2021年:現代ウイグル民族命名百周年

 2021年は、チンギス・ハンの西征に伴うウルゲンチ、バルフ、バーミヤーンにおける凄惨な大虐殺(1221年)から八百周年にあたりますが、「ウイグル uyγur」という民族名称がソビエト連邦で決定されてから、ちょうど百年目にもあたります。
 現代ウイグル(維吾爾)民族の民族名は、騎馬遊牧民ウイグル(回紇、回鶻)や所謂「天山ウイグル王国」のウイグル(畏兀兒)とは、歴史的に連続していません。現代ウイグル民族の民族名は、1921年、有名なテュルク言語学者S.E.マローフの提言により決定されました。しかし、この百年前の決定に関しましては、私自身には未詳の問題が二点、残されております。
 第一の問題点は、ソビエト連邦領内のイリ河流域の、当時「タランチ」と称されたテュルク定住民(現在のウイグル民族)が参加した、ウイグル名称決定会議の開催地です。英語の研究文献等ではタシケント開催説が多いようです。かつて私も、「ウイグルをめぐる時間軸からの認識」(『史滴』17号、199512月)という小文で、ラティモア原著、中國研究所譯『アジアの焦點』(弘文堂、1951年)167頁に基づき、タシケントで開催されたと書いております。しかし、現在、日本では、アルマアタ(現アルマトゥ)開催説が主流です。現時点は私もアルマアタ開催説に従っております。この問題につきましては、20071215日、国立民族学博物館における人間文化研究機構連携研究「中国南北の国境地域における人の移動と交流、および国家政策」第2回研究会「中国西北のテュルク系諸民族の形成と族称をめぐって」において簡述したことがあります。その時の配布資料の一部は、次のとおりです。


○ ロシア革命後の族名決定
 ・1921年, テュルク言語学者S.E.マローフの提言により「ウイグル」という族名が決定.
    『世界民族問題事典』(梅棹忠夫監修, 松原正毅編集代表. 平凡社, 1995.9)より, 濱田正美「ウイグル(維吾爾)[人] Uyghurpp.178-179.
      1921年, ソ連に居住する東トルキスタン出身者(主としてタランチ)の知識層の代表者会議がアルマ・アタで開催され, ロシア人の古代トルコ・ウイグル語学者マローフ Sergei Malov の発議に基づき,〈ウイグル〉という名称が〈復活〉された.

    『アジアの歴史と文化G 中央アジア史』(間野英二責任編集. 同朋舎, 1999.4)「V 現代の中央アジア」より, 濱田正美「中央アジアと中華民国および人民共和国」p.201.
      ソ連に居住していた東トルキスタン出身者(その多くは1881年にイリ渓谷から移住した人々およびその子孫)は, トルコ学者セルゲイ・マローフの提案に基づいて, 古代のウイグルという名称を復活させて, 自らこれを名乗ることを決定した。1921年アルマアタでの出来事である。

    大石真一郎「テュルク語定期刊行物における民族名称「ウイグル」の出現と定着」(『東欧・中央ユーラシアの近代とネイション』U(北海道大学スラブ研究センター研究報告シリーズNo.89. 北海道大学スラブ研究センター, 2003.3, pp.49-61), p.50.
      1921年アルマアタで開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者マローフ Сергей Ефимович Малов の発議に基づき、「ウイグル」という名称を復活させて自ら名乗ることが決定された4といわれる。ロシア人学者の提案によるものであり、ソ連が後に中央アジアで「民族的境界画定」を行うための準備作業の一つとみなされていることから、この「ウイグル」採用が東トルキスタン出身者たちの自発的な選択であったというよりは、政策上一方的な働きかけによって決められたかのような感を抱かせる。事実、そのようにみる研究者も多い。しかし、果たしてそうであったのか。
        4 間野、同上、200頁【※上記, 濱田正美執筆 p.201】。濱田はこの記述にあたって А.Н.Кононов, История изучения тюркских языков в России. Ленинград, 1972, стр. 230-231. を参照しており、コノノーフは、А.А.Кайдаров, Язык народов СССР. том 2. Тюркский языки. Москва, 1966, стр. 363.(報告者未見)に依っている。また「ウイグル」の採用がアルマアタでなく同年タシュケントにおいて決定されたとするものもある。ラティモア著(中国研究所訳)『アジアの焦點』弘文堂、1951年、167頁。

    ※『テュルク学集成』Тюркологический сборник 1975. Москва, Главная редакция восточной литературы издательства 《Наука》, 1978(S.E.マローフ特集号)における,「S.E.マローフの著作と彼についての文献の年代順目録」に見える, 当該問題に関連する記載がある可能性が高いと思われる文献(すべて未見):
       ・Ataqliq professor Malov ujγurlar icidä.──《Kämbäγällär avaziAlmuta. 31.III.1930.
       ・A.Häydarov, Sovet uyγuršunasliγiniŋ atasi.──《Kommunizm tuŋi. A.-A., 17.I.1960.
       ・А.Т.Кайдаров, С.Е.Малов и его роль в решении научно-практических вопросов литературного языка уйгуров СССР.―― МЧ.【VII региональная конференция по диалектологии тюркских языков1973, с.150-153.
       ・А.Т.Кайдаров, С.Еф.Малов ―― глава советского уйгуроведения.К 81-й годовщине со дня рождения.―― ИАН КазССР, СФИ, 1961, вып.1(17), с.91-96.

 この報告から十四年経った今なお、当該のウイグル名称決定会議に関する詳細は、私には未詳のままです。
 なお、中華民国における「ウイグル」と「タランチ」それぞれの民族名称採用と、漢字表記の「威武爾」から「維吾爾」への変更につきましても、未確定の問題があると思われます(単に私自身の勉強不足ゆえかも知れませんが)。
 第二の問題点は、この新採用された「ウイグル」という民族名称の直接的な起源です。「ウイグル」という民族名称が1910年代にロシア帝国領内の「タランチ」の間で使われ始めていたことは、先行研究によって既に明らかにされております。例えば、1921年の族名決定以前の時点において、ナザル=ホジャなる「タランチ」の文筆家が、「昔の時代に「ウイグル」と呼ばれ、現在名無しとなった東トルキスタンのテュルク」と述べた事例があります(大石真一郎 2003)。もっとも、これらの「ウイグル」は、私自身が理解する限りでは、基本的に「ウイグルの子孫」という文脈で使われたまでに過ぎないように思われます(例えば、日本人において「我々はエミシだ」「クマソだ」と言うように)。それはともかく、この「ウイグルの子孫」と言う場合の「ウイグル」とは、私見では、歴史上の騎馬遊牧民ウイグル(回紇、回鶻)ではなく、19世紀末〜20世紀前期頃に西欧方面で流行した、超古代文明のトンデモ「大ウイグル帝国」のことを指している可能性があるのでは、と憶測しております。
 日本語で読めるトンデモ「大ウイグル帝国」の原典的書籍は、

 ジェームズ・チャーチワード著、小泉源太郎訳
 『ムー大陸の子孫たち 超古代文明崩壊の謎』
 (大陸書房、1968年)
 「11 砂漠に埋もれたウイグル大帝国」

でしょう。しかし、私は未読です。私の手元にありますのは、次の二次的物件です。

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 黒沼健『失われた古代大陸』(新潮文庫)
 (新潮社、1973年発行、198011刷)
 「大ウイグル帝国」

 曰く。
    「大ウイグル帝国は、太陽の帝国≠ナあるムー≠ノ属する最も大きな、そして最も重要な植民地であった」とチャーチワードは説いている。
     帝国の東方の境界線は太平洋であった。西の境界線は、いまのモスクワのへんである。そして、幾多の前哨(ぜんしよう)拠点は、ヨーロッパの中央部を通って大西洋に達していた。北方の境界はシベリアの荒野、南方はコーチ・シナ、ビルマ、インド、ペルシャの一部を境とした。いかにも宏大な版図である。「母の国なるムー≠おいて、このような宏大な帝国はなかった」とチャーチワードはいうのである。
 この手の本は、中学生のうちに読んで、早めに“免疫”を付けておいた方が良さそうです。
 このような言説がロシア語の出版物で紹介され、それがテュルク語刊行物に翻訳され、中央アジアにおける「タランチ」の知識人の目に触れた、と仮定することができそうです。この仮説を立証または傍証するには、『テルジュマン Tarjumān』紙をはじめとするテュルク語刊行物にトンデモ「大ウイグル帝国」が紹介されていることが、必要条件となります。
 もちろん、1910年代にロシア帝国領内の「タランチ」が称した「ウイグル」が、騎馬遊牧民ウイグル(回紇、回鶻)や、「天山ウイグル王国」のウイグル(畏兀兒)を意味していた可能性も、十分にあります。いずれにせよ、現代ウイグル民族が国際問題の重大な焦点となってしまった現在に至るまで、彼らの民族名称確定をめぐる基礎事実は判然としないままです。

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 ところで、騎馬遊牧民ウイグル(回紇、回鶻)の名称は、日本では、同時代の平安時代において、既に知られておりました。すなわち、雅楽の唐楽、平調ひょうじょうの管絃曲「廻忽」(または、回忽、廻骨、廻鶻、回鶻、回紇、廻骨塩)の曲名によってです(「塩」とは曲と同義)。この雅楽曲は、残念ながら現在、廃曲となっております。
 この曲につきましては、「廻骨」という漢字からの連想で、葬礼で演奏される場合があったとの由です。即ち、『教訓抄』六(『続群書類従』卷第五百廿九 / 十九上 管絃部 所収)に、次のように記されています。
     クワイコツ
     廻 忽 拍子十二 又廻骨云
    此曲貴養成所作也。昔大國有一人大臣、號曰貴養成。彼有父【原作「文」】曰大忠連。忽受病死去畢。經百ヶ日、彼臣至昔下墓邊作一樂、琴彈之。至七返之時、彼死骨息生廻墓三匝之失了(仍名廻骨云々。件曲葬禮云々、其時用古樂)。
 原文に誤字があるようで、意味を取りにくい部分がありますが、これによりますと、「大国」の大臣「貴養成」が、父「大忠連」の病死から百日後に作曲した楽曲を墓のかたわらで「琴」で弾いたところ、演奏の繰返し七回目で、父の「死」が蘇生して墓をり三巡して消え、そのために、その曲は「廻骨」と名づけられた、と云々。いかにも、な牽強付会です。
 しかし、『徒然草』第二百十四段に、
     「想夫戀」といふ樂は女、男を戀ふる故の名にはあらず。もとは「相府蓮」、文字のかよへるなり。晉の王儉、大臣として家に蓮を植ゑて愛せしときの樂なり。これより大臣を蓮府といふ。
     「廻忽」も廻鶻なり。廻鶻國とて夷のこはき國あり。その夷、漢に伏して後にきたりておのれが國の樂を奏せしなり。
とありますように、卜部兼好によって「廻忽」はウイグルの楽曲であることが正しく指摘されております。かの高師直によって役立たず扱いされたといわれる兼好ですが、当代の学識者として、さすがに見識はあります。
 『教訓抄』の骸骨復活譚は、言うまでもなく荒唐無稽な説話です。しかし、「貴養成」が亡父「大忠連」のために作った曲、という骨幹部分のみは、「貴養成」がウイグル(回鶻)人であると仮定すれば、心情的にこれを捨て去り難いような気もいたします。
 ちなみに、雅楽曲「廻忽」は、平安時代の歌謡、催馬楽さいばらの“律”曲「飛鳥井」に合うとされております。
    あすかゐに やどりはすべし
    や おけ
    かげもよし みもひもさむし みまくさもよし
 「まぐさ」も登場して、いかにも馬子唄然とした歌詞です。騎馬遊牧民ウイグルに由来する雅楽曲「廻忽」の旋律に、馬子唄風の歌詞が付けられて作られた歌謡曲であったのでしょうか。
 催馬楽が廃絶した後、江戸時代と明治時代に催馬楽曲の一部が再興(実は新作)されましたが、この催馬楽「飛鳥井」は復曲の対象とはなりませんでした。
 ともかく、騎馬遊牧民ウイグル所縁の「廻忽」と「飛鳥井」、それらの復元演奏を音として聞いてみたいものでございます。
 なお、現在の新疆ウイグル自治区の地名を冠した雅楽曲としては、壱越調「北庭楽」、盤渉調「輪臺」(渡物として平調に移調)があります。「輪臺」は、龍笛の独奏(および唱歌しょうが)を、CD

 『[雅楽]龍笛の唱歌と演奏 盤渉調 唱歌・演奏=芝祐靖』
 (南都留郡山中湖村, Bamboo, 2004
  [BCD-051]

で聴くことができますが、やはり、今ひとつ馴染みがない楽曲でしょう。
 しかし、雅楽の代表曲、ご存知「越天楽えてんらく」は、「越殿楽」とも書かれることから類推されますように「越天」「越殿」は当て字であり、もともとは「于闐楽うてんらく」であった、という説があります。もし、これが正鵠を射たものであるとすれば、「越天楽」は、実は、タリム盆地南西部の于闐、すなわちホタン xotän(和田)に由来する楽曲であったということとなります。

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 ちなみに、ネズミに所縁の曲として知られる「林歌りんが」も「臨河」と書かれますので、あるいは秦漢期の臨河の地(現、内モンゴル自治区バインノール市)と関係があるのかも知れません。また、『源氏物語』や青海波文様で知られる有名曲「青海波」も、もともとは「青海」の序破急のうちの破、「青海破」で、青海省のフフノール(青海)に由緒のある楽曲です。
 雅楽曲「越天楽」、さらに、「越天楽」から派生した様々な音曲・楽曲(例えば、「黒田節」や、近衛秀麿編曲オーケストラ版「越天楽」)を聴きつつ、新疆ウイグル自治区はタリム盆地のオアシス都市の現状に思いを馳せるという方は、まずもって皆無かと思われます。しかし、「ウイグル」が思わぬところで日本とつながっている、または、その可能性がある、ということは、心の隅のどこかに留めておきたいところでございます。
20211220日記. 誤記等修正あり
 付記:八百年前の12月、ホラズムの魁傑ジャラールッディーンがインダスを渡河しております。

付記:
 植田暁『近代中央アジアの綿花栽培と遊牧民 ─ GISによるフェルガナ経済史 ─』(札幌, 北海道大学出版会, 2020.2)の第4章第3節が「カシュガル人の消失とウイグル人の誕生」であることを知りました。未読ゆえ勉強いたしたく存じます。(20211226日記)



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