地名サランスクを知らざる金帳汗国史研究者は“もぐり”也と云わざるべからず

 「サランスクの奇跡」── この言葉が定着すると、非常に嬉しいです。
 2018619日にサランスク Саранск / Saransk という地名を初めて知られた方がたが多いことと思われますが、およそキプチャク汗国(金帳汗国)史の研究者ならば、必ず知っているはずです。
 と申しますのは、ソ連邦における重要な先行研究書、M.G.サファルガリエフ Магомет Гарифович Сафаргалиев / Magomet Garifovič Safargaliev の『金帳汗国の崩壊』Распад Золотой Орды / Raspad Zolotoi Ordy1960年)の発行地がサランスクであるからです。

 サランスクにおける、サッカー・ワールドカップの日本対コロンビア戦の会場は、横から見ると朱色の目立つ楕円形の飛行船のようなスタジアム「モルドビア・アリーナ Мордовия-Арена / Mordovia Arena (Saransk Stadium)」。モルドビアとは、サランスクを首都とする共和国の名前です。
 ロシア連邦モルドビア共和国は、ソ連邦時代には「ロシア共和国モルドフ自治共和国」と称されておりました。
 モルドヴィア共和国の冠称民族は、フィン系のモルドヴァ Мордва / Mordva すなわちモルドヴィン人です。
 ちなみに、ルーマニア共和国に隣接する「モルドヴァ Moldva 共和国」(旧ソ連邦「モルダヴィア共和国」)とは「r」と「l」の一字違いで、日本語では同一カタカナ表記となり、たいへんに紛らわしいです。
 モルドヴィン人は、ヨーロッパ=ロシアのヴォルガ・ウラル地域を中心に広範囲に分布しており、彼らのうちモルドヴィア共和国に居住するのは三割にも達しません。族際結婚等に伴うロシア化が著しく、ソビエト時代には百万人を超えていた民族人口が、2002年の統計では843350人、2010年の統計では744237人と減少を続けており、将来的な民族文化の存続が危ぶまれます。
 モルドヴィン人は、言語・文化の相違から、東部のエルジャ Эрзя / Erzya と、西部のモクシャ Мокша / Mokša(言語的にテュルク語の影響が強く、文化的に、より古風であるとの由)の二つの主要集団に分けられます。というよりも、モルドヴィンという「民族」自体が、互いに共属意識を持っていない両集団を統合して成立したとも言えるでしょう。
 ソビエト時代には、モルドヴィン人全体のうち、エルジャとモクシャとの人口比率は、ほぼ二対一でしたが、現在ではどうなのでしょうか。なお、エルジャ集団に属するもののエルジャとモクシャとの中間的な言語的特徴を持つというショクシャ Шокша / Šokša 集団(テングシェヴォ・モルドヴィン人 теньгушевская Мордва / ten'guševskaya Mordva)、また、タタールスタン共和国内に居住してテプテル=タタール人と混住し、大半が言語的にタタール化、宗教的にイスラーム化したモクシャ集団であるカラタイ Каратаи / Karatai という少数集団が知られております。
 さて、モルドヴィン人の伝統的民俗合唱曲は、たいへんに素晴らしいです。しかし、甚だ遺憾ながら、日本語の解説がついたモルドヴィン民俗音楽のLPCD類は、管見の限り、皆無です。
 そこで、モルドヴィン民俗音楽をまとめて収録しているCDを、ここに幾つか紹介したいと思います。

PAN 2035
Вирь авакай
母よ、森の保護者よ
モルドヴィン人の歌と旋律』

Viryavakay.
Oh mother, protectress of the forest.
Songs and melodies of the Mordva.

Leiden, PAN Records (http://panrecords.nl/), 2001.
[PAN 2035]

Liner Notes: Vyacheslav Shchurov

○モクシャ (#01-25
 ・Staroshaygov 地区 Staraya Terizmorga 村(#01-07
   女声合唱(#01-04
   バイオリン演奏(#05
   笛 vyashkema 演奏(#06,07
 ・Ruzayevo 地区 Ogaryovo 村(#08-11
   女声合唱
 ・Ruzayevo 地区 Suzgarye 村(#12-16
   女声合唱
 ・Ruzayevo 地区 Levzha 村(#17-23
   民俗アコーディオン演奏(#17,18
   バラライカ演奏(#19,20
   バイオリン演奏(#21,22
   バラライカ伴奏のチャストゥーシカ(#23
   女声合唱(#24,25
○ショクシャ (#26-28
 ・Tengushevo 地区 Norovatovo 村(#26-28
   女声合唱
○エルジャ (#29-35
 ・Dubyonsk 地区 Chindyanovo 村(#29-35
   女声合唱(#29-33
   わらべ歌(#34
   挽歌(#35
#1-4:モスクワ放送が1968/69年に録音
#5-7V.M.シューロフ Vyacheslav Shchurov19927月に現地録音
#8-35V.M.シューロフ Vyacheslav Shchurov19937月に現地録音
 モルドヴィン三集団 ── モクシャ、ショクシャ、エルジャ ── の伝統的民俗音楽が収録されている本CDは、旧ソ連邦諸民族の民俗音楽の現地調査・研究に顕著な業績のあるロシアの民俗音楽学者、V.M.シューロフ Вячеслав Михайлович Щуров による現地録音から主に構成されており、伝統的合唱曲等、モルドヴィン民俗音楽に関する基本的な音源資料です。
 演唱・演奏者は全て村落の民間歌手・音楽家です。中には、海外公演に招聘された人々も含まれているとの由ですが、(良い意味で)土臭く、モルドヴィン伝統音楽の精髄を堪能させられる名盤です。
 なお、V.M.シューロフの著書、『歌を求める旅 再録の覚書』 Щуров В.М., Путешествия за песнями. Записки собирателя. Москва, ООО 《Луч》, 2011. (С приложением диска с записями песен в формате mp3.) [ISBN 978-5-87140-330-3] の付録CD-ROMには、本CDに収録されているモルドヴィン音源の一部も収められております。
 ちなみに、V.M.シューロフは、他にも何枚もの民俗音楽CDを出していますが、いずれも例外なく名盤です。

B 6835
『ヴォルガの歌 チュヴァシア・モルドヴィア』

Chants de la Volga.
Songs of the Volga.
Tchouvachie - Mordovie.
Chuvashia - Mordovia.

Paris, AUVIDIS, 1996.
[ETHNIC B 6835]

Liner Notes: Hubert Boone.

○ チュヴァシ(#01-21
 ・チュヴァシ共和国 Kozlovka 地区東北部の Shimenyevo 村(#01-08
 ・チュヴァシ共和国 Yadrin 地区西北部の Orabakasy 村(#09-15
 ・チュヴァシ共和国 Shumerlya 地区西部の小村、Savaderkino 村(#16-20
○ モクシャ(#22-28
 ・サランスク西方 Staro Shaygovo 地区 Staraya Terizmorga
○ エルジャ(#29-33
 ・チュヴァシ共和国南西部 Poretskoye 地区 Napolnoye 村(#29
 ・サランスク北東 Chamzinka 地区 Bolshiye Remezenki 村(#30,31
 ・サランスク北東 Chamzinka 地区 Bolshoye Maresevo 村(#32,33
 本CDは、前半にテュルク系チュヴァシ人の単声合唱とアコーディオンの旋律(#01-21)、後半にモルドヴィン人の多声合唱と嘆き歌(#22-33)が収録されております。
 こちらも民俗的価値が高い音源で、演唱・演奏者は全て村落の民間歌手・音楽家です。
 モクシャのは、Staraya Terizmorga 村の人々による演唱で、上記『Viryavakay』と共通しておりますが、エルジャのは、別の村の人々による演唱です。
 前半に収録されているチュヴァシ民俗音楽ともども、美しい旋律をこよなく愛聴することができる名盤です。

RDCD 00484
『クリュチャ、金鍍金したクリュチャ
ペンザ地方の民謡と器楽旋律』

Klucha, Golden Klucha.
Folk Songs and Instrumental Tunes
of the Penza region of Russia.

Ekaterinburg, RUSSIAN DISC, 1996.
[RDCD 00484]

Составитель Н. Гилярова

http://www.russiandisc.ru/disc/RDCD_00484.aspx

○ エルジャ
  ・Šemïšeyskogo 地区 Staroe Demkino 村(#01-07
   ロシア民謡(#01,03,07
     #01,07:軍役において吸収した。
   エルジャ民謡(#02,04-06
○ ロシア
 ・Šemïšeyskogo 地区 Sinodskoe 村(#08-12
   ロシア器楽旋律:バラライカ演奏
    (#08,09 はマンドリンとの合奏)
○ モクシャ
 ・Šemïšeyskogo 地区 Staraya Yaksarka 村(#13-22
   ロシア民謡(#13,14,20
     #13,14:モクシャの春の儀礼の歌となる。
     #20:ロシア語とモクシャ語
   モクシャ民謡(#15-19,21,22
     #15:最も古風な葬礼の歌
○ ロシア
 ・Šemïšeyskogo 地区 Armievo 村(#23
   ロシア器楽旋律:バラライカ演奏
○ エルジャ
 ・Šemïšeyskogo 地区 Koldais 村(#24-32
   ロシア器楽旋律:バラライカ演奏(#24-26
   エルジャ民謡(#27-30
     #29:最も古風な婚礼の歌
   ロシア民謡(#31,32
     #31:バラライカの旋律の口真似
○ ロシア
 ・Šemïšeyka 団地(#33
   ロシア器楽旋律:ガルモニ演奏
 本CDにモルドヴィン民謡が収録されているとは、表題を見ただけでは分かりません。それどころか、ここではロシア民俗音楽よりも、モルドヴィン人(モクシャ、エルジャ両集団)に伝承されている民俗音楽の比重の方が大きいです。
 ペンザ地方のモルドヴィン人は、自民族本来の民俗音楽のほか、ロシア民俗音楽をも伝承しております。特に興味深いのは、ロシア人には既に歌われなくなった古いロシア民謡が、モルドヴィン人において、異なった機能を付与されて維持されていることです。
 「民族文化」とは何か、を考える上で、たいへんに興味深い事例を提供する、民俗的価値も高い、貴重な音源資料です。

MIPUCD 502
『トーラマ モルドヴィンの歌
─ エルジャ=モルドヴィンの歌』

Toorama.
Mordvin songs
─ Songs from Erzyan Mordvin
.
Rääkkylä, Mipu Music, 1996.
[MIPUCD 502]
○ エルジャ民謡(#01-16
 既に紹介した3点のCDに収録されているモルドヴィン民俗音楽は、いずれも村落の民間歌手・音楽家による演唱・演奏です。合唱曲は、全てが女声合唱で、土臭いところが大きな魅力です。
 一方、本CDに収録されているのは、1990年にサランスクで結成された男性グループ「トーラマ Toorama / Фольклорный ансамбль Торама」による、洗練された男声合唱です。
 舞台向けに編曲されたエルジャ民謡ですが、全曲、無伴奏で、伝統的モルドヴィン合唱曲の民俗性を維持しつつも、新しい民族音楽の方向性を示そうと努めている姿勢が窺われます。
 これは、ソビエト期のグルジア民謡におけるのと同様の試みであると考えることも可能でしょう。
 なお、本CDは、「トーラマ」の最初の専輯アルバムです。その後もCDを数枚ほど出しているようですが、いずれも未入手です。
 ※「トーラマ」公式サイト:
    http://torama.club/
   (Фольклорный ансамбль Торама. Официальный сайт

CDM CMT 274978
『ロシアの人々の歌
ブリャンスク、トゥーラ、アルハンゲルスク、
スヴェルドロフスク等の諸地区』

Chants des Peuples de Russie.
Songs of the Peoples of Russia.
Regions of Briansk, Tula, Arkhangelsk, Sverdlovsk....

Paris, Le Chant du Monde, 1994.
[CDM CMT 274978]

Liner Notes: Ekaterina Dorokhova

○ ロシア
 ・ブリャンスク州 Суземка / Suzemka 村(#01-05
 ・トゥーラ州 Животово / Zhivotovo 村(#06-10
 ・アルハンゲリスク州 Кеврола / Kevrola 村(#11-18
マリー人
 ・スヴェルドロフスク州 Юва / Yuva 村(#19-22
モルドヴィン=カラタイ人
 ・タタールスタン共和国(#23-26
○ ロシア
 ・クラスノダル地方 Бесстрашны / Besstrashny 村(#27-29
○ ウクライナ
 ・ハリコフ州 Завгороднее / Zavgorodnéyé (Завгороднє) 村(#30-32
 本CDは、ヨーロッパ=ロシアおよびウクライナの村落に伝わる民謡を収録した、民俗的価値の高い一枚です。
 但し、収録内容の解説文(フランス語訳と英語訳。ロシア語の原文なし)は、遺憾なことに、あまり詳細ではありません。翻訳の際に抄訳されてしまったのでしょうか。
 解説の筆者、E.A.ドロホワ Екатерина Анатольевна Дорохова / Ekaterina Anatol'evna Doroxova は、実績のある音楽研究者で、その専著『民族文化の《半島》:音楽発展の道 クルスク・ポセミイェのロシア諸村とウクライナの大農村スロボダの歌唱民俗』 Этнокультурные 《острова》: пути музыкальной эволюции. Песенный фольклор русских сёл Курского Посемья и Слободской Украины. Санкт-Петербург, Издательство 《Композитор》, 2013 [ISBN 978-5-7379-0740-2] の音声付録CDには、ウクライナのスームィ州プチヴリ地区 Путивльский район とハリコフ州バラクレイ地区 Балаклейский район、ロシアのベルゴロド州シェベキン地区 Шебекинский район の民俗音楽が収録されております。
 それはさておき、本CDには、ケースの裏面に、
    Region of Sverdlovsk (Mari People)
    Region of Tartary (Mordvines-Karataïs)
と明示されておりますので、フィン系のマリー人とモルドヴィン=カラタイ人の歌も収録されていることは一目瞭然です。
 尤も、ロシアの諸民族に そこそこ詳しい人でありましても、大抵は、「モルドヴィン=カラタイ人」については、モルドヴィン人の下位集団であるらしい、という以上の知識はないでしょう。かく申す私も、本CDを入手して、初めてカラタイ集団の存在を知りました次第です。
 人口わずか百人規模という超少数集団カラタイの民俗合唱を紹介する貴重きわまりなき盤ですが、マリー人についても、マリー共和国内ではなく、ウラル方面における離散集団を取り上げているという点で、たいへんに興味深く思われます。

 さて、「カラタイ」に関連して、上述の『金帳汗国の崩壊』の著者M.G.サファルガリエフ(ロシア帝政期の19061月生まれ)の出身地は、サマラ州 Самарская губерния ブグルマ県 Бугульминский уезд のムクミン=カラタイ村 село Мукмин-Каратай(現、シュグル地区 Шугуровский район マールィイ・カラタイ村 деревня Малый Каратай)です。
 出身地の村名に「カラタイ」が付いておりますので、M.G.サファルガリエフも、タタール化したモクシャであるモルドヴィン=カラタイ人だったのでしょうか?
 また、彼が奉職したのはモルドフ教育研究所(Мордовский педагогический институт)で、同研究所を基盤に1957年に創立されたモルドフ国立大学 Мордовский государственный университет で最初のロシア史料学クラスを担当し、ソビエト社会主義共和国連邦歴史講座主任(заведующий кафедрой истории СССР)として長年サランスクで研究・教育に従事し、逝去(197012月)地もサランスクと、モルドフ自治共和国(現モルドヴィア共和国)との縁が深いです。まさしく遠祖の故郷にて学術の発展のために尽力したかのようにも見えます。
 しかし、やはりM.G.サファルガリエフは、カラタイ人ではなく、ヴォルガ=タタール人でした。
 もっとも、多民族が混住する地域に生まれ育った彼が、幼少期からモルドヴィンの人たちとも親しく接していたことに、疑いの余地はないでしょう。
 モルドヴィア共和国においては、現在に至るまで、M.G.サファルガリエフの学術・教育上の功績は忘却されておらず、彼を記念した学術講座が開催されております。

M.G.Safargaliev
M.G.サファルガリエフの肖像
      出典:右掲書

GNOPP 1997

M.G.サファルガリエフを記念して開催された
学術講座の論文集

『人文科学の研究と教育:問題と展望 
サファルガリエフ学術講座の諸資料 一』
サランスク, 1997

Гуманитарные науки и образование:
проблемы и перспективы.
Материалы I Сафаргалиевских научных чтений.
Саранск, Типография 《Красный Октябрь》, 1997.


 なお、名著『金帳汗国の崩壊』も再刊されており、また、未刊行の著作集も刊行されるとの由です。
 M.G.サファルガリエフの研究業績は、今後も我々を裨益し続けて止まないことでしょう。
(2018.6.29記; 2019.12.13修訂)



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