無惨なり。「三笠宮記念館」

 去る二〇一六年四月二十六日、千葉大学教育学部における夕刻の講義に出講する前に、新京成電鉄・東葉高速鉄道の「北習志野」から京成の「大久保」駅まで歩きました。
 目的は、かつての習志野原に、明治期、一時的に敷設された軽便鉄道の軌道跡をたどるためです。
 明治四十三年三月発行の二万分の一地図「習志野」を見ますと、現在の市立習志野高校から西北方向に少し離れた所に駅があり、その付近から支線が三方向に分岐しております。
 それらの支線のうちの一つは、北北西方向へ、現在の陸上自衛隊習志野駐屯地の門のあたりを経て、新京成の「習志野」駅と北習志野駅の中間地点あたりまで延びております。
 しかし、事前調査が不十分でありましたため、現在の地図の上に、軽便鉄道の駅の位置と軌道跡を完全には特定することができず、いささか見当はずれの場所を歩いた場所もありました。しかし、かえってそれが「怪我の功名」となり、思いもかけぬ発見もありました。すなわち、「三笠宮記念館」です。

 その日は、まず、船橋市薬円台にある「船橋市郷土資料館」を訪問しました。工事により閉館中ですが、事務室を訪れまして、刊行物を二冊購入し、館報の在庫のうち幾つかをいただきました。
 ついで、陸上自衛隊習志野駐屯地の門前を経て、軽便鉄道の駅の方面に向かいました。
 軽便鉄道の駅の跡は、現在の地図の上からは確認し難く、あたりを、あちら、こちら、と歩き回っておりましたところ、高い松の木のあるあたりが気になりました。習志野原では、松の古木がある所には、何かしらの由緒があることが多いです(例:東習志野第2住宅)。
 そこで、尋ねてみるため、路地へと入ってみました。
石崎申之陸軍大佐旧邸に向かう路地
 路地の先は袋小路となっており、いかにも由ありげな風情の樹木があります(その樹木は、後で、枝垂桜であることが判りました)。
石崎申之陸軍大佐旧邸 石崎申之陸軍大佐旧邸
 その奥に「石崎」という表札がかかっている邸宅があり、玄関に上がる手前、傍らの植栽の中に、「三笠宮記念館」という銘文のある石碑が立っているのを見出し、大いに驚きました。
石崎申之陸軍大佐旧邸 石崎申之陸軍大佐旧邸の「三笠宮記念館」碑
 さっそく、玄関の呼び鈴を何度も鳴らしてみましたが、まったく反応がありません。
 折よく、近所の方(と、そのときは思いました)が外出のため出て来られましたので、尋ねてみますと、邸宅の主は、産婦人科医の「石崎先生」で、ふだんは不在であるとの由です。
 そこで、「三笠宮記念館」の「石崎」邸の前から離れ、ふたたび軽便鉄道の駅の跡を探って、周辺を歩き回りました。
 そのうち、「石崎」邸の反対側に出ました。立派な門と松の木が、大いに目を引きます。こちらが「石崎」邸の表門で、先刻、尋ねましたのは、勝手口のようです。
石崎申之陸軍大佐旧邸
 「石崎」邸の北に隣接して、産婦人科医院がありました。「医療法人みずたに会 愛育レディースクリニック」です。
愛育レディースクリニック
 その日は、さらに幾つかの場所を巡りました後、京成の「大久保」駅から、千葉大学へ向かいました。

 後日、インターネットで調べてみましたところ、「愛育レディースクリニック」は、「旧石崎産婦人科」を「継承」したとの由です。
 また、「石崎」氏の電話番号も、インターネットから判明しました。そこで、電話をかけてみました。しかし、出ません。その後も、何度も電話をかけてみましたが、まったく出ることがなく、結局、連絡を取ることはできませんでした。
 その一方、「船橋市郷土資料館」でいただいた資料を確認いたしましたところ、そこには「石崎」氏に関する情報もありました。そして、長年にわたり習志野原の研究をされていらっしゃる、地元公共博物館の学芸員、 佐藤誠先生から、数々の貴重な御教示を賜わりまして、「石崎」氏に関する情報を知ることができました。

 この「三笠宮記念館」というのは、陸軍「習志野学校」の教官であった、故 石崎申之 陸軍大佐(明治二十九年生)の邸宅の一角です。
 石崎申之氏は、習志野学校に関する「語り部」であり、習志野におけるロシア・ドイツ捕虜の碑の建立に御尽力された方です。
    https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysalekanko/bunkahistory/rekishi/nichiro/1.html
 石崎氏は、戦後、習志野原の現 船橋市習志野五丁目に、山水庭園付き・茶室付きの広々とした邸宅を構えられたそうです。
 氏は、三笠宮崇仁親王殿下と親交があり、三笠宮との交友に関する記念品を邸内に保管し、「三笠宮記念館」と名付けて、石碑も立てたようです。
 なお、石崎邸の敷地内には、少なくとも次の歴史的石造物が安置されていたようです。
    @ ドイツ人捕虜が作製した石卓
    A 軍馬をつなぐためのコンクリート円筒柱
    B「陸軍省新醫地」の碑
    C 花崗岩の陸軍境界標石(「陸軍用地/いしざき」という黒文字が書き加えられている
 また、石崎申之氏は、敷地内に茶室を建て、ポツダム宣言受諾の屈辱を忘れまいという「臥薪嘗胆」的な御考えか、それとも単なる諧謔かはともかく、茶室を「發檀(ポツダム)庵」と命名し、花崗岩の「發檀庵」碑を、おそらく最晩年にお建てになったようです。
 石崎申之氏が逝去された後には、長男で産婦人科医の石崎満 医学博士が、長らく「石崎産婦人科」を開業していらっしゃいましたが、ご高齢となられましたため、引退され、医院を「みずたに会 愛育レディースクリニック」にお譲りになり、現在、他所に住んでいらっしゃるということです。

 以来、この「三笠宮記念館」こと石崎邸を訪問し、習志野原の近代史に関する資料を拝見したい、という希望を持っておりましたが、なかなか機会を設けることができませんでした。
 そして、本年(二〇一七年)の春休みに至り、佐藤誠先生に、「三笠宮記念館」の「石崎」邸を共に訪問するための段取りをお願いいたしました。
 ちょうど四月二日は、習志野の自衛隊の、年に一度の一般公開日であり、天皇・皇族に所縁の「空挺館」も開放されるということですので、その参観をも兼ねることとなりました。

 二〇一七年四月二日当日。
 お会いした佐藤誠先生から、衝撃的な事実を伝えられました。
 佐藤先生が、このたびの訪問について御尋ねするため、ご高齢の石崎満博士に携帯電話で連絡をお取りになりましたところ、石崎邸は一月末に取り壊されて更地となり、石崎申之関係資料も、石崎博士の意に反するような形で廃棄処分されてしまった、と電話口にて御伝えになったということです。
 まことに暗澹たる思いです。もし、冬休み中に訪問の希望を申し出ていれば、少なくとも、資料の喪失という事態だけは免れたはずです。いま一歩、遅かったです。
 佐藤先生も、たいへんに無念の思いでいらっしゃいました。
 ともかく、佐藤先生の自動車に乗せていただき、「空挺館」(館内には、陸軍の騎兵や皇族に関する、たいへんに意欲的な展示がありました)を参観した後、石崎邸に向かいました。
 取り壊された石崎邸は、まだ完全な更地にはなっておらず、破壊された鉄筋コンクリート製の建物の一部が残り、瓦礫・廃材が散乱しておりました。
石崎申之陸軍大佐旧邸 石崎申之陸軍大佐旧邸
 その日は日曜日でしたので、解体作業は行われておらず、工事関係者の姿はありませんでした。
 立ち入りの許可をいただいている佐藤先生に従い、敷地内に入り、佐藤誠先生と共に瓦礫・廃材の中を見て回りました。
 「三笠宮記念館」碑は、植え込みの中、元あった場所に、そのまま残されておりました。
石崎申之陸軍大佐旧邸 石崎申之陸軍大佐旧邸敷地内の「三笠宮記念館」碑
 その写真を撮影しておりましたところ、昨年四月の「近所の方」が私たちに声をかけました。
 佐藤先生が、事情を御説明になりましたところ、その「近所の方」とは、実に、石崎産婦人科を引き継いだ、「愛育レディースクリニック」の前院長先生でした。
 そして、前院長先生から、いろいろと諸事情を伺うことができました。その中に、朗報がありました。ほんの僅かばかりながら、「愛育レディースクリニック」で預かっている資料がある、とのことです。
 佐藤先生は、思いもかけず、前院長先生にお会いすることができましたことを、非常にお喜びでいらっしゃいました。
 ただし、「愛育レディースクリニック」は、「石崎産婦人科」の場所から、ほど近き旧鉄道聯隊軍用鉄道(マラソン道路)に面した場所に新築した建物に移転したばかりで、取り込み中であるため、その資料も直ちには取り出すことができない、ということで、まだ現物を確認するには至っておりません。

 さて、旧石崎邸と旧「石崎産婦人科」の跡は、更地にされ、新たに十四戸の住宅が造成されるとのことです。
 敷地内の山水庭園は、まだ残されておりましたが、これも埋め立てられるそうです。
 歴史的石造物につきましては、二〇一七年四月二日の時点における状況は、次のとおりです。
     @ ドイツ人捕虜が作製した石卓:見当らず。
     A 軍馬をつなぐためのコンクリート円筒柱:残存。
     B「陸軍省新醫地」の碑:残存。
     C 花崗岩製の陸軍境界標石:瓦礫の中に残存。
石崎申之陸軍大佐旧邸敷地内の、軍馬をつなぐためのコンクリート円筒柱 石崎申之陸軍大佐旧邸敷地内の「陸軍省新醫地」碑 石崎申之陸軍大佐旧邸敷地内の陸軍境界標石
 また、「三笠宮記念館」碑は、先述のとおり、そのまま残存しておりました。
 御影石の「發檀庵」碑は、根こそぎ引き抜かれ、Cの陸軍境界標石の傍らに倒されておりました。
石崎申之陸軍大佐旧邸敷地内の「發檀庵」碑
 そこで、これらの石造物について、石崎申之関係資料ということで、解体業者に廃棄しないようにと御口添えして下さるよう、前院長先生にお願いして、旧石崎邸跡を辞去いたしました。

 「三笠宮記念館」こと石崎邸には、必ずや、三笠宮所縁の遺品が多数ありましたことと思われます。おそらく、それらは全て、解体業者によって処分されてしまったことでしょう。
 わずか二箇月余りの手遅れで、近現代歴史資料がみすみす湮滅してしまい、佐藤誠先生と共に、無念の思いに暮れました次第です。
 このたびは、近現代史料の保全の難しさを、身近に知ることができました。

 ところで、二〇一六年四月二十六日に「いかにも由ありげな風情」と感じた枝垂桜は、この二〇一七年四月二日の訪問の折、薄紅色の最期の花を咲かせておりました。
最後の花を咲かせる石崎申之陸軍大佐旧邸の枝垂桜
 この、春の名残をいかにとやせん。
201748日記)


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