木寺宮研究の進展

 後醍醐天皇の兄 後二条院の子孫である木寺宮につきましては、拙稿、
において論じましたが、木寺宮所縁の遠州入野の西湖山龍雲寺に所蔵されている文書は、活字化されたものを使用したのみにとどまり、木寺宮と龍雲寺との関係については言及できませんでした。

西湖山龍雲寺

西湖山龍雲寺

西湖山龍雲寺

 龍雲寺文書は、浜松の静岡文化芸術大学の西田かほる先生が悉皆調査をされ、既に目録化されております。そのため、西田先生による御研究の成果を渇望しておりましたところ、まさしく欣喜雀躍すべき御論考が発表されました。

西田かほる「近世遠江における親王由緒 ―木寺宮をめぐって―」
『静岡文化芸術大学研究紀要』第二一巻、20213月、258243
http://id.nii.ac.jp/1132/00001651/

 龍雲寺の未公開文書をも御使用で、ここに、未詳の部分が多い傍系皇族に関する研究が大きく進展したと同時に、「歴史」形成の複合性が立体的に示され、寺伝等の"由緒"を歴史研究において使用する際の普遍的な問題点もあぶり出されました。
 木寺宮と龍雲院との関係につきましては、本論文により、龍雲寺一世宗察は、康仁親王の子ではなく、木寺宮「龍雲院」(大澤左中将基宥の外祖父)の子であることが確定しました。従いまして、龍雲寺の創建も、南北朝時代ではなく、戦国末期であると結論できるでしょう。
 龍雲院は、内山眞龍『遠江国風土記伝』「入野」に、「其【木寺宮】御末永祿年間奔信濃國(謂殿云木寺宮。謂地云本所方)而後墮宮宅建寺(今龍雲寺是也)。藏御調度、以傳于是於後世」とあるとおり、木寺宮が信濃国に逃れた後に、木寺宮の御所が寺になったのでしょう(但し、同じ『遠江国風土記伝』でも、「龍雲寺」の箇所には「寺記」が引用されておりますが)。一次史料における龍雲寺の初見は、永禄九年(一五六六)四月二十一日ですので、木寺宮が永禄年間に信濃国に出奔したとする『遠江国風土記伝』の記載は、一次史料とも矛盾しておりません。

西湖山龍雲寺

 私の個人的な見解では、信濃国に逃れたのは、大澤基宥の外祖父「龍雲院」に比定される「木寺大宮」であり、「木寺大宮」は、信濃から戻った後、旧居に創建された龍雲寺への帰住が徳川家康によって認められた、と推定されます。しかし、本論文では、木寺宮の「大宮」を、「龍雲院」の妻である可能性があるとする新説が提唱されております。本論文に「引き続き今後の検討課題としたい」とあるように、今後、室町〜江戸初期の皇族における「大宮」の用例の分析が求められるでしょう。
 なお、現在、康仁親王の墓とされている古墓は、『遠江国風土記伝』「龍雲寺」に、「妃君、寳勝院殿月窓妙桂大禪定尼(有古墓無名)」とあり、もともとは「龍雲院」の「妃君」の墓とされていました。しかし、この古墓が、文久年間から明治四年までの間に康仁親王の墓として新たに位置付けられた、という事実が、本論文によって明らかにされました。もし木寺宮の「大宮」が、「龍雲院」本人でなく「龍雲院」の妻であるとすれば、この墓は実に「龍雲院」の妻「大宮」の墓ということとなります。

西湖山龍雲寺

 このように、本論文からは、いくつもの衝撃的な事実を明らかにすることができます。
 龍雲寺と関係のある木寺宮は、史実としては、南北朝期の康仁親王ではなく、戦国期の「龍雲院」(大澤基宥の外祖父)であった、ということになります。同様に、龍雲寺の北東に位置する六所神社も、康仁親王でなく「龍雲院」に由緒があると考えるべきでしょう。

入野 六所神社

入野 六所神社

入野 六所神社

 しかし、近世から近代にかけて形成された由緒は、たといそれが史実とは合致していないとしても、それ自体が歴史上の産物です。それらの由緒は、当事者の方々の手によって、維持されるか、さらに展開されるか、修正されるかが委ねられるべきでしょう。
 また、武家になったという「龍雲院」の子孫につきましては、現時点では事実関係が未詳のまま残されております。こちらの方面の研究が進むことも大いに期待されます。これが明らかにされれば、地方に下向して「戦国期在国皇族領主」となった木寺宮家の転変の全貌が我々の前に示されることとなるでしょう。
2021417日記



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