松戸の鉄道聯隊軍用軌道跡を訪ねて、
上本郷から胡録台、和名ヶ谷を経て陣ヶ前まで歩く

 2015630日) 
松戸新田
↑松戸新田の畑地に残る軌道跡。画面をクリックしてみて下さい
 2015630日火曜日、午後遅くの千葉大学での講義に行く前に松戸に寄り、昼前から昼過ぎにかけて、鉄道聯隊軍用軌道の遺址の一部をたどってみた。無論、「先の大戦」への痛切な反省を心に込めて、である。
 鉄道聯隊の軍用軌道は、松戸の陸軍工兵学校付近の演習地から津田沼の陸軍鉄道第二聯隊まで、津田沼からさらに千葉の陸軍鉄道第一聯隊まで敷設された演習線であり、松戸と千葉には支線もある。
 松戸から津田沼までの軌道跡の大部分は、周知のように、新京成電鉄の路盤に転用されている。2015年は新京成電鉄全通60周年で、小冊子式の記念乗車券・入場券が発行された。購入した乗車券は原則として使用する「主義」であるので、使用期限が切れる直前に乗車券を「消化」するという目的もあって、旅券関連の手続き以外には常磐線で通過するばかりの松戸に立ち寄ったのである。
 実は、その一週間前、623日火曜日にも、東武鉄道野田線の江戸川駅から京成バスで松戸に出て、新京成電鉄で京成津田沼駅に向かい、そこで京成線に乗り換えて実籾駅に行き、暑気はなはだしき日中、そこから出発して、「京成ガード際」からは花見川大橋を経由して、途中、少し道をそれて宮野木に近い犢橋の「三社神社」に立ち寄ったが、それ以外はほぼ鉄道聯隊軍用軌道跡を歩いて千葉市稲毛区作草部に達し、作草部郵便局で向きを転じて千葉経済大学に到り、授業開始直前に千葉大学に着いたのであったが(文が長すぎる...)、これも記念乗車券の「消化」と、軍用軌道跡の探訪を兼ねてのことである。
 それはさておき、松戸における軌道跡は、『千葉県の歴史』別編 地誌3 (地図集)(千葉県、平成143)に掲載されている昭和七年(1932年)の五万分之一の地形図に記載されているが、それ以外にも、鉄道敷設演習のため敷設・撤去が繰り返し行われた軌道跡の存在したことが知られている。
 今回は、新京成電鉄の松戸の次、上本郷駅を出発点に、胡録台、和名ヶ谷を経て陣ヶ前に至る、軍用軌道本線の跡を歩いてみた。
 上本郷駅の東南側から南西方向に直進する道路が、軍用軌道跡である(下の写真)。
上本郷
上本郷
 軌道跡は道なりに胡録台・岩瀬方面へと伸びているが、これは、実は支線である。本線跡は、この道から新京成電鉄の路線が離れた少し先で住宅地の中に「埋没」し、しばらく支線跡の道と並行して南南西に進み、松戸胡録台郵便局の東側で東南東方向に進路を転じる。
緑ヶ丘の公務員住宅
緑ヶ丘
緑ヶ丘
 軍用軌道の本線と支線が分岐した地点は、昭和七年の地図に従えば、上本郷駅から南西に向かって歩いて最初にある右折路の先あたりであるように思われるが、本線跡を確認するのは後日に期して、まずは支線跡の道を胡録台郵便局方面に向かって歩く。
 新京成電鉄の路線が右手に分かれた後、最初の交差点の右手前方、緑ヶ丘1-81の公務員住宅の敷地内の路傍に、花崗岩(御影石)製の境界標石が残っている(上・左の写真)。
 境界標石にはエビヅル(Vitis Thunbergii Sieb et Zucc.)のツルがかかっていたので、手を伸ばして取り払ってみると、そこにはスズメガの幼虫、すなわち「芋虫」が付いていて、思いもかけず、喜ばしからざる「すきんしっぷ」の「歓迎」を受けることとなった。
 しかし気を取り直して、支線跡を直進する。
胡録台
 松戸胡録台郵便局の手前にある十字路で左折すると、軍用軌道本線跡と東南東方向に平行する道である(上の写真)が、曲がらずに一旦、郵便局(右の写真)にまで到り、その後、引き返して曲がり、東南東方向に歩く。
 昭和七年の地図によると、最初の右折路のあるあたりが、本線軌道跡と交差する地点にあたるようであるが、現時点では確信を持てない。
 もっとも、「河北松戸ハイツ」の西側に、家屋と敷地の向きが他の家と平行していない住宅がある(下の写真)。これは、軌道跡の弧線の名残であるように思われる。
胡録台
松戸胡録台郵便局
胡録台
胡録台公園
 胡録台の本線軌道跡は、「河北松戸ハイツ」と「レクセルガーデン松戸胡録台」の裏手(南側)に走っており、現在は、道路と、その道の北側に隣接した閑静な住宅地等となっている(下の写真)。
胡録台
 その道の突き当たりにあるのは、「胡録台公園」(写真右)である。昭和五十一年(1976)三月に開園した、この細長い公園は、軍用軌道本線の跡地をそのまま公園にしたものであり、いかにも鉄道の廃線跡を使用したような雰囲気が濃厚に残されている。
 公園の北隣にある「厚生労働省胡録台宿舎」の敷地内の樹木の根元に、花崗岩(御影石)の破片が寄せてあった(下左・下右の写真)。軍用軌道の境界標石である可能性が高そうである。
厚生労働省胡録台宿舎厚生労働省胡録台宿舎
胡録台公園胡録台公園
 公園内には、福島第一原発事故による放射能汚染に関する「放射線量測定値一覧表」は掲げられていたが、そこがかつて軍用軌道の路盤であったことを示す案内板の類は、一つもなかった。教育的見地から、地域の近代史の一端を知るために、是非とも設置していただきたいものである。
胡録台公園酒の本橋(松戸市松戸新田)
 東南東に延びる胡録台公園の東端(左上の写真)の先で、軌道跡は、道を隔てた「酒のもとはし」(松戸市松戸新田)の構内に消える(右上の写真)。
 なお、「酒のもとはし」の背後に見える高い建造物は、松戸市消防局中央署の望楼であり、遠くからでもよく目立つ。
松戸新田
松戸新田
 「酒のもとはし」の裏手(東南東)の路傍、年季の入った集合住宅の上がり口のそばに、花崗岩(御影石)の破片が転がっていた(左・左下・下の写真)。軍用軌道の境界標石の残骸である可能性が高いと思われるが、以前からその場にあったものであるか否か、判然としない。また、状況から見て、いつ撤去されても不思議ではない。
松戸新田
 なお、集合住宅の上がり口の段差は、軍用軌道の路盤の遺構であるかも知れない。
 軍用軌道跡は、松戸市消防局中央署の構内を、駐車場の北縁(左下の写真)と、署舎の北側、県道松戸・鎌ヶ谷線(281号線)への出入路(右下の写真)に走っていたと推測される。
松戸市消防局中央署松戸市消防局中央署
松戸市消防局中央署"松戸市消防局中央署
 暑気のなか、消防署内(上の写真)にて少々休息させていただく。
 消防署から、県道松戸・鎌ヶ谷線(281号線)をはさんだ向かい側にあるガソリンスタンドの建物(千葉県東葛個人タクシー協同組合事務所)のあるあたり(右の写真、県道上の自動車の背後)が、かつての軌道跡である。
 ガソリンスタンドと「三幸医化学薬品」(右の写真、中央「幸」印の建物)の間の道を進むと、「吉兵衛屋敷公園」とマンション「松戸胡録台ローヤルコーポ」の出入り口に到る。
松戸新田
松戸新田
 「松戸胡録台ローヤルコーポ」出入り口の左手(北側)には小さな茂みがあり、その先(北隣)に、マンション「グリーンピア松戸」がある。この茂みが軍用軌道跡に他ならず、茂みの先の畑に目をこらすと、畑の中に花崗岩(御影石)の標石が点々と見える(左の写真)。
 これこそ、松戸市内に現存する軍用軌道遺址の圧巻、畑の中に点在する、湾曲する軍用軌道境界標石群(松戸市 松戸新田)である。
 望遠で撮影したのが、下の写真である。「松戸胡録台ローヤルコーポ」の敷地の北側に、標石群が残されている。写真画面をクリックすれば、軌道跡をはっきりと御確認いただくことができる。
松戸新田
松戸新田
松戸新田
 「松戸胡録台ローヤルコーポ」の敷地と畑との境界線は、そのまま東南東に、「ペットランド松戸店」駐車場と畑との境界線に連続して、南東に向かって弧を描いており(航空写真から明瞭に見て取ることができる)、その境界線は、畑の中の標石群と並行している。なお、「ペットランド松戸店」駐車場と畑との間には金網の柵があり、その柵の外側にも境界標石がある(左・左下・左の写真)。
松戸新田
 要するに、@「松戸胡録台ローヤルコーポ」・「ペットランド松戸店」の敷地と畑との境界線と、A畑の中の標石群を結んだ線との間に、軍用軌道が走っていたことになる。
 「ペットランド松戸店」は、出入り口のある南側で「まてばしい通り」に面しているが、そのすぐ先、東南東に位置する信号のある交差点(後述の如く、そこには庚申塔がある)を左折すると、左手に「グローバルクリーニング松戸工場」(松戸市 松戸新田)が見える(左下の写真)。
 市街地図または空中写真を見れば明瞭であるが、この建物は上から見ると、ほぼ三角形である。明らかにこれは、軍用軌道の敷地内に建てられたという土地形状上の制約によるものである。
グローバルクリーニング松戸工場松戸新田
 さて、「グローバルクリーニング松戸工場」の北側では、公道から畑の中に点在する軍用軌道境界標石群を一望することができる(下の写真。画面をクリックしてみて下さい)。
 畑の中では、ちょうどボーリング調査が行われていた(右上の写真)。この畑にも、近いうちに、一定の規模のある建築物が建造されるに違いない。そして、このシュールな光景も、まもなく喪われてしまうこととなるのであろう。
松戸新田
 ちなみに、この写真に映っている建造物は、左から、「ペットランド松戸店」、「洋服の青山」(少しだけ見える)、「松戸胡録台ローヤルコーポ」、「グリーンピア松戸」、マンション「ロイヤルプラザ松戸」である。
 「まてばしい通り」の交差点に戻る。そこには庚申塔がある(右の写真)が、軍用軌道は、まさにその庚申塔が立っている場所で「まてばしい通り」を横断し、交差点の南側で斜めに分かれる道路(下の写真、中央)となって南に向かう。
庚申塔
庚申塔
 軌道跡の道路は、ゆるやかに湾曲して、次第に南西に向きを転じ、小板橋病院、和名ヶ谷中学校の方面へと向かって先に続く。
境界標石と庚申塔
小板橋病院(松戸市 和名ヶ谷)
 なお、軌道跡の道路の右手、道際から少し離れた位置に、花崗岩の境界標石が立っており、軍用軌道の幅がかなり広かったことが確認される。
 それらの標石は、庚申塔からほど近き茂みの傍らに一本(左の写真。写真画面をクリックしてみて下さい)、その少し先、道に面した小板橋病院の駐車場(左下の写真)に二本(下の写真)、現存している。
和名ヶ谷和名ヶ谷
 小板橋病院のあたりから、軌道跡の道路は直線となり(上の写真)、周囲は、宅地と農地とが入り混じった、ややのどかな光景となる。
和名ヶ谷和名ヶ谷
 引き抜かれて、物置の傍らに「寝て」いる境界標石もある(上の写真)。
和名ヶ谷中学校和名ヶ谷中学校
 和名ヶ谷中学校(上の写真)の少し先にも、引き抜かれて横倒しになっている境界標石がある(下の写真)。
和名ヶ谷和名ヶ谷
 和名ヶ谷中学校の先にある交差点までは、いかにも軌道跡らしい雰囲気に満ちていたが、それより先は密集した新興住宅地と化し(左下の写真)、往昔をしのぶことはほぼ不可能となる。
和名ヶ谷和名ヶ谷
 軌道跡は、西木戸第1公園(右上の写真、左端)の先で、住宅地の中に「埋没」する。
 その先、軍用軌道跡は、「陣ヶ前」バス停留所(右の写真。国道6号線の「陣ヶ前」交差点とは位置が異なる)あたりで県道船橋・松戸線(第464線)を横断し、さらに西南西に向かって延び、「中の兵(なかのひょう)」(松戸町大字松戸字東美野、八柱村大字大橋字中の兵)まで到っていた(渡邉幸三郎『昭和の松戸誌』流山、崙書房出版、20054月、118)というが、宅地開発に伴う区画整理のため、軌道跡をたどることは著しく困難となる。
 さて、「陣ヶ前」バス停付近に達した時点で、そろそろ残り時間が少なくなってきた。
 そのため、陣ヶ前から先、中の兵までの軍用軌道本線跡と、さらにその先に延びていたという演習線の跡、および、胡録台における、本線が支線とほぼ並行する区間、また、胡録台から岩瀬方面に到る支線(これは、たいした距離ではないが)の踏破は、後日の再訪に委ねることにして、この日の軌道跡探訪は、「陣ヶ前」バス停の手前で、切り上げた。
「陣ヶ前」バス停留所

 松戸駅に到る途中に歩いた、水戸街道(国道6号線)の「岩瀬」交差点より南方、東京寄りに位置する歩道橋(左の写真)から、松戸中央公園に到る道の一部は、軍用軌道の支線跡に重なるが、支線の終着点と思われる場所にまでは行かなかった。
 また、松戸中央公園内とその周辺には、陸軍工兵学校に関連する遺跡がいくつか残されているが、今回はそれらにも立ち寄らなかった。
 かくて、松戸駅から新京成電鉄で津田沼に出て、有効期限切れ直前の記念乗車券を無事に「消化」し、千葉方面へと向かったのであった。
2015726日記。誤記訂正等あり)
松戸新田


喪われた光景 松戸新田の鉄道聯隊軍用軌道境界標石群 (201627日)

 松戸新田の鉄道聯隊軍用軌道跡、変じて「ロイヤルホームセンター松戸」と成る (2016123日)


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