柏市豊四季の「公爵岩倉報恩碑」、柏市増尾の廣幡八幡宮
[付]新荒川橋より望む、東北本線の荒川橋梁と川口の善光寺
2016
年
1
月
15
日午後、埼玉学園大学から赤羽まで歩いた途中で撮影。
いずれも、岩倉具視が関わった日本鉄道と、深い所縁があります。
柏市豊四季の「公爵岩倉報恩碑」
(
2016
年
2
月
23
日)
平成二十八年二月某日、神田神保町で、岩倉具視の嫡孫、岩倉具栄の遺稿・追悼文集『岩倉具榮とその時代』(東京、岩倉具栄とその時代刊行会 編集・発行、昭和五十五年五月)を購入しました。永井路子氏の岩倉具視伝にも言及されている、それなりに有名な本ですが、私は初めて見ました。そこからは、いろいろな情報を得ることができました。それらのうちの一つが、私の地元、野田市に隣接する柏市と岩倉家との関係についてです。
本書に所収の、岩立清彦「岩倉家と柏市 具栄先生の敬神崇祖」(
452
〜
454
頁)に、次のように書かれております。
岩倉具視公は柏市に御屋敷を持っておりました。それが柏市富里町にある「岩倉屋敷」であります。今は工場敷地になっておりますが、土手、堀の跡があって約六、〇〇〇坪位の広い敷地です。地元の人々は「岩倉屋敷跡」と呼んでいます。又岩倉公は、自作農創設の国策と農民の為に率先してその所有地五十八町歩十七万四千坪を開設しました。その恩恵に感謝して地元民四十五名が発起人となり大正五年に「岩倉公報恩碑」を建てました。一丈余尺の立派な記念碑は現在も岩倉屋敷跡近くに建っております。
柏市富里町は、柏駅の南西、東武野田線の船橋方面と常磐線との分岐点の周辺に位置します。具体的な場所を調べようと、地元の図書館で少し調べてみましたところ、報恩碑は、富里町でなく、豊四季の稲荷神社にあることが確認されました。ほぼ、東武野田線の豊四季駅と常磐線の南柏駅の中間あたりに位置しており、自動車で何度も通ったことがある場所です。しかも、私の小学生以来の「老朋友」が学習塾を開いている場所からも、ほど近くです。まことに「灯台もと暗し」と言うべきです。
二月二十三日朝、新聞を開きましたところ、岩倉具栄の嫡男、岩倉具忠氏の訃報が社会面に載っておりました。そこで、思い立って、その日、流山市 名都借にある「木の図書館」に行くついでに、立ち寄ってみました。
日光街道東往還を野田方面からずっと南下し、豊四季駅の南方を通り過ぎた先に、柏市旭町から「流鉄」の平和台駅に至る県道との交差点があります。その手前、左手に柏第二小学校がありますが、その反対側、右手にあるのが稲荷神社です。柏駅西口からバス便があり、日中、平日は一時間に四〜五本、休日でも三本ありますので、交通の便は悪くありません。また、自動車で訪れる場合は、神社の境内の東隣、日光街道東往還に面した所に、「柏市新宮近隣センター」(神社の西隣)の駐車場がありますので、それを利用することができます。
豊四季には稲荷神社が複数ありますが、報恩碑があるのは「四号稲荷神社」、またの名「捕込稲荷神社」です。
報恩碑の名称は、正確には「公爵岩倉報恩碑」と言います。柏市旭町から平和台駅方面に至る県道に向かって南面し、神社の鳥居の左手、非常に目立つ所に建っております(写真 下左)。
鳥居の右手には「日露戦役紀念碑」があります(写真 上右)が、そこには「從三位子爵勘解由小路資承書」と刻されており、少し驚きました。
勘解由小路家は日野流の公家で、「かげゆこうじ」でなく「かでのこうじ」と読み、難読の家名として知られております、しかし、(失礼とは存じますが)歴史上の有名人はゼロ、という印象があります。ただし、その中でも例外的な存在が、まさにこの勘解由小路資承(すけこと)です。資承は、武者小路実篤のオジにあたり、実篤の思想形成に影響を与えたことで、知る人ぞ知る存在です。阿川弘之氏の志賀直哉伝にも登場します。豊四季と勘解由小路資承との間に如何なる接点があったものか、興味が惹かれます。
これら、旧公家に関わる碑文が建てられている四号稲荷神社(捕込稲荷神社)の社殿は小ぶりで、ささやかなものですが、境内には、堂々たる「豊四季開拓百年記念碑」が屹立しているほか、黒光りする由来碑などもあり(いずれも岩倉家に関する言及があります)、豊四季の中心的な神社としての貫録を感じます。
←四号稲荷神社(捕込稲荷神社)社殿
「豊四季開拓百年記念碑」↓
←「稲荷神社の由来」碑
さて、「岩倉屋敷跡」は、現在、凸版印刷柏工場(株式会社トッパン建装プロダクツ 柏工場」の敷地内にあるということで、そちらにも訪れてみました。報恩碑の西南西、「平和台」駅方面に向かう県道を五百メートルほど進んだ先にあります。途中にコンビニエンス・ストアがありますので、そこに自動車を止めることができます。最寄りのバス停は「笹原」です。
いつもの如く、一介の通りすがりの者として、工場の入り口にて、守衛に来意を告げました。
「構内に岩倉屋敷の跡があるということで訪れましたが、これについて、お答えできる方はいらっしゃいますでしょうか」
守衛は内線でやりとりをした後、総務課に電話をかけるように、という返答で、電話番号は教えてくれました。
しかし、こちらは携帯電話を持っておりませんので、そのまま退散し、結局、連絡をとらぬまま今日に至っている次第です。
なお、上記「岩倉家と柏市 具栄先生の敬神崇祖」の筆者、岩立清彦氏は、柏市 増尾に鎮座する広幡八幡宮の神職との由です。
広幡八幡宮は、東武野田線の新柏駅および増尾駅の東方、やや離れた所にあり、ニッカヰスキーの工場の北、増尾城址公園の東、手賀沼に注ぐ大津川の西に位置しております。
境内には、柏と岩倉家との縁により広幡八幡宮神社の奉賛会長であった岩倉具栄が揮毫した、創建七百七十年式年大祭記念碑が、「苔蒸して緑の神域の中に今でも厳然として建っております」ということです。
その文章が書かれてから三十五年以上の歳月を経た現況を、この目で確認してみたいと思っております。
(
2016.3.19
)
(追記)
「公爵岩倉報恩碑」の銘文は、『柏の金石文』(U)(柏市教育委員会、二〇〇九年三月)
384
頁に掲載されております。
碑文の歴史的背景と「岩倉御殿」(岩倉屋敷)については、相原正義『柏 その歴史・地理』(流山、崙書房出版、二〇〇五年三月)
96
〜
100
頁に説明があります。
「報恩碑にある「公爵」とは、岩倉
具視
ともみ
(明治十六年没)の三男
具定
ともさだ
(家督・明治四十三年没)のことである。・・・・・ 具定が没後、豊四季に所有していた五十八町歩余の広大な土地を明治四十四年から大正二、三年にかけて、農民に譲りわたし、それに対し農民が感謝の意を表すために建てた碑である。」
「現在の凸版印刷柏工場の場所に土地の人たちが「岩倉御殿」と呼ぶ屋敷跡があった。屋敷は二メートル余の深さの空堀と一・五メートルほどの高さの土手に方形に囲まれていた。昭和初年にはすでに建物がなく、真竹などの生い茂る土地であった。「屋敷」の入は両側にカラタチの木が植えてあり、直進して右折し、十五メートルほどで左折し進むと左側に屋敷跡があった。御殿全体の土地は戦後間もなく三晃工業が内海家から手に入れ、当時、まだ珍しかったブルドーザーで整地し、西側の土地(約二十%)とあわせて工場敷地にした。その後、凸版の工場に変わった。」
なお、文中には参考文献も紹介されております。
柏市増尾の廣幡八幡宮
(
2016
年
5
月
29
日 昼過)
2016
年
5
月
29
日の昼頃、流山市 名都借の
「木の図書館」に行きました折、更に足を
伸ばし、柏市 増尾の廣幡八幡宮にお参り
致しました。
柏市豊四季の「公爵岩倉報恩碑」
の訪問記に
も書きましたように、境内に、岩倉具榮揮毫の
創建七百七十年式年大祭記念碑があるというの
で、それを確認いたしました次第です。
「苔蒸して緑の神域の中に今でも厳然として建っております」とあることから
予想していたのとは異なり、仰ぎ見るほどの高さの石碑が、苔・地衣類の装いを
まとうこともなく、美しく堂々と屹立しておりました。
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