れた王裔たちに対する称号となった(赤坂恒明 2005, p.103; p.277, n.24)。尤も、「ulan」は、カザン皇帝シャー=アリー(Царь Шаалей Шаавлеярович Казанской)の7041年(1533年)11月17日発令文書に、「我々のウランたち(ulanï)および公たち(knyazi)およびムルザたち(murzï)(наши уланы, и князи, и мурзы)」云々と現れており(V.-Zernov 1863, pp.280-281. cf.Halperin 2008, p.180)、そこでは「皇子」の意味で用いられているようである。また、「Temir Bek」という人名は、『TGNN』に「tīmūr bīk」、『神秘の海』に「tīmūr bīk xān」と見える。パリ本『ムイッズル=アンサーブ』には「tīmūr xān」とあるが、これは「bīk」が脱落したものであると考えられる(赤坂恒明 2005, p.89)。このテムル=ベク・ハンは、ジュチ・ウルス東部政権の君主オロス・ハンの没後、一代おいて即位した人物であるが、チムール朝期の年代記史料である、シャーミー nizām al-dīn šāmī およびヤズディー šaraf al-dīn `alī yazdī の両『勝利の書』(zafar nāma)には「テムル=メリク(tīmūr malik)」とあり、人名の後半部が異なっている。アラビア文字を筆写した場合、付点のない「bīk」の綴形「bbK」と「malik(MLK)」は類似しており、誤写が生じやすい。『ビロードの書』から、この人名は「テムル=メリク」ではなく「テムル=ベク」であったことが確認される。
 一方、パリ本『ムイッズル=アンサーブ』や『TGNN』の系譜情報とは矛盾しているものも含まれている。即ち、『ビロードの書』の「クリム皇帝の一族」に、
とあり、この部分は、刊本における句読点を無視して読めば、
と解釈することが可能であろう。タフタミシュ皇帝は言うまでもなくトクタミシュ・ハン、ドゥラト=ペルディ=ウランはダウラト=ベルディ、アズィギレイはハージー=ギレイである。パリ本『ムイッズル=アンサーブ』や『TGNN』に従うと、ダウラト=ベルディ・ハンはトクタミシュの「はとこ」の子にあたるので、親族関係がやや遠いようにも思われる ── トクタミシュよりも「カザン汗国」王統の方が親族関係では近い ── が、「一族」であることは間違いない。しかし、ハージー=ギレイはダウラト=ベルディ・ハンの従子(甥)にあたるので、『ビロードの書』の系譜は、血統としては不正確である。しかし、トクタミシュとの関係が強調され、ダウラト=ベルディ・ハンの子孫とされているのは、「クリミア汗国」王統の成員たちの観念を反映したものである可能性が十分にある。『ビロードの書』に記載されているクリム王族には、モスクワに亡命した人物も含まれているので、当該の系譜情報も彼らによって伝えられたものがあると考えられよう。
 これと類似した系譜は、「クリミア汗国」側の史料にも見られる。即ち、クリム人ハージー・メフメド・セナーイー(qirīmlī hājī muhammad thanā'ī)の『イスラーム=ギレイ三世史』(ūčunjī islām kirāy xān tārīxī)には、クリミア汗イスラーム=ギレイ三世について、
と父系が示されている(Hadży Mehmed Senai z Krymu, Historia chana Islam Gereja III. Tekst turecki wydał, przelożył i opracował Zygmunt Abrahamowicz. Uzupełniający komentarz historyczny Olgierd Górka i Zbigniew Wójcik. Warszawa, Państwowe Wydawnictwo Naukowe, 1971. text, p.58)。一見して、モンゴル帝国期の歴史に関する編者の知識の程度が判明するが、ここには、
という系譜が記されている。要するに、これらの記載から、《クリミア王家自身が、ジュチ・ウルスを再興した君主にして血統的にも比較的近いトクタミシュ・ハンの権威を借りて、自己の家系を飾り、キプチャク草原を支配する正統性を主張しようとした》、という背景を想定することができるものと思われる。
 尤も、クリミア王族の一人である史家、ハリーム=ギレイ・スルターンの『ハンたちの薔薇樹』には、
とあり( halīm girāy sultān, gülbün-i xānān. (ed.) Arifzāde ‘Abdülhakim Hīlmī. İstanbul, 1327. pp.5-6)、人名の綴字が崩れ、かつ、若干不正確な部分はあるものの、基本的には『ムイッズル=アンサーブ』と『TGNN』の系譜と近い内容の父系が記されており、ハージー=ギレイの直系系譜には、ダウラト=ベルディとトクタミシュのいずれも現れない。
 『イスラーム=ギレイ三世史』が「クリミア汗国」期の作成であるのに対し、『ハンたちの薔薇樹』は、「クリミア汗国」滅亡後の著作である。両史料における系譜情報の相違については、史料編纂者個人の史料調査能力の他、史料編纂時の状況をも考慮する必要があろう。この問題については、他のクリミア史料における記載内容を網羅的に把握した上で検討を行う必要があるが、それは今後の課題である。
 また、『ビロードの書』には、「タタール」三汗国の王統の初代君主の名が挙げられているが、三汗国史の通説とは異なるものがある。即ち、「アストラハンにおける最初の皇帝(первой Царь на Астрахани)」はテミル=クトルイ皇帝(Темиръ Кутлуй Царь)即ちテムル=クトルク・ハンであるとされ、「クリムにおける最初の」皇帝はタフタミシュ皇帝即ちトクタミシュ・ハンであるとされ、カザンにおける最初の皇帝(первой Царь на Казани)はモモテャク(Момотякъ)即ちマフムーデクであるとされる。「カザン汗国」の初代皇帝が大ムハンマド(父)とマフムーデク(子)のいずれであるか、今日に至るまで研究者ごとに解釈の相違はあるものの、『ビロードの書』の記述は、特に問題とされるような特異なものではない。それに対し、アストラハンとクリミアについては、当該の両「汗国」が成立したとされる時代より、かなり遡った時代のハンを、初代君主と位置付けている。
 クリミアの事例に対しては、既に報告者が見解を述べたとおりであるが、アストラハンの事例についても、同様に、アストラハン王統に属した人々の観念が反映しているものと考えられる。即ち、彼らの自己認識には、通説的に「アストラハン汗国」と称される枠組みはなく、ジュチ・ウルスの君主となったテムル=クトルク以来の系譜こそが重要であったのではなかろうか。
 また、彼ら、アストラハン王統は、ジュチの十三男トカ=テムルの曾孫にあたるノムカンという人物を族祖として自認していたと考えられる。シャーミーの『勝利の書』に、テムル=クトルクの父テムル=ベクは「トムカン・テムル=メリク tūmqān tīmūr malik」と見えるが、「tūmqān」は「nūmqān」の、「malik」は「bīk」の、それぞれ誤りであり、その原形は「ノムカン・テムル=ベク」即ちノムカン家のテムル=ベクであった、と考えられる(赤坂恒明 2005, pp.88-89)。また、十五世紀九十年代におけるモスクワの『使節官署文書集』(Посольские книги)において、「アストラハン汗国」を「ナマガンのユルト Намаганский юрт」、「ノマガン家のユルト Номаганов юрт」と呼称した事例があり』(SRIO-41, p.109; PKSRN 1984, pp.48-49; PKSRN 1995, p.48)、「ナマガン」と「ノマガン」は、いずれもノムカンを指すと考えられている(Grigor'ev 1985, p.177; Zaytsev 2001; 赤坂恒明 2005, p.89)。
 よって、アストラハン王統に属する人々は、自身の"国"を族祖ノムカンの名のもとに自称し、テムル=クトルクを自"国"の最初の君主と見做していた、と推測することができるのではないか、と思われる。上述のシャーミーの『ザファル=ナーマ』では、テムル=クトルクの父にあたる「トムカン・テムル=メリク」即ちノムカン・テムル=ベクは、ジュチ家の第二十二代君主として記載されているが、テムル=ベクはジュチ・ウルスの東部の君主に過ぎず、しかも、即位後、間もなくトクタミシュによって滅ぼされてしまっため、子孫からは「最初の」君主としては認定されなかったもののようである。
 また、ロシアにおけるジュチ裔系譜としては、『ビロードの書』所収の系譜の他に、『タタール諸帝の系譜』(Родословная татарских царей)と称される一連の系譜群があり(詳しくは、Vásáry 2008 を参照せよ)、その一部は、『ロシア歴史・古代帝室モスクワ協会紀要』第10号(Временник Императорского Московского общества исторiи и древностей россiйскихъ. книга десятая. 1851)に掲載された『系譜の書』(Родословная книга)において公刊されている。
 そこに収録されている宗務院(シノド)図書館旧蔵の系譜書(Gosudarstvennyi Istoricheskii Muzei, Sinodal'noe sobranie, No.860)には、「大オルダの皇帝の一族(Родъ Царей болшiе Орды)」(pp.127-8)、「大オルダ皇帝の一族(Родъ болшiе же Орды Царей)」(pp.128-129)、「クリムとカザンとアストラハンの皇帝の一族(Родъ Царей Крымскихъ и Казаньскихъ и Астраханьскихъ)」(pp.129-130)の諸章があり、『ビロードの書』所収のよりも増補された系譜情報が記載されている。ところが、ここに見える「大オルダ」の皇帝の一族の系譜は、大部分、アストラハンの皇帝の一族の系譜と、内容的に重複する部分が多く、ロシア側によって把握された「大オルダ」の王統とアストラハンの王統は一体であり、両者を区分することはできない。
 「大オルダ」と「アストラハン汗国」との関係について、かつて報告者は、
と述べたことがあり(赤坂恒明 2005, pp.241-242)、これを若干修正する余地はあるものの、全く見当外れのことを言っているわけではないことは首肯されるものと思われる。

おわりに

 以上、本報告では、所謂「金帳汗国」分裂期にかかるジュチ裔諸王族の系譜について論じた。その過程において、ジュチ裔諸政権の歴史を、通説的な「汗国」等の枠組みにとらわれることなく、王統を中心にジュチ裔の歴史を捉えなおすこと、その一方で、彼らジュチ裔自身の歴史認識を明らかにすること、これらが、今後さらなる分析が必要な課題として、あらためて確認されたものと思われる。また、近代以降、ジュチ裔諸政権の歴史が内陸ユーラシアの諸民族によって如何に照射されたか、そして、その時代背景は如何なるものであったか、という問題についても、併せて分析することが求められよう。

文献

○『ムイッズル=アンサーブ』
 ・MS., Paris, Bibliothèque Nationale, Ancien fonds persan 67.[MA/P]
 ・MS., London, British Library, Or.467.[MA/L]
 ・MS., Aligarh, Aligarh Muslim University, Maulana Azad Library, No.41.[MA/A1]
 ・MS., Aligarh, Aligarh Muslim University, Maulana Azad Library, No.42.[MA/A2]
 ・MS., London, British Library, Or.14306.[MA/L14306]
 ・История Казахстана в персидских источниках, III том. Му`изз ал-ансаб.( Прославляющее генеалогии ). Введение, перевод с персидского языка, примечания, подготовка, факсимиле к изданию Ш.Х.Вохидова. Алматы, Издательство“Дайк-Пресс”, 2006.[MA/Voxidov]

○『勝利の書なる選ばれたる諸史』
 ・MS., London, British Library, Or.3222.[TGNN/A]
 ・Рук., Санкт-Петербургский филиал Института востоковедения РАН, No.B-745.[TGNN/B]
 ・Таварих-и гузида−Нусрат-наме. А.М.Акрамов(сост.). Ташкент, 1967.[TGNN/Akramov]
 ・Материалы по истории Казахских ханств XV-XVIII веков. Алма-Ата, 1969. pp.9-43,493-504.[TGNN/MIKX]

○『使節官署文書集』
 ・Памятники дипломатических сношений Московского государства с Крымскою и Ногайскою ордами и с Турцией, т.1. С 1474 по 1505 год, эпоха свержения монгольского ига в России. Под ред.Г.Ф.Карпова. Сборник имп.Русского исторического общества, т.41. СПб., 1884.[SRIO-41]
 ・Посольская книга по связям России с Ногайской Ордой. 1489−1508 гг.. Под.: М.П.Лукичев, Н.М.Рогожин. Москва, Институт истории СССР АН СССР, 1984.[PKSRN 1984]
 ・Посольские книги по связям России с Ногайской Ордой. 1489−1549 гг.. Сост.: Б.А.Кельдасов, Н.М.Рогожин, Е.Е.Лыкова, М.П.Лукичев. Махачкала, 1995.[PKSRN 1995]

 Ando, Shiro Timuridische Emire nach dem Muizz al-ansab, Untersuchung zur Stammesaristokratie Zentralasiens im 14.und 15.Jahrhundert. Berlin, 1992.
 安藤志朗「ティムール朝國制 ── Diez A. Fol.74 未完成ミニアチュールより ──」『東方学』第八十七輯, 1994, pp.1-17.
 М.Е.Бычкова, Родословные книги XVI−XVII вв. как исторический источник. Москва, Наука, 1975.[Bïčkova 1975]
 Григорьев, А.П. Шибаниды на Золотоордынском Престоле. Востоковедение, 11. Ленинград, Издательство Ленинградского университета, 1985.[Grigor'ev 1985]
 C・J・ハルパリン『ロシアとモンゴル 中世ロシアへのモンゴルの衝撃』(中村正己訳)東京, 図書新聞, 2008.3.
 濱本真実『「聖なるロシア」のイスラーム 17−18世紀タタール人の正教改宗』東京大学出版会, 2009.2.
 堀川徹「ウズベグ族とカザク族の「分離」について」、昭和五四年度科学研究費補助金総合研究(A)『宋元代の社会と宗教の総合的研究 研究報告』, 京都, 1980.3, pp.53-63.
 川口琢司「ジョチ・ウルスにおけるコンクラト部族」『ポストモンゴル期におけるアジア諸帝国に関する総合的研究 研究課題番号 11410100 平成11年度〜13年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書』(研究代表者、志茂碩敏), 東京, 2002.3, pp.75-92.
 川口琢司『ティムール帝国支配層の研究』 札幌, 北海道大学出版会, 2007.4.
 栗生沢猛夫『タタールのくびき ──ロシア史におけるモンゴル支配の研究──』東京大学出版会, 2007.
 北川誠一「ジョチ・ウルスの研究、1──「ジョチ・ハン紀」訳文、1」『ペルシア語写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究 研究課題番号 05301045 平成7年度科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書』(研究代表者 志茂碩敏). 1996.3, pp.67-90.
 間野英二『バーブル・ナーマの研究』T〜W. 京都, 松香堂, 1995.2−2001.2.
 松木栄三「ロシア史とタタール問題」『歴史評論』六一九号, 2001.11. pp.66-78.
 中村篤志「清代モンゴルの比丁冊に見るタイジの血統分枝集団」『集刊東洋学』90, 2003. pp.110-90.
 岡洋樹『清代モンゴル盟旗制度の研究』東京, 東方書店, 2007.2.
 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』, 京都大学学術出版会, 2004.2.
 В.Г.Тизенгаузен, Сборник материалов относящихся к истории Золотой Орды, Т.U. Москва−Ленинград, 1941.
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 和田清『東亜史研究』蒙古篇. 東京, 東洋文庫, 1959.
 Woods, J.E. The Timurid Dynasty, Bloomington, Indiana University Research Institute for Inner Asian Studies, 1990.
 В.В.Вельяминов-Зернов. Изследование о Касимовскихъ царяхъ и царевичахъ. часть первая. Санктпетербургъ. 1863.[V.-Zernov 1863]
 Зайцев, И.В. "Образование Астраханского ханства". Тюркологический сборник 2001. Москва, Издательская фирма 《Восточная литература》 РАН, pp.32-62.[Zaytsev 2001]
 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房, 2005.2.
 赤坂恒明「「金帳汗国」史の解体 ── ジュチ裔諸政権史の再構成のために ── 」内陸アジア史学会『内陸アジア史研究』第十九号, 2004.3. pp.23-41.
 赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」西南アジア研究会『西南アジア研究』第66号, 2007.3. pp.43-66.

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「インド系統」諸本『ムイッズル=アンサーブ』におけるトクタミシュ一門の系図

kūnja【TWQAYTMWR の子 AWZBKTAS の子 sārīja の子】






┌○ bā tīmūr
├○ `alī
├○ hasan
─○ dawlat bīrdī xān の絵
─○ xudāydād
─○ muhammad xān の絵

├○ tūlak tīmūr ─
─○ jata(JTH)



└○ tuGluq xwāja
─○ tūy-xwāja
─○ tuGtamiš xān の絵 ──────────
  【MA/L, MA/A1 に注あり】
 

┌────────────────────────────────────────

│┌□ malika xānīja
│├□ jānīka xānīja
└┼□ sa`īd bīk xānīja
 │   この各三姉妹たちは三兄弟と共に一人の母から[の所生]であった. tuGāy bīk [という]名前の.
 │┌○ jalāl sultān の絵
─○ abū sa`īd
 ││ Gtamiš [xān] の後, この jalāl sultān が皇帝になった.
 ││ そして, 彼の皇帝在位期は一年以下であった.【この文, 諸本間に差異あり】
 ││ 彼の母は hājī bīk のひとりの娘の族出身の【ママ】 tuGāy.
 ││ 
 │├○ karīm bīrdī の絵
─□ 【MA/L では「〜の絵」と同じ大きさの長方形の枠】
 ││ この karīm bīrdī は, 彼の兄弟 jalāl の後, 皇帝になった.
 ││ そして, 彼の皇帝在位期も満一年に至らなかった.
 ││ 
 │├○ kubak xān の絵
─□ sarāy mulk
 ││ karīm bīrdī の後, この kubak xān が皇帝になった.
 ││ そして, 彼[の在位期]も一年に至[らなか]った.【この文, 諸本間に差異あり】
 ││ 
 ││┌○ jabbār bīrdī の絵 彼の母は既述のtuGāy bīk.
 ││├○ kūjuk 彼の母は īzūn bīk.
 ├┴┴○ qādir bīrdī の絵 彼の母は側室であった. jirkas 族出身の.
 ├□ baxtī bīk xānīja 彼女の母は amīr ursāq の娘の šikar bīk aqā.
 └□ bayram bīk xānīja 彼女の母は īzūn bīk.

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パリ本『ムイッズル=アンサーブ』(MA/P)におけるトクタミシュ一門の系図

kūnjak【TWQAYTMWR の子 AWRbKYAŠ の子 sārīja の子】

 ┌─□ tārāq(bARAQ)
├○ ūrGūdāq ───



┬┼□ mīnklī bī
│├─□
│└□ tīnīja
└○ yārūq ────○ sūfī









┌○ jina(JNH)





┌○ `alī

├○ hasan
┌□ `izzat
├□ hurmat
├□ `azīz
┴○ xudāydād ───────

┬─○ muhammad xān の絵



─□ hājī bī
┌○ mahmūd sultān
┼○ qāsim sultān
├○ tūlak tīmūr

┼○ jina ───
│ (HiNaH)


└□ qān bī
┌○ dawlat bīrdī xān の絵
└□ dilšād
─□ mihr nasab




└○

└○ bāš-tīmūr


┼○ `alī bīk ───────


─□ mihr
┌□ dilšād sultān
├─○ sultān bāyazīd












├○ jamāl al-dīn ─────



┴□ zubayda sultān
┌○ hājī kirāy
├○ jān kirāy
├□ sultān nasab



└○ Giyāth al-dīn ────
┴□ šāh nasab


┌─□ suyūnj mīnklīk
└─○ qutluq xwāja
─○ tūy-xwāja
┴○ tuGtamiš xān の絵 ──────────
 
┌───────────────────────────────────────

│┌□ malika xānīja
│├□ jānīka xānīja
│├□ sa`īd bīk xānīja
└┤   この各三姉妹は三兄弟と共に一人の母から[の所生]であった. tuGāy bīk [という]名前の.
 ├□ baxtī bīk xānīja
 │   彼女の母は amīr ursāq の娘の šikar bīk āGā.
 │┌○ sultān jalāl al-dīn の絵
 ││
┬○ abū sa`īd
└□ amān bīk
 ││ kubak xān の後, この sultān jalāl al-dīn が皇帝になった.
 ││ そして, 彼の皇帝在位期は一年以下であった. 彼の母は hājī bīk の娘の tuGāy であった.
 ││ 
 │├○ karīm birdī の絵
──○ sayyid ahmad xān の絵
 ││ この karīm birdī は, 彼の父【ママ】jalāl al-dīn の後, 皇帝になった.
 ││ そして, 彼の[在位]期も満一年に至らなかった.
 ││ 
 ││
 │├○ kubak xān の絵
 ││ 
┌○ jaGatāy sultān
┼□ sarāy mulk
└□ šīrīn bīk
 ││ karīm birdī の後, 皇帝になった. 彼[の在位期]も一年に至[らなか]った.
 ││ 
 ││┌○ jabbā[r] birdī の絵 彼の母は既述のtuGāy bīk.
 ││├○ abū sa`īd
 ││├○ kūjuk 彼の母は ūrun bīk.
 ││├○ iskandar
 ││├○ qādir birdī の絵 彼の母は側室であった. jirkas 族出身の.
 ├┴┘
 └□ bayram bīk xānīja 彼女の母は ūrun bīk.

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パリ本『ムイッズル=アンサーブ』(MA/P)におけるノムカン裔の系図
(インド系諸本には不見)
abāy【TWQAYTMWR の子 KYTMWR の子】
├○ mīnkāsir ──【略. 系線の乱れあり】
├○ īmkān ──【略. 系線の乱れあり】
├○ nūmqān ───────○ qutluq tīmūr ─────
└○ qūrtqa ──【略】
┌─────────────────────────







├○ qūnja ─────

┌□ baxtī bī
┼─○ mu'ayyad
└□ nusrat
├○ tīmūr xān の絵
│【テムル[・ベク]】




┬○ tīmūr qutluG xān の絵





┬○ timūr xān の絵
├○ nāsir
│┌□ maxdūm sultān
├┼─□ sarwar sultān
│└○ būlād
└○ yādikār
─○ muhammad xān の絵
 【クチュク=ムハンマド】



├○ `alī sultān
├□ tātlī(bATLY)
└□ xān-malik
└○ qūtlū bīk ──
─○ šādī bīk xān の絵
┬─○ Giyāth al-dīn xān の絵
├○ qūlcuq
├○ šihāb al-dīn
├○ `alī darwīš
├○ sā`at xwāja
├□
├□ šāyika
└□ šādmān

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『TGNN』におけるトゥメン王家を図示化した系図
hājī muhammad xān
├ sayyidak xān


├ mahmūdak xān









└ šibān Gāzī

┬ būbāy
āq qūrt
└ qāsim
┬ ibāq xān




├ māmūq xān
├ aGalāq xān
├ mūsaš
├ jālbāš
└ al jāGīr







┬ qūlūq
├ mūsaka
├ muhammad
├ qumāj
└ muhammad taqī

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『TGNN』におけるカザン王家を図示化した系図
muhammad xān
(女) dilšād sultān
(女) dawlat
(女) dawlat šāh
├ mahmūdak xān



├ ya`qūb
├ tūlik
├ mus tafā
├ yisur zira
└ qāsim
┬ xalīl xān
└ ibrāhīm xān




┬ adham xān
├ muhammad īmīn xān
└ `abd al-latīf xān

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『TGNN』におけるクリム王家を図示化した系図
bāš-timūr
├ jamāl al-dīn


├ dawlat birdī
Giyāth al-dīn xān








├ `alī bīk
(女) hājī sultān
(女) ayrān bīk
(女) sa`ādat sultān

┬ sultān bāyazīd
(女) dilšād sultān
(女) zubayda sultān
(女) mihr nasab
hājī kirāy xān







└ jān kirāy






┬ dawlat-yār
├ nūr dawlat xān
haydar xān
├ qutluq zamān
├ kildīš
├ minklī kirāy xān
├ yamGūrjī
ūz timūr

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『TGNN』における小ムハンマド裔を図示化した系図
muhammad xān
├ mahmūd xān




├ juwāq sultān




├ ahmad xān








└ bāšībāk

┬ qāsim xān
├ būz tūrGāy
├ `abd al-karīm xān
├ kildī bīk
└ muzaffar
┬ ya`qūb


├ baxšāyš
└ mānkGišlāw
┬ murtadā
├ sayyid ahmad
├ šayx ahmad
├ sayyid mahmūd
ūkī
├ xwāja muhammad
husayn
├ jānī bīk
└ bahādur sultān


─ jānī bīk xān




┬ aq būbāy
├ māmāj
└ aq pūdā

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『ビロードの書』Бархатная Книга 第三章

【стр.24】
7 アストラハン皇帝の一族(Rod astraxanskix tsarey)
 テミルベクブラン Temir Bekbulan(Темиръ Бекбуланъ
 テミルベクブランには子息がテミル=クトルイ皇帝 Temir Kutluy Tsar'(Темиръ Кутлуй Царь)[であり]、アストラハンにおける最初の皇帝(первой Царь на Астрахани)。
 テミル=クトルイには子息がテミル皇帝(Темиръ Царь)。
 テミル皇帝にはキエマグメト皇帝 Kiemagmet tsar'(Киемагметъ Царь)。
 キエマグメト皇帝には諸子息が、
  マグメト皇帝(Магметъ Царь)
  イェグプ皇帝【皇子】 Egup tsar'(Егупъ Царь
  アフマト皇帝 Axmat tsar'(Ахматъ Царь
 イェグプ皇子には子息がチュヴァク皇子 Čüvak tsarevič(Чювакъ Царевичь)。
 チュヴァクには子息がヤニベク皇子 Yanïbek tsarevič(Яныбекъ Царевичь)。
 ヤニベクには[子息が]シホヴレヤル皇子 Šixovleyar tsarevič(Шиховлеяръ Царевичь)。
 シホヴレヤルには子息がシガレイ皇帝 Šigaley Tsar'(Шигалей Царь)、全ロシアの大公ヴァシリー・イヴァノヴィチのもとで、そして、全ロシアの皇帝・大公イヴァン・ヴァシリイェヴィチのもとで、皇帝アレクサンドルとセミョーンの前に、カザンにあった。そして、セミョーンは、アレクサンドルの後にカザンにいた。
 そして、ケイ=マグメト皇帝 Key Magmet Tsar' の(Кей Магметева Царева)三男、アフマト皇帝の諸子は、
  ムルトザ皇帝 Murtoza Tsar'(Муртоза Царь)、
  セイト=アフマト皇帝 Seit Axmat Tsar'(Сеитъ Ахматъ Царь)、
  シアフメト皇帝 Siaxmet Tsar'(Шиахметъ Царь)。
 ムルトザには諸子が、
  アク=クベク皇帝 Ak Kubek Tsar'(Акъ Кубекъ Царь)、
  ベルディベク皇帝 Berdibek Tsar'(Бердибекъ Царь)。
 アク=クベクには子息がカイブラ皇子 Kaybula tsarevič(Кайбула Царевичь)。
 そして、ベルディベクには子息がイェムグルチェイ皇帝 Emgurčey Tsar'(Емгурчей Царь)。【стр.25】
 そして、セイト=アフマト皇帝には子息がカサイ皇帝 Kasay Tsar'(Касай Царь)。
 カサイには諸子が、
  カズブラト皇子 Kazbulat Tsarevič(Казбулатъ Царевичь)、   カザン皇帝のイェディゲル Ediger(Едигеръ)、そして、洗礼を受けてセミオン Semion(во крещении Семион)。そして、カザンにおいて捕虜として捕えられた。全ロシアの皇帝・大公イヴァン・ヴァシリイェヴィチがカザンを占領したときに。
 そして、シアフメト皇帝には子息がアイダル皇帝 Aidar Tsar'(Аидаръ Царь)。
 そして、アイダルには次男(другой сынъ)がデルヴィシュ皇帝 Derviš Tsar'(Дервишъ Царь)。そして、アストラハンにいた。そして、全ロシアの皇帝・大公イヴァン・ヴァシリイェヴィチが、彼をアストラハン皇帝に第二次即位させた(въ другой рядъ посадилъ)。そして、自分の軍隊をアストラハンに彼と共に派遣した。

8 クリム皇帝の一族
 トンゴ=ズィウラン Tongo Ziulan の(Тонго Зиулановъ)子息はタフタミシュ皇帝 Taxtamïš Tsar'(Тахтамышъ Царь)、クリムにおける最初の。そして、彼をイディギ公 Idigi Knyaz'(Идиги Князь)が殺した。
 そして、タフタミシュ皇帝には子息がベルディベク Berdibek(Бердибекъ)。兄弟たちが彼を殺した。かくて、その一族には、わずかに(убили его братья, и того роду только
 ドゥラト=ペルディ=ウラン Dulat Perdi Ulan(Дулатъ Перди Уланъ)。
 ドゥラト=ペルディ=ウランには子息がアズィギレイ Azigirey(Азигирей)。リトワにおいてカジミェシ王 Kazimer Korol' のもとで(у Казимера Короля)暮らした。そして、カジミェシは、彼をクリムに行かせた。
 そして、アズィギレイの諸子は、
  ノルド・ウラト Nordo Ulat、
  アイダル Aidar(Нордо Улатъ Аидаръ)、
  および、ミンリ=ギレイ minli Girey(Иминли Гирей)、
  ウズテミル皇子 Uztemir Tsarevič(Узтемиръ Царевичь)、
  および、ハジ皇子 xaji Tsarevič(Ихаджи Царевичь)。
 ノルド=ウラトの諸子は、
  サルタガン Saltagan(Салтаганъ
  および、ジェナイ jenay(Идженай)。【стр.26】
 そして、第三のアズギレイ Azïgirey の(Азыгиреева)子息には、ミンリギレイ Minligirey には(у Минлигирея)、諸子が、
  マフメト=キレイ Maxmet Kirey(Махметъ Кирей
  アフマト Axmat(Ахматъ)、
  ブルナシュ Burnaš、
  ファテキレイ Fatekirey(Бурнашъ Фатекирей)、
  サデトゥキレイ Sadetïkirey(Садетыкирей)、
  ムバレク=キレイ Mubarek Kirey(Мубарекъ Кирей)、
  サプキレイ Sapkirey(Сапкирей)。
 マフメト=キレイの諸子は、
  ボガトゥル Bogatïr(Богатырь)、
  ダアルト Daalt、
  カズィギレイ Kazïgirey、
  マフメト Maxmet(Даалтъ Казыгирей Махметъ)、
  イスラム Islam(Исламъ)。
 ファテキレイには子息が、カザンのサファキレイ Safakirey Kazanskoy(Сафакирей Казанской)。
 サファキレイには子息がウテミシュ=キレイ Utemiš Kirey(Утемишъ Кирей)。そして、自分の父の後に、カザンにあった。そして、洗礼を受けてアレクサンドル Aleksandr(во крещении Александръ)。そして、山の側が皇帝・大公に付いたとき(какъ горняя сторона приложилась къ Царю и Великому Князю)、彼を、皇帝・大公がカザンから連れ去った。そして、カザンに、皇帝シガレイを即位させた。
 そして、ムバレク・キレイには子息が、クリムのドレトキレイ Dletkirey Krïmskoy(Длеткирей Крымской)。

9 カザン皇帝の一族
 イェチケル=アサン=ウラン Ečkel' Asan Ulan(Ечкель Асанъ Уланъ)。
 イェチケル=アサ=ウランには子息がウル=マフメト皇帝 Ulu Maxmet Tsar'(Улу Махметъ Царь)。
 ウル=マフメトには子息がモモテャク Momotäk(Момотякъ)。即ち(то)、カザンにおける最初の皇帝(первой Царь на Казани)。
 モモテャク皇帝には諸子が、
  ハリル皇帝 Xalil Tsar'(Халилъ Царь)、
  イブレイム皇帝 Ibreim Tsar'(Ибреимъ Царь)。【стр.27】
 イブレイム皇帝には諸子が、
  アレガム Alegam、
  メレフ=ダイル Melex Dair(Алегамъ Мелехъ)、
  クダイグル Kudaigul(Даиръ Кудаигулъ)、洗礼を受けてピョートル皇子 Petr Tsarevič(во крещении Петръ Царевичь)。そして、全ロシアの大公イヴァン・ヴェシリイェヴィチの息女が彼に[嫁いで]いた。そして、皇子ピョートルには二息女がいた。一人は公フョードル・ミハイロヴィチ・ムスチスラフスキーに(за Княземъ Федоромъ Михайловичемъ Мстиславскимъ)[嫁いで]いた。そして、もう一人は、公ヴァシリー・ヴァシリイェヴィチ・シュイスキーに(за Княземъ Васильемъ Васильевичемъ Шуйскимъ)[嫁いで]いた。
  マグメデミン皇帝 Magmedemin Tsar'(Мегмедеминъ Царь)、
  アブデレティフ Abdeletif Tsar'(Абделетифъ Царь)。
 メレフ=ダイル Melex Dair の(Мелехъ Даировы)諸子は、洗礼を受けてヴァシリー Vasiley ならびにフョードル Fyodor 皇子 Tsareviči(во крещении Василей, да Федоръ Царевичи)。

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