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● 次の言説は、すべて歴史事実に反する。曰く、「南京大虐殺は虚構である」。曰く、「アイヌは先住民族ではない」。曰く、「非皇族が皇族の養子となることにより皇籍を取得した先例はない」。
 誤った言説の流布に対して具体的な史実を示すことは、歴史研究者の責務であろう。ここに、傍系皇族・皇胤の研究者として、近世における「非皇族が皇族の養子となることにより皇籍を取得した先例」を略系図にまとめた(以前作成したものを増補)。
 
http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/t/kinsei_retsu-kouzoku.pdf
 御参照いただければ幸いである。
(2026.7.13)


早稲田の「萬夢志」

まむしに注意

 兼築信行先生の訃報を知りました。ご在職中の御逝去に、たいへんに衝撃を受けております。
 先生とは、戸山構内において顔を合わせるたび、ほぼ必ずと言ってよいほど洒落口(発句らしきものをも含む)を交わしておりました。今年は早稲田への出講がなく、当然、お会いする機会もありませんでした。喪失感を感じるというよりも、ともかく突然のことに驚くよりほかありません。
 先生からは、早稲田大学本庄高等学院長として御自らが“開発”された「まむしに注意」のクリアファイルを賜わったことがございます。
 ご参考:https://www.waseda.jp/school/honjo/assets/uploads/2022/06/34.pdf
 このクリアファイルは、宮内庁公文書館・書陵部にて史料調査を行う際の関係書類を入れるのに長年にわたって愛用しておりました。
 ご生前の軽妙洒脱な御遺徳を想い、心よりお悔やみ申し上げます。
2026.7.9
早稲田のマムシ


「宮原御所跡」明照院参詣
2026.7.1

明照院

 令和八年(2926)七月一日水曜日、午前における千葉大学教育学部での講義が終了した後、関東公方足利家(鎌倉殿)の支流 宮原(みやはら)家の名字の地、市原市内陸部の宮原(みやばら)へ、「宮原御所跡」の御所山薬王寺明照院(市原市宮原454。小字は神田。真言宗豊山派)に参詣いたしました。
 この「宮原御所」には、古河公方(鎌倉殿)足利晴氏の弟にあたる足利晴直(もと上杉憲寛)が隠棲したとされております。彼は足利高基の子で、山内上杉家の関東管領憲房の養子となり、上杉憲寛(憲広)と称し、養父憲房が死去すると、憲房の養子として山内上杉の家督と関東管領職を相続しました。しかし、享禄年間における内紛で憲房の子 憲政に敗れて失脚しました。ちなみに、憲寛を破った憲政は、のちに上杉謙信を養子に取り、最期は「御館の乱」で殺害されたことで有名です。
 通説によりますと、失脚した上杉憲寛は上杉家を離れて晴直と名乗り、真里谷武田信政の勧めによって、新たに宮原(みやばら)に築かれた館へ移り、足利一門ということで「宮原御所」と「御所」号を称されたとの由です。そして、晴直の孫、義照は徳川家康に取り立てられて家名を「宮原」と称し、その弟で跡を継いだ義久は高家(こうけ)の旗本となり、幕末に到っております。

 ご参考:
 栃木県公式ホームページ 栃木県立文書館(もんじょかん) 寄託文書 49 宮原功家文書 解題
 https://www.pref.tochigi.lg.jp/m58/education/bunka/monjyokan/documents/1280804091387.pdf

 家名の読みが、濁音を含む地名「みやばら」でなく「みやはら」であるのは、京都の朝廷との折衝に当たる高家として、家名をより高雅に聞こえるように改めたためなのでしょうか。


 「宮原御所」につきましては、大正五年の千葉縣市原郡ヘ育會編纂『市原郡誌』(千葉縣市原郡役所發行、大正五年八月)に、次のように見えます。
 https://jpsearch.go.jp/item/dignl-951002

「海上村」第二編 第一章 沿革 三「宮原」(九八三頁)
宮原有御所山、藥王寺記曰、天文中足利義舜居此、稱宮原御所、卒後捐館爲寺、以祈冥aA其裔宮原氏、仕江戸府、班高家衆(東照宮實記曰)。關東にて名門舊族の時世かはりて沈せしものどもを、あまためし出され扶助あり、宮原勘五カ義凞といふは、古河御所リ氏が弟左馬頭憲寬が子にて、上總宮原に住せしを召出され采地千石下され、のちに高家に列す、(關八州古戰録に云)故足利左兵衞督リ氏の連枝、賢壽王丸は上杉の遺跡を讓り受け、兵部大輔憲寬と號したりしが、君臣一和せざるまゝ、憲寬本意なく思はれしにや、享祿四年、故憲房の實の息男四カ憲政、今年九歳たりしに家督を渡し、其身は里見刑部大輔義堯に合體して、上総市原郡宮原へ退隱して、本姓に復し足利左馬頭リ直と改稱し、治亂を避けて殘生を送らる

「海上村」第二編 第三章 口碑傳説 二「宮原御所」(九九二頁)
口碑の傳ふる所に依れば、足利古河公方七代源政氏四男義舜、本名龜王丸、本村内の宮原に移住して宮原御所と稱す、逝去の後追善のため一宇を開基し、御所山藥王寺明照院と稱し、院の北方に義舜を祭りし小祠あり、御所明~と云ひ其の祭典にはコ川氏の頃、高家從四位上宮原彈正大弼より春秋の供物ありたりと云ふ。

海上村 第二編 第六章 寺院佛堂 一「藥王寺明照院」(九九七〜九九八頁)
 宮原にありて眞言宗なり、傳ふる所に由れば、足利古河公方、七代源政氏の四男、義舜幼名龜王丸、天文四乙未年本村へ移住して宮原御所と稱す、逝去の後(年暦不詳)侍臣相議り、追bフ爲め一宇を開基し御所山薬王寺明照院と稱す、本院の北方に義舜を葬祭せし小祠あり、御所明神と云ふ、九月二十九日を以て祭典を行ふ、コ川氏の世、高家從四位上宮原彈正大弼より春秋の供物あり、當時の住職武運長久の護摩札を贈るを以て例とす。(以下、按文省略)

 ここには、藥王寺明照院の由緒では、古河公方政氏の子「義舜」が天文四年(一五三五)に宮原へ移住して「宮原御所」と称されたとあります。この「義舜」は、他の文献史料からは存在を確認することができませんが、宮原家の祖である晴直(政氏の孫)に比定されているようです。

 さて、「宮原御所跡」の明照院は、列車の本数が少ない小湊鉄道の上総村上駅または海士有木(あまありき)駅から、それぞれ3kmほど離れた場所にあります。所在地、市原市宮原とその周辺の諸地区は、小湊鉄道のバス路線が廃止された後、公共交通の空白地帯と化しており、外部からの訪問が必ずしも容易ではない状況となっております。
 しかも、この辺り一帯は、盛夏には猛烈な暑さとなることで有名で、梅雨明け以降の徒歩による訪問には生命の危険さえ伴いそうです。昨年(令和七年)は梅雨明けが早く、たいへんに暑さが厳しかったものですが、本年は平年並みのようで、それほど暑くならないうちに宿願を果たさん、と天気予報を得た前日(六月三十日)夜に思い立ち、宮原訪問を敢行する準備を整えました。
 幸い、当日(七月一日)も暑くはなく(湿度は高かったですが)、かつ曇天で、巡検には甚だ適しております。そこで、講義終了後、早々に退出しました。千葉大学最寄り駅の西千葉駅へ向かって大学構内をイソイソと歩いておりましたところ、小雨が降りはじめました。“歩きスマホ”で雨雲レーダーを確認してみますと、特に雨雲がかかっているわけでもありませんので、巡検に問題はないと判断しました。
 当初、鉄道時刻は調べませんでした。小湊鉄道は列車の本数が少ないとはいえ、上総牛久までは区間運転の列車もありますので、最悪でも一時間以上 列車を待つことはないはずです。西千葉12時29分発の列車で千葉へ出て、内房線千葉12時40分発に乗り換えました。出発待ちの列車内にて鉄道乗換案内サイトで調べてみますと、小湊鉄道の五井発の列車は15時53分までないとのこと。昼間時の列車の本数が大削減されてしまったのか!?と大いに驚きました。五井駅から宮原の地まで歩かなければならないのか... と思いましたが、念のため、小湊鉄道の駅別時刻表をネット検索してみましたところ、列車ダイヤが削減されたわけではなく、線路工事に伴う平日昼間のみバスによる代行輸送が行われているとのことで、安堵しました。列車代行バスは五井発13時10分で、接続は完璧、むしろ乗り換え時間が短すぎるのでは、と心配する程です。

五井→海士有木
五井→海士有木

五井駅の小湊鉄道乗換口
五井駅の小湊鉄道乗換口(画面を一部加工)

五井駅に長時間停車中の小湊鉄道の気動車
五井駅に長時間停車中の小湊鉄道の気動車

五井駅東口の小湊鉄道列車代行バス
五井駅東口の小湊鉄道列車代行バス

 五井駅東口から出る列車代行バスは車内ほぼ満席でした。空き座席が二〜三席ほどありましたが、立っている乗客も二人おります。なお、バスの床が木張りであったことには驚きました、
 列車代行バスは13時10分、定刻どおり発車しました。運転士はウラ若き女性運転士で、車掌が二人(男性と女性)乗務しております。小湊鉄道バスは、相対的に早い段階で運転士不足によるバス便の縮小を実施したことが記憶に新しいところですが、若い運転士の御活躍に、公共交通の将来を期待いたします。

小湊鉄道列車代行バスの車内
小湊鉄道列車代行バスの車内

 列車代行バスは「更級通り」を進みます。この「更級」は、もちろん北信濃とは無関係で、上総国府ゆかりの『更級日記』による命名です。バスは、「細町橋脇」交差点の次の信号のある交差点を右折して、上総村上駅の北方で停車し、私の記憶では三人が下車しました。上総村上駅の手前を左折したバスは「更級通り」に戻り、「市役所通り」を経て、国道297号線(大多喜街道)を進みます。
 次の海士有木で下車したのは私だけでした。まだバスが走行している間に、女性車掌が乗車券を回収するためにやって来ました。乗車券をいただきたい旨を申しますと、確認できたので問題ないとの由。
 列車代行バスが停まったのは国道297号線(大多喜街道)が小湊鉄道の踏切を超えた先、「海士有木駅入口」信号の付近でした(13時26分)。駅からは150mほど西に離れております。

海士有木を発った小湊鉄道列車代行バス
海士有木を発った小湊鉄道列車代行バス

 下車後ただちに目的地、宮原方面に向かうことはせず、まずは海士有木駅へと向かいました。海士有木駅の駅舎は有形文化財に登録されている由緒あるものです。

海士有木駅
海士有木駅(右手奥に見えるのは古式ゆかしくもない古い便所)

 無人の駅にて15分ほど過ごし、写真を何枚も撮影しました。乗車券を持っておりますので、駅構内への立ち入りにはまったく問題がありませんが、そもそも無人駅では、入場券ナシでも駅構内立ち入りに制限はないでしょう。

海士有木駅
海士有木駅構内

海士有木駅

海士有木駅

海士有木駅

 海士有木駅は、今はなき千葉急行電鉄の終点駅に予定されておりましたが、路線が「ちはら台」駅にまで達したところで延長工事は凍結し、経営不振の千葉急行電鉄が廃業して路線が京成千原線に衣替えしてから現在に至るまで、路線延長は実現しておりません。ちなみに、「ちはら台」駅の一駅手前の「おゆみ野」駅の「おゆみ」とは即ち「生実(おゆみ)」で、足利晴直の叔父、「小弓(おゆみ)御所」足利義明の本拠地です。
 13時45頃、海士有木駅を離れ、同駅から南南西に直進する狭い道を進んで行きますと、左手に、山羊を何匹も飼っている家がありました。
 突き当りの県道292号大成海士有木線を左折し、海士の集落を東に進みます。

海士の街並み
海士の街並み

 右手に「海士公民館」、次いで「市原市消防団 三和支団第1分団器具置場」がある先を右折し、狭い道を進んだ右手の竹矢来の向こうは海士山泰安寺です。そのまま狭い道を南に直進し、突き当りを右折して西進すると、右手に海士山泰安寺(顕本法華宗)の立派な楼門が現れます。

SS-02 泰安寺|市原歴史博物館
 https://www.imuseum.jp/field_museum/1/coursserch/shisai/1164.html

海士山泰安寺山門
海士山泰安寺山門

 この楼門から泰安寺の境内に入り、参詣いたしました。
 その後、泰安寺の門前から西へ進みました。実は、門前のすぐ近くの左手に「新殿1号墳」という墳丘があるのですが、気づかずに通り過ぎ、そのまま直進しました。
 緩い坂道を下りますと、交通量の多い国道297号線(大多喜街道)に出ます。少し戻るようですが右折して北上、左手の大坪山龍興寺という曹洞宗の寺のそばに「海士有木」バス停がありますが、何と、バスの運行ナシということで、どうやらバス路線が休止となっているようです。なお、このバス停のすぐ近くに、轢死したと思しきネコの死骸が無惨に転がっておりました。なお、それに気付く前にバス停の写真を撮影したのですが、後で確認してみますと、映り込んでおりましたので、写真からその部分を外しました。

海士有木バス停
海士有木バス停

大坪山龍興寺
大坪山龍興寺

 大坪山龍興寺の境内・墓地の西から狭い道へ降り、その道を南西に進みますと、養老川右岸の大坪集落に到ります。そこには「大坪城」の跡があるはずなのですが、よく分からないまま養老川の右岸に出て、養老川に架かる大坪橋に向かいます。

大坪橋の東から大坪城跡方面を望む
大坪橋の東から大坪城跡方面を望む

養老川(大坪橋)
養老川(大坪橋)

 橋の手前で雨が降り出しましたので、傘を開きます。歩道がない大坪橋で養老川を渡りましたが(14時14分)、自動車のために危険を覚えるというようなことは特にありませんでした。
 大坪橋を渡り、左右に水田が広がる車道をそのまま南西に進み、「新生(あらおい)」地区の中心街に到りましたところで雨が本降りとなりました。そのため、同地区の寺社には立ち寄らず、突き当りを左折し、南へ少し進みますと、突然、という感覚で大きな車道に出ました。国道297号線の新道「市原バイパス」です。右折して西へ向かった少し先にある「新生十字路」の向かい側に、千葉県の地元産品の直売所「新生 房の駅(ふさのえき)」がありました。これはありがたい、と、そこでしばし、雨宿りすることにいたします(14時25分)。

新生 房の駅
「新生 房の駅」
新生 房の駅

 「新生 房の駅」の建物の右端では農作物の種子や肥料など農業関係品を扱っておりますが、その出入り口の傍らに、「房の駅」のキャラクター「せいた」くん(と言うのだそうです)の大きな立体像が鎮座しており、その隣に腰掛けて時雨を過ごしました。スマホで雨雲レーダーを開いてみましたところ、まるで狙いをつけたかのように、市原市内陸部の一部地域にのみ雨雲がかかっております。

雨雲レーダー

 ここで、念のため持参していた食料品、「さ志まや」(茨城県猿島郡境町)の煎餅や、五家宝(ごかぼう。ふつうの市販品)を食します。なお、「房の駅」店内の手洗い所の近くに小湊鉄道関係商品を並べた一角がありました。
 「お願いです / 小湊鉄道1.000枚 / 鉄道会社分完売!! / 記念硬券 / 当店にはまだ在庫があります・・・ / 限定品を眠らせたくありません! / 鉄道ファンの皆さま! / どうかお力をお貸しください!」との哀願(?)にホダされまして、とはいえ実用品を、ということで「小湊鉄道株式会社 定規キハ200」と「小湊鉄道株式会社 定規キハ40」の二点を税込み計1200円也で購いました。しかし、今から思えば、記念硬券のほうも買っておけば良かったなぁ、と思っております。おそらく有効期限は切れていないのでしょう。あらためて小湊鉄道沿線を巡検する時に利用できるはずですので、惜しいことをしました。

新生 房の駅
「新生 房の駅」店内

小湊鉄道定規
小湊鉄道定規(画面を一部加工)

 やがて雨は小降りになり、傘もささずに歩ける程度となりましたので、雨宿り休息25分で「新生 房の駅」を後にして(14時50分)、県道13号市原茂原線を西に進みます。歩道がありますが、車道を走る自動車がハネる水シブキがかかりそうで、ヒヤヒヤしながら歩きます。なお、市原市は、この県道13号市原茂原線の一部区間をも含めた道路に「平成通り」という名称を付けておりますが(前述の「更級通り」と同じく、でしょう)、その道路名案内標が壊れかけており、「平成も遠くなりにけり」感を醸し出します。

「平成通り」
「平成通り」

 左手に丘陵が近づいてきました。木立には水蒸気がかかっております。大字(あざ)は「分目(わんめ)」と「神代(かじろ)」で、共に難読地名です。

分目/神代
分目/神代

 県道13号市原茂原線の緩い坂を上っていきますと、右手に市原市立海上(うなかみ)小学校があります。

海上小学校
海上小学校
海上小学校

 手書き感のある「あいさつをしましょう」の表示板は、たいへんに好ましく思われます。
 海上小学校の少し先(西方)、「JA市原市共済部」(旧、海上農協)の手前に、忠霊塔と忠魂碑ほかが並んで立っております。前者の揮毫は「元陸軍大將 鈴木孝雄」、後者は「陸軍中將梅澤道治」です。

忠霊塔と忠魂碑ほか(神代)
忠霊塔と忠魂碑ほか(市原市神代)
忠霊塔 忠魂碑

 そのすぐ先で左折して南下し、「神代(かじろ)神社」を参拝します。壁がトタン張りの、特に珍しくもない普通の神社ですが、そのたたずまいには心惹かれるところがあります。なお、境内には、「天皇皇后両陛下 平成二十二年千葉国体行幸啓 記念樹」がありました。

神代神社
神代神社

 ちなみに、この神社については、前述の『市原郡誌』の「海上村」第二編 第五章 ~社 二「~代~社」(九九四〜九九五頁)に、

 ~代村にありて天照大日孁尊を祭る、土俗傳ふる所に由れば、景行天皇四十年日本武尊東征の時親祭する所に係ると、唯、憑據攷ふ可からず、故~祇官史生立野良道識す所の社記を掲げて以てその緣由の大概を示す。(以下略)

とあります。ちなみに、ここに見える立野良道は、地元、市原郡引田村(現、市原市引田)出身の国学者です。
 神代神社から先は、路地のような道を西南西に進み、「立野通り」を横断して更に先、「立野農業開発(有)」の辻を右折して台地の端を北上し、県道13号市原茂原線の旧道と思しき道に合流し、北西に進みますと、右手に如何にも由ありげな幹回りの大きな木が目に入ります。木の近くに石碑のようなものがありますので、近付いてみますと、そこには「神代神社」と刻まれております。帰宅後に確認して判明したのですが、これは神明塚古墳こと神代古墳群1号墳(市原市神代171)でした。

神代 神明塚古墳 神代 神明塚古墳
神代 神明塚古墳

・神代古墳群/神明塚古墳 - 全国文化財総覧
 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/cultural-property/368382

 しかし、この神明塚古墳は、市原歴史博物館のHPhttps://www.imuseum.jp/maibun/map/98.html )には載っておりません。
 さらに先に進み、県道13号市原茂原線を横断すると、そこは宮原(みやばら)の中心域です。目的地の宮原御所跡は、すぐ近くです。宮原交差点の東北東15mほどにある辻から北を望みますと、石造の鳥居が見えます。そこで鳥居に向かって進みますと、「宮原児童遊園」を境内とする「宮原大国主神社」です。

宮原大国主神社
宮原大国主神社
宮原大国主神社

 参拝した後、右手、すなわち東へ進みますと、左手に「宮原自治会館」、突き当りに、一見、虎口(小口)と思しき土塁の切れ込みがあります。土塁の向こう側が、まさしく「宮原御所跡」の明照院です(15時27分到着)。

明照院
明照院

UN-02 明照院|市原歴史博物館
 https://www.imuseum.jp/field_museum/1/coursserch/unakami/1406.html
・日高慎也(猫の足あと)「明照院|市原市宮原にある真言宗豊山派寺院」
 https://tesshow.jp/chiba/ichihara/temple_miyahara_myosho.html
・宮原御所/明照院境内 - 全国文化財総覧
 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/cultural-property/368381

 土塁の切れ込みからは境内に入らずに、土塁に沿った道を南下し、山門へと至ります。

明照院

明照院 明照院

 西向きの山門の両側には、江戸時代後期のを中心とする石造物が並んでおります。
 山門の右手、石造物の手前には「宮原御所跡」と記された金属製の標識柱が立っておりますが、錆が著しく、特に柱右側の三行の説明文は、ほとんど読めません。

明照院 明照院

 しかし、ネット上に出ている写真(遺憾ながら、そのアドレスを確認できませんでした...)によりますと、次のように記されております。


 宮原御所跡の明照院は、舌状という程でもありませんが東側に張り出した台地上に位置し、西側と北側、南側に土塁があり、東側は崖となっております。北・東・南は藪に囲まれており、境内からの視界が遮られております。

Googleマップ:
 https://www.google.com/maps/place//@35.4730256,140.0943793,141m/

 境内には、山門の先(東側)に、西面する木造土壁の薬師堂があり、その右傍らには木造の小さな弁天堂が同じく西面しております。そして、山門から左手には南面する本堂があります。

明照院
明照院 薬師堂、弁天堂

明照院
明照院 薬師堂

明照院
明照院 弁天堂

明照院
明照院 本堂

 前述の『市原郡誌』に見える、足利晴直に比定される「義舜」を祀ったという小祠「御所明神」は、私には確認することができませんでした。
 本堂には三枚の張り紙がありました。

 @御所山薬王寺明照院維持管理内容および実施当番表(令和8年4月)
 A墓地見取図
 Bお願い

 Bには、次のように記されております。

 ───────────────────────
  去る七月二日妙見寺宥彦僧正が遷化せられたた
 め、寺院業務の連絡先は左記にお願いいたします。
      記
    市原市海保七六九
         遍照院
          ▲ ▲ ▲ ▲
          電話 三六ー二〇九四
 ───────────────────────

 これによりますと、明照院は無住で、法事等は妙見寺宥彦僧正 ── 真言宗豊山派の金座山小松院医王寺(市原市畑木418)の先代住職でしょう ── が行なっていたようですが、(明らかに昨令和七年以前の某年の)七月に亡くなられてからは、同じく真言宗豊山派の発教山遍照院学道寺(千葉県市原市海保769)の住職に代わったようです。

明照院:宮原御所跡の土塁の切れ込み
明照院:宮原御所跡の土塁の切れ込み
明照院:宮原御所跡の土塁の切れ込み

 明照院境内をくまなく歩きまわった後(15時55分頃)、次は周囲を巡りました。北側は民家の庭ですが、「宮原御所跡」の土塁〜崖は藪と樹木の茂みに包まれております。東側の崖も同様ですが、藪と茂みがなければ、宮原御所跡から広々とした水田を眺めることができるはずです。なお、宮原御所跡の東南部の崖下には湿地と池があり、濠のようになっております。

明照院:宮原御所跡の東南部の崖下
明照院:宮原御所跡の東南部の崖下
明照院:宮原御所跡の東南部の崖下

 「宮原御所跡」の外側をぐるりと一回りしてから、前述の“宮原交差点の東北東15mほどにある辻”に戻ります。その途中で、自転車に乗った男子中学生から、少しハニかんだ面持ちで「こんにちは」と挨拶されましたので、こちらも返しました。うれしくなります。先ほど目にした海上小学校の表示板の心は受け継がれております。

宮原交差点
宮原交差点

 宮原交差点から「五井」方面に、県道139号茂原五井線を北西に進みましたが、右側に最初にあった道を右折し、突き当りを右折し、道なりに歩いていきますと、先ほど明照院の北側を巡った際に歩いた道に戻りました。そのまま直進して突き当りを今度は左折し、水田に接した道を北上して、今度こそ宮原御所跡から離れていきます。また、自転車に乗った二人目の男子中学生からも挨拶をいただきました。このたびの「宮原御所跡」訪問は、二人の男子中学生のおかげで、好印象と共に終わろうとしております。
 しばらく北上して歩いていきますと、追分となった岐路があり、左の「学童農耕車優先」と掲げられた道を進み、市原市今富の東北部を進みます。

市原市今富
市原市今富

 奥手(晩生)の稲の田植で休息中の農耕車が道路上に停まっている横を抜けて(16時31分)、ウネウネと曲がりくねる道をほぼ北西に進みます。

市原市今富
市原市今富

 歩きながらスマホで小湊鉄道の上総村上駅の五井方面列車発車時刻を確認してみますと、16時59発というのがあり、その次は17時39分発です。急げば16時59発に間に合うであろう、とスマホで距離と時間を計りつつ先を急ぎますが、スマホの電源が残りわずかとなりました。
 一度は離れた県道139号茂原五井線を北上しますと、右手に「市原市立東海中学校」があります。先刻、一介の通行人にすぎない私に挨拶をした二人の中学生は、疑いの余地なく、この東海中学校の生徒さんでしょう。校風のすこぶる良い中学校、と見受けました。なお、私個人としては、「東海中学校」と言えば、親しい父方交差従兄の出身校である名古屋の有名私立中高を想起します。よって、市原市の東海中学校の写真を撮影したい誘惑に駆られます(スマホは電源が非常に少なくなっておりますが、デジタルカメラが使えます)。しかし、列車の発車時刻もありますので、そのまま歩みを止めず先を急ぎました。
 「柳原交差点」からは、北上する道が県道141号五井町田線に変わります。養老川を渡る「柳原橋」で、養老川の写真を、歩きながら一瞬足を止めて撮影したのを最後に、スマホの写真機能は止まりました(16時44分)。

養老川(柳原橋)
養老川(柳原橋)

 この「柳原橋」の下流を眺めますと堰がある様子が窺えます。後で確認しましたところ、「廿五里(ついへいじ)堰」とのこと。「廿五里(ついへいじ)」は難読地名ですが、まったくの偶然で、この「宮原御所跡」訪問の翌日にあたる令和八年七月二日、『集史』「モンゴル史」翻訳者として御活躍の堀さと(金山あゆみ)氏が、「廿五里南貝塚/廿五里城跡(千葉市若葉区)」の訪問・考察記を公開され、この市原市の「廿五里」、さらに、私には馴染みの埼玉県北葛飾郡松伏町の「築比地」につきましても御紹介されております。
 https://note.com/lovely_macaw900/n/nc7f3da9fce00

 なお、「柳原橋」上流側の右手先には、如何にも人工的な山があり、その頂きと中腹に鳥居が建っているのが見えます。たいへん気になりましたが、時間の関係上、立ち寄りませんでした。後で調べましたところ、「玉前富士」という富士塚なのだそうです。後日、あらためて巡検したいものです。
 養老川を越えたところで、電源の残り少ないスマホであらためて歩行距離と所要時間とを測ってみますと、上総村上駅の列車の発車時刻、16時59分には、よほど急がなければ間に合いそうにないことが分かりました。そこで、市原市村上に到るや、時に走りを混ぜて先を急ぎました。
 なお、県道141号五井町田線には、村上457番地において、見通しがたいへんに悪い、緩いカーブがあります。そこには歩道がなく、前方から来る自動車の通行量も少なくありません。交通規則どおりに右側通行で北へ進みましたが、その際に、敢えて上半身を車道に乗り出すようにして、対向車に対し、ここに歩行者あり、と報せるようにしました。ビュンビュン走る自動車の多くは、カーブの先に歩行者がいるとはあまり思っていなかったのでしょう、急に減速する自動車が少なくありませんでした。あの見通しが悪い道では、敢えて左側通行をするほうが無難でしょう。
 ともかく、この調子で急げばギリギリで列車に間に合いそうだ、と思っておりましたところ、あいにく、国道297号「市原バイパス」との「村上交差点」の信号で引っかかってしまいました... 相手は「市原バイパス」なので、信号がなかなか変わりません。ジダンダ踏んで気を揉みますが、どうにもなりません。ようやく信号が変わり、ひたすら先を急ぎ、本道を離れて細い道に入りました所で、ついにスマホの電源が落ちてしまい、時間を測ることが叶わなくなってしまいました。
 無闇矢鱈に上総村上駅へと向かって突き進み、東に「国府小学校入口」信号から先を急ぎましたところ、ついに踏切が見えてきました。ありがたや、まだ踏切の警報が鳴っておりません。これなら間に合うであろう、と思い、少し気が緩みましたところ、列車の「プァーン」という警笛が、かなり近い感じで聞こえました。うひゃぁああ、と駆けて踏切に到りますと、踏切から右手に見える列車の燈火は、駅構内よりまだ先の方でした。踏切から駅のプラットホームの構造を観察しますと、駅の入口へ行くには踏切を渡らず、踏切手前を右折して入っていけばよさそうです。見通しが悪く(自動販売機によって視界が遮られていたためです)、駅舎の入口が少し分かりにくかったのですが、えいままよと押し進めば入口があり、やれやれ、間に合った、と思いました。改札口(この駅も無人駅で、素通りです)を抜けて、大いに息を切らしてプラットホームに出ますと、ちょうどキハ200形気動車の二両編成が入構してきたところでした。こうして、上総村上駅16時59分発の列車に、かろうじて間に合いました。
 無事に列車に乗り込み、「小湊鉄道 五井車掌区乗務員発行」の乗車券を女性車掌から購入します。「走れメロス」には到底及びも得ず、「駆けて、駆け、駆け抜け」ることができるほどの体力がないにもかかわらず、このトシにしてガラもなく走りましたおかげで、全身から汗が噴き出でて、衣服は上下、濡れ鼠となり、不快感最高☆でした。

小湊鉄道五井車掌区乗務員発行
上総村上→五井
(小湊鉄道五井車掌区乗務員発行)


 列車は3分で五井駅に到着しました。ちなみに、この車輛は、折り返しの上総牛久行きとなっております。

五井駅
五井駅
五井駅

・ご参考:
 【小湊鐵道公式サイト】 多くの方に愛された幸せな車両たち
 https://www.kominato.co.jp/kiha200/

 五井から内房線に乗り換え、そのまま帰途に就くべきところですが、実は千葉大学での講義で、教室の空調のカギを事務室に返却するのを忘れておりましたので、それを戻すために西千葉で下車して千葉大学に立ち寄りました。

五井→西千葉
五井→西千葉

 ともかく、こうして、念願の「宮原御所跡」明照院参詣は無事に終了しました。しかし、明照院の周辺には、時間の関係で訪問できなかった旧跡が少なからず残っております。是非とも再訪の機会を設けたいものでございます。

宮原御所跡
宮原御所跡
2026.7.2.初稿、2026.7.7.改訂・公開。修正あり



令和八年(2026)四月一日設立の皇族・堂上・地下官人研究会は、四月三十日、学術誌『平田職俊『諸家近代系図』研究』第一号「諸家近代系図索引」を刊行しました。詳細につきましては、後日あらためて告知いたします。
2026.4.30



前近代傍系皇族・皇胤研究
 
赤坂恒明『前近代傍系皇族・皇胤研究
市川、志学社、令和七年(二〇二五)六月
ISBN 978-4-909868-16-9
https://shigakusha.jp/2025/07/03/book015/




稿「元亀二年の『堂上次第』について ── 特に左京大夫家康(三川 徳川)に関する記載を中心に ──」(『十六世紀史論叢』創刊号, 十六世紀史論叢刊行会, 2013年3月, 58〜78頁)の、翻刻部分を除く本文を公開しました。
(2025.8.24)



978-4-642-08369-0
 
日本史史料研究会 監修
赤坂恒明 著
「王」と呼ばれた皇族
 古代・中世皇統の末流
東京、吉川弘文館、二〇二〇年一月
(発売:二〇一九年十二月二十日)
ISBN 978-4-642-08369-0
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b487640.html




赤坂恒明のページ


過去に掲げた探訪記・写真等



● 以前に使用していた電子メール・アドレス「akasaka@aoni.waseda.jp」は既に廃止されております。

● かつて私が或る公開講座にて語った内容が、甚だ不正確に解釈された形で、私の発言として或るブログに書かれております。しかし、そのようなことは全く述べておりません。まことに困ったことです。

● 本ページのアドレスは、二〇〇四年九月末、
   http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3312/index.html
 から
   http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/index.html
 に変更され、更に二〇一九年二月十三日、
   http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/index.html
 に変更されました。




ウクライナ共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国クリミア自治共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ドネツィク(ドネツク)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ヘルソン州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国オデサ(オデッサ)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)



過去の記事より

 
(再公開作業中)


 
北海道アイヌは日本国ノ先住民族ナル考

 
三十九年前の「馬鹿馬鹿チンドン屋」

 
コミ民俗音楽CD『コミ民間伝承の記念碑 歌謡・器楽の伝統』の音源

 
マリー民族撥弦楽器キュスレ再興者アンナ・シドゥシキナ生誕111周年

 
2025年におけるカザフ伝統音楽家たちの百周年
 (ヌルギサ・ティレンディエフ、アルム・ジャンブルシン、オスケンバイ、ダブル・アジャカエフ)

 
2023年12月22日に新潮社へ送った抗議電子メール

 
「青きヴォルガ Кловой Йыл」 マリー民族の言語学者Yu.V.アンドゥガノフ逝去20周年

 
内モンゴル大学モンゴル学学院のHPから わが公開個人情報が遂に消滅

 
トルファン・ムカームの9枚組CD

 
訃報 何秀芝 老 ソロン・エベンキ人の民俗文化伝承者

 
国鉄103系電車車輌

 
カザフ音楽巨匠サドワカス・バルマガンベトフ逝去25周年

 
「モスクワ放送」の思い出

 
訃報 アブディモムン・ジェルディバエフ カザフ東南部ジェティスー地方のドンブラ(撥弦楽器)巨匠

 
早稲田大学図書館所蔵平田本『諸家近代系図』公開

 
煩悩の数だけある音源 モルドバのアントノフカ・レコーヅ
  「音源紹介 Antonovka Records

 
2020年全ロシア国勢調査の衝撃

 
マリウポリのクインジ記念美術館の破壊

 
戦禍のマリウポリとクリミア・ギリシア人

 
「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」Реве та стогне Дніпр широкий ウクライナ民族の象徴的歌曲
  「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」(「広きドニエプルの嵐」)のウクライナ語カタカナ歌詞 PDF

 
訃報 マリア・索(瑪麗亞・索 / 瑪利亞索 Maria Sologon / Мария Сологон)老(19212022) オルグヤ・エベンキ人の民俗文化伝承者

 
哀悼 チョイジ čoyiji(喬吉)先生

 
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学術関連情報 音源付きミシャル・タタール民謡集 L.X.ジガンシナ、L.I.サルヴァロワ編『ラムベラのタタール=ミシャル人の民謡』(《タタール民族音楽=詩作品》第五巻)(202157日記

 
木寺宮研究の進展(2021417日記

 
善良両氏 (202121日記

 
20201221日の「天声人語」における『スーホの白い馬』によせて (20201222日記

 
或る日本人モンゴル帝国史研究者から、或る中国人(漢族)若手同業者への便り (202099日 日本語による電子メールからの抄録

 
カザン刊民俗音楽音源付書籍三点と、ペルム地方の「黄金基産(フォンド)」CD六点 ──ヴォルガ・ウラル地域諸民族の民俗音楽音源資料より── ウドムルト、コミ=ペルミャク、マリー、タタール、バシコルト(バシキール)等20191213日)

 
地名サランスクを知らざる金帳汗国史研究者は“もぐり”也と云わざるべからず2018629日)

 
研究情報 : 十八〜十九世紀の北カフカスの歴史におけるチンギス・ハンの後裔たち2018312日)

 
東カレリア北部のカレリア・フィン民謡の音源資料2016.11.27.記)

 
価格百分之一 トルクメンとモンゴルの豪華写真集20151013日)

 
研究情報 : 近刊のランプール本『集史』「モンゴル史」写真版刊本2015108日)

 
訃報 タラスベク・アセムクロフ Talasbek Asemkulov2014114日記)

 
拙稿中の一章「ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性,再論」2013.6.29

 
タタール民族の国民的芸術家ウルマンチェ生誕115年記念展図録2013.6.8

 
筑波鉄道最後の日における常陸北条駅2012.5.9.記)

 
研究情報 : 十五〜十七世紀のロシアにおけるチンギス家一門2012.4.27

 
アルメニアで刊行された、アイヴァゾフスキーに関する美術研究書2012.4.12

 
三たびクインジ2012.2.7

 
油地獄 イサーク・レヴィタン生誕百五十周年2011.09.04

 
ロシア美術館のアルヒプ・クインジ2011.07.18

 
A.I.クインジ歿後百周年によせて2010.11.22



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