赤坂恒明
「ホシラの西行とバイダル裔チャガタイ家」
『東洋史研究』第六十七巻第四号, 2009.3, pp.36-69.
【概略】
十四世紀前半における、甘粛から天山東部地域に至る、元朝西北部とチャガタイ汗国東部の政治的状況を明らかにすることを目的として、チャガタイ一族のうち元朝に帰属したバイダルの子孫(チュベイ一門)の動向に注意を払い、ホシラ(元朝皇帝武宗の長男。のちの明宗)の中央アジア方面への亡命、および、それに呼応して起きたトガチの乱、天山東部地域の領有をめぐる元朝とチャガタイ汗国との関係について分析した。
本稿において推測・提示したのは、凡そ次の四点である。
一、チャガタイ一族の末子の家系としてアルタイ南西麓におけるチャガタイ初封時の遊牧地を継承していたと推定される、チュベイの弟トク=テムルの子孫は、元朝軍がチャガタイ汗エセン=ブカを破った際、元朝側の最前線である新占領地ウイグリスターンに進駐し、次いで、アルタイに到ったホシラを迎え、彼とチャガタイ汗エセン=ブカとの仲介を行い、ホシラのチャガタイ汗国領域内への移住の道を開いた。
二、「トガチの乱」は、アルタイ西方において蜂起し、嶺北行省、さらにオングト趙王を攻掠したトガチ丞相の大軍事活動と、甘粛行省亦集乃路を本拠地とした寧粛王家出身の王族トカチ(チュベイの孫)が甘粛で起した地方的規模の叛乱、の二つから成り、『元史』でトガチ丞相が「叛王脱火赤」と表記されるのは王族トカチとの混同による。
三、トガチ丞相やチョンウルらの攻勢によってチャガタイ汗エセン=ブカの勢力範囲は西方に後退し、ウイグリスターンは元朝に奪回されたが、ホシラ西行の後、トク=テムル裔の帰趨によりウイグリスターンは再びチャガタイ汗国の支配下に入った。一方、哈密は、チュベイの兄カバンの子ゴンチェクのもと、元朝側にとどまった。
四、トク=テムル裔の「公権力」が及ぶウイグリスターンは、「天暦の内乱」後、トク=テムル裔の元朝への帰属により、元朝の支配権も及ぶようになった。哈剌火州総管府の復興は、このような背景のもとになされた。
※ 本論文の全文(PDF)は、京都大学のサイト上に公開されております。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/155614/1/JOR_67_4_612.pdf
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