日本列島の西と北へのモンゴル軍侵攻 https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/63949/ 講義概要 2024年は文永の役から750周年にあたります。本講座では、鎌倉武士が奮戦した文永・弘安の役だけでなく、「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古襲来」としばしば称される、モンゴルのアイヌ征討についても詳論します。このアイヌ征討は、定説ではモンゴルの樺太遠征とされております。しかし、モンゴル帝国(元朝)は樺太最南端の白主(シラヌシ)に土城を構築したと考えられております。したがって、モンゴル軍は白主土城を軍事拠点として宗谷海峡を渡海して北海道へ遠征した可能性もあると考えられます。この仮説の可否を、アイヌの北上と、北海道からの「オホーツク文化」の消滅という、北海道オホーツク海沿岸地方における文化交替と関連させて考察します。 第1回 10/04 蒙古襲来前夜における東北アジア チンギス・ハンの金朝遠征に伴い、満洲地域には、契丹人耶律留哥の東遼政権、女真人蒲鮮万奴の東夏政権が成立し、後者はモンゴルに敵対しましたが、オゴデイ期に平定されました。また、モンゴルは度重なる高麗侵攻を行い、1273年までに高麗・耽羅(済州島)を支配下に置き、1274年の文永の役に到ります。第1回では、蒙古襲来前夜における東北アジアの国際情勢について概観します。 第2回 10/11 「蒙古国牒状」 至元三年(1266)八月に発令されたフビライの国書「蒙古国牒状」が高麗の使者の手によって文永五年(1268)正月、太宰府にもたらされました。この国書には「以至用兵、夫孰所好」という脅迫文言が含まれ、冊封体制下における中国の外交の慣例とは著しく相違しており、日本側は対応に苦慮しました。第2回では、冊封体制下の東アジアにおける国際関係秩序と、「蒙古国牒状」をめぐる諸問題について考察します。 第3回 10/18 文永・弘安の役 二度にわたり日本へ遣わされた使節、趙良弼は、フビライに日本遠征の中止を求めたものの、結局、フビライは二次にわたる日本遠征を敢行しました。鎌倉武士の奮戦のもとに、モンゴルの遠征軍の軍事作戦は失敗に終わりましたが、その戦間に、ムスリム(ウイグル人に非ず)を含む五人の元使が龍ノ口で斬首される悲運に遭っております。第3回では、文永・弘安の役と、未遂に終わった第三次日本遠征について検討します。 第4回 10/25 蒙古襲来前夜のオホーツク海南西沿岸地域 三・四世紀頃〜十三世紀事のオホーツク海西南岸には「オホーツク文化」が分布し、その負荷者はギリヤーク人(ニグヴン、ニヴフ)に比定されております。北海道のオホーツク文化はアイヌの進出により消滅しましたが、これは、『元史』等に記載がある骨嵬(クギ)(アイヌ)による吉里迷(ギリミ)(ギリヤーク)への攻撃との関連性が指摘されています。第4回では先行研究に基づき、蒙古襲来前夜のオホーツク海南西沿岸地域の状況を概観します。 第5回 11/08 モンゴル軍のアイヌ征討 「北からの蒙古襲来」「もうひとつの蒙古襲来」とも呼ばれるモンゴル軍のアイヌ征討は、北方から日本を挟み撃ちにすることを狙ったわけではなく、あくまでも、内附した吉里迷(ギリミ)を攻撃する骨嵬(クギ)を平定することから始まった地域限定的な軍事行動に過ぎません。しかし、モンゴルは二度にわたり「兵万人」を動員しており、戦争の規模は決して小さくはありませんでした。第5回では、モンゴル軍のアイヌ征討と、その後の樺太の歴史を簡単にたどります。 |