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「海上村」第二編 第一章 沿革 三「宮原」(九八三頁) 宮原有御所山、藥王寺記曰、天文中足利義舜居此、稱宮原御所、卒後捐館爲寺、以祈冥aA其裔宮原氏、仕江戸府、班高家衆(東照宮實記曰)。關東にて名門舊族の時世かはりて沈せしものどもを、あまためし出され扶助あり、宮原勘五カ義凞といふは、古河御所リ氏が弟左馬頭憲寬が子にて、上總宮原に住せしを召出され采地千石下され、のちに高家に列す、(關八州古戰録に云)故足利左兵衞督リ氏の連枝、賢壽王丸は上杉の遺跡を讓り受け、兵部大輔憲寬と號したりしが、君臣一和せざるまゝ、憲寬本意なく思はれしにや、享祿四年、故憲房の實の息男四カ憲政、今年九歳たりしに家督を渡し、其身は里見刑部大輔義堯に合體して、上総市原郡宮原へ退隱して、本姓に復し足利左馬頭リ直と改稱し、治亂を避けて殘生を送らる 「海上村」第二編 第三章 口碑傳説 二「宮原御所」(九九二頁) 口碑の傳ふる所に依れば、足利古河公方七代源政氏四男義舜、本名龜王丸、本村内の宮原に移住して宮原御所と稱す、逝去の後追善のため一宇を開基し、御所山藥王寺明照院と稱し、院の北方に義舜を祭りし小祠あり、御所明~と云ひ其の祭典にはコ川氏の頃、高家從四位上宮原彈正大弼より春秋の供物ありたりと云ふ。 海上村 第二編 第六章 寺院佛堂 一「藥王寺明照院」(九九七〜九九八頁) 宮原にありて眞言宗なり、傳ふる所に由れば、足利古河公方、七代源政氏の四男、義舜幼名龜王丸、天文四乙未年本村へ移住して宮原御所と稱す、逝去の後(年暦不詳)侍臣相議り、追bフ爲め一宇を開基し御所山薬王寺明照院と稱す、本院の北方に義舜を葬祭せし小祠あり、御所明神と云ふ、九月二十九日を以て祭典を行ふ、コ川氏の世、高家從四位上宮原彈正大弼より春秋の供物あり、當時の住職武運長久の護摩札を贈るを以て例とす。(以下、按文省略) |





















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~代村にありて天照大日孁尊を祭る、土俗傳ふる所に由れば、景行天皇四十年日本武尊東征の時親祭する所に係ると、唯、憑據攷ふ可からず、故~祇官史生立野良道識す所の社記を掲げて以てその緣由の大概を示す。(以下略) |







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宮原御所跡は、十六世紀の前半、古河公方の一族が居住した居館跡と伝えられています。 現在、遺跡の上には、館の居住者の冥福を祈るために造られたと言れている、明照院が建つていま す。明照院の周囲には、館を守るための土塁がよく残され、往時をしのぶことができます。 |


















