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ヨーロッパを震撼させ中世ロシアをも支配した西北のモンゴル帝国 https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/62930/ 講義概要 チンギス・ハンの長男ジュチは1206年のモンゴル帝国建国に際し軍民・牧地を分配され、ジュチ・ウルス(ジュチのくに)が成立しました。帝国の拡大に伴い同ウルスはドナウ川下流域からアルタイ山脈に至るキプチャク草原全域に領域を拡大し(地名に基づきキプチャク汗国と呼ばれます)、ルーシ(中世ロシア)をも支配下に入れました。モンゴル人(ルーシからタタールと呼称)は14世紀中葉までに言語的にテュルク化、宗教的にイスラム化し、モンゴル的伝統を残しつつも変容し、汗国はモンゴル帝国崩壊後も存続しましたが、15世紀に分裂しました。本講座では、キプチャク汗国とその継承政権の16世紀までの歴史を、政治史中心に紹介します。 第0回 3/16 (事前宣伝講座) 第1回 4/05 薄倖の皇子、チンギス・ハンの長男ジュチ モンゴル高原を統一して1206年にモンゴル帝国を建国したチンギス・ハンは、子弟に軍民(遊牧民)・遊牧地を分配し、長男ジュチには四つの千戸を賜与し、アルタイ山脈北西方面を本拠地とするジュチ・ウルス(ジュチのくに)が成立しました。ジュチは南シベリアの「森の民」を服属させましたが、キプチャク草原(ドナウ川下流域からアルタイ山脈に至る大草原)西部の征服を果たすことなく死去しました。第1回は、ジュチ・ウルスの成立とジュチの事蹟を取り上げます。 第2回 4/12 大モンゴル帝国の西半部を実質的な支配下に置いた実権者、ジュチの二男バト ジュチ没後、ジュチ家当主となった二男バトは、第二代皇帝オゴデイ期に行われた、「リーグニッツの戦い」で特に有名なモンゴルの中欧遠征を率い、第三代皇帝グユクとの対立を経て、第四代皇帝モンケの即位に大いに貢献し、モンケ期にはモンゴル帝国西半部を実質的に支配下に置き、絶大な権勢を振るいました。第2回は、モンゴル帝国史上、知名度において五指に数えられるバトの事蹟と、ジュチ・ウルスの分封構造について説明します。 第3回 4/19 モンゴル皇室最初のイスラム教徒、ジュチの三男ベルケ バトとバトの諸子の死後、ジュチ家当主となったベルケは、モンゴル皇室最初のイスラム教徒として、少なからぬイスラム史書では極めて高く評価されておりますが、イラン地域にイル汗国を樹立したモンケの子フレグと対立した結果、西アジアにおける権益を全て喪失し、中央アジアにおける権益も大損害を被り、バト時代のジュチ家の権勢は失墜しました。第3回は、その実態は「失地王」に近いと言うべきベルケの事蹟をモンゴル帝国史の中に位置付けます。 第4回 4/26 モンゴル帝国の内訌におけるジュチ家の立場 第四代皇帝モンケ没後のモンゴル帝国の内訌において、オゴデイの孫カイドのもとに反フビライ勢力が結集し、カイドを盟主とした政権が中央アジアに樹立されました。ジュチ家とカイド政権は、最終的には敵対関係となりましたが、モンゴル帝国の内訌を収束に導く道を開いたのは、ジュチ・ウルス左翼政権の当主バヤン(バトの兄オルダの曾孫)でした。第4回では、モンゴル帝国の内訌におけるジュチ家の立場を明らかにすることを試みます。 第5回 5/10 トクタと有力王族ノカイとの抗争 ジュチ家の傍系有力王族ノカイの支援によってジュチ家当主の地位を獲得したトクタ(バトの曾孫)は、姻族の宗教問題が原因でノカイとの関係が悪化し、両者は二度にわたって会戦し、最終的にトクタが勝利を収めました。さらにトクタは、ノカイの諸子をも打倒し、その旧領を自身の兄弟、その後、両子に分配しました。第5回では、有力王族ノカイの抬頭と、トクタによるジュチ・ウルス西部の再編成について解説します。 第6回 5/17 キプチャク汗国の全盛期、ウズベク汗とジャーニーベク汗の治世 トクタ没後、トクタの子と、彼を支持する部将たち、および、他の諸王子を殺戮して即位したウズベク汗は、ジュチ・ウルスの実質的統一を完成させ、ジュチ・ウルスをイスラム化させました。ウズベク汗のもとには、有名な旅行家イブン・バットゥータも訪れています。ウズベク汗の子ジャーニーベク汗は、イル汗国分裂の混乱下にあるアゼルバイジャンを征服し、ジュチ・ウルスの最大版図を現出しました。第6回は、ジュチ・ウルスの全盛期にあたる両汗の治世を取り上げます。 第7回 5/31 トクタミシュによる束の間の再統一と、キプチャク汗国の没落 ジャーニーベク汗暗殺後、ジュチ・ウルスは大混乱に陥り、バトと、バトの兄オルダの子孫が断絶し、代わって傍系王族、ジュチの五男シバンと同十三男トカ=テムルの子孫が抬頭しました。彼らの一人トクタミシュ汗は、中央アジアの覇者ティムールの支援を受けて対立勢力を撃破し、さらにジュチ・ウルスの再統一を果たします。しかし、ティムールに敵対し、二度にわたるティムールの親征を招き、首都サライは破壊されました。第7回は、14世紀後半におけるジュチ・ウルスの没落について言及します。 第8回 6/07 キプチャク草原西部における所謂「タタール三汗国」の成立 15世紀には、ジュチ・ウルスを構成する諸集団(氏部族)が各々ジュチ裔を擁立して抗争を重ね、通説的な歴史叙述に従えば、キプチャク草原の西部に、キプチャク汗国の正統政権と位置づけられる「大オルダ」のほか、クリミア汗国、カザン汗国、アストラハン汗国が成立し、また、非チンギス・ハン裔のマングト氏族のノガイ・オルダも自立しました。第8回では、15世紀のキプチャク草原西部における諸政権の成立過程について説明します。 第9回 6/14 キプチャク草原東部における所謂「遊牧ウズベク国家」の成立と解体 15世紀中葉、所謂「遊牧ウズベク国家」のアブル=ハイル汗(シバン裔)がキプチャク草原東部を統一しました。しかし、カルマク(オイラト)に敗北し、遊牧君主としての求心力がやや低下し、カザフ汗国の分離を招きました。アブル=ハイル汗の没(1468年)後、「遊牧ウズベク国家」は崩壊し、西南シベリアにテュメン汗国(シベリア汗国の前身)が、アムダリヤ下流域のホラズム地方にヒヴァ汗国が成立しました。第9回では、キプチャク草原東部における諸政権の分立を取り上げます。 第10回 6/21 モスコヴィアによるカザン汗国、アストラハン汗国、シベリア汗国の併合 16世紀において、国力を増強したモスコヴィアのイワン四世(雷帝)によって、カザン汗国が1552年に、アストラハン汗国が1556年に併合され、また、シベリア汗国も1582年にコサック隊長イェルマクに首都を占領されて崩壊しました。第10回は、16世紀にモスコヴィアによって滅ぼされた三汗国の歴史を概観し、最後に、ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)の世界史上における重要性について総括します。 |