「室町期の皇族、木寺宮とその下向」
赤坂恒明

日本史史料研究会 編
『日本史のまめまめしい知識』第3巻
(ぶい&ぶい新書 No.0003
岩田書院, 2018.9, pp.113-121.

【概要】
 後醍醐天皇の兄 後二条院の子孫、木寺宮は、室町後期、遠江国に居住していたとされるが、その根拠は後世の文献・伝承であり、史料性が高いとは言い難い。しかし、同時代史料によると、戦国期に木寺宮が地方に下向していた事実が確認される。また、前田本『尊卑分脈』第一冊「帝王系図」附載「木寺殿」系図によると、木寺宮邦康親王の子「童形」が三河国に居住しており、その子にも「童形」がいたとされる。この記載は、同時代情報に基づいた増補と考えられ、史料性は高いと認められる。ここに、木寺宮の下向先が東海方面であった事実が確認され、木寺宮が三河国から隣国の遠江国へ移ったと推定することも可能であろう。従って、木寺宮が遠州入野に居住していたという江戸期文献の所伝は架空の話ではなく、一定の信憑性があると見てよいものと思われる。



【参考】

小文「室町期の皇族、木寺宮とその下向」が所載の、日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』第3巻が、現在、発売中です。たいへんにありがたいことに、
12と同様、このたびも稿を載せていただきましたが、現在、日本国外に滞在している関係で、まだ、本の現物を手に取って見る機会に恵まれておりません。毎日、非常に楽しい海外生活を送っており、帰国を忘れてしまいそうですが、本書ばかりは、早く帰国して読んでみたいものでございます。(2018.10.20.

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-86602-810-1.htm
日本史史料研究会 編
『日本史のまめまめしい知識』第3
(ぶい&ぶい新書0003
岩田書院、二〇一八年九月)
[ISBN 978-4-86602-810-1 C0221]
    T 歴史の常識
      1 竹村到 「江戸図の中の大木戸 ─ランドマークの描かれ方─」
      2 久水俊和「これぞ本当の骨肉≠フ争い ─天皇の土葬回帰と「死ぬ天皇」の復活─」
      3 功刀俊宏「「与力」と「家臣」」
      4 細川重男「ゴッド・ファーザーの意地」
      5 大塚紀弘「中世禅院の「のれん」」
      6 西光三 「流されて日向 ─「知」は身を助ける─」
      7 長塚孝 「太田道灌と太田資長」
    U こだわりの史実
      8 中脇聖 「明智光秀の「名字授与」と家格秩序に関する小論」
      9 八尾嘉男「江戸時代中期、摂北地域の茶の湯にもたらした公家家領の影響」
      10 片山正彦「大坂の陣と文禄堤」
      11 久保木圭一「最後の鎌倉将軍・守邦親王の兄」
      12 山野龍太郎「男衾三郎絵詞と吉見観音霊験譚」
      13 佐藤博信「安房妙本寺の開山日郷と開基佐々宇氏のこと」
      14 赤坂恒明「室町期の皇族、木寺宮とその下向」
      15 生駒哲郎「慈悲深すぎる地蔵菩薩」
      16 加栗貴夫「家移り儀礼から見た中世後期の「家」妻の位置」
      17 川口成人「三宝院満済と嵯峨勝鬘院」
      18 岡田謙一「熊本藩主細川家と「細川家文書」の関わりについて」
      19 村上弘子「高野山遍照光院快正 ─頼慶との争いに敗れて─」
    V 史料と向き合う
      20 白峰旬 「南宮山からの撤退戦についての毛利秀元発給の感状」
      21 鈴木由美「「正慶四年」と称名寺湛睿」
      22 坂井法曄「素眼筆蹟影写本『新札往来』とその原本切」
      23 大嶌聖子「「家忠日記」の中の挿画 ─人魚の絵からひろげて─」
      24 千葉篤志「戦国期の書状における源頼朝の記載 ─天正10年5月 上杉景勝書状─」
      25 古賀克彦「これって忖度?お坊さんの名前が変えられた! ─遊行末寺の上人号─」
      26 浅野友輔「『陰徳太平記』所収「香川勝雄大蛇を斬る事」─挿話の裏と類縁─」
      27 関口崇史「僧侶の名前」
    28 読者のページ

木寺宮に関する御示教
 
 日本史史料研究会 編『日本史のまめまめしい知識』第3巻に所載の拙小文「室町期の皇族、木寺宮とその下向」につきまして、御示教をいただいております。心より御礼申し上げます。
 まず、遠江国浜松庄に木寺宮の所領が存在したことを、「戦国期における三河吉良氏の動向」(『戦国史研究』第六六号、二〇一三年八月、一〜一五頁)の御著者、谷口雄太様から御教示たまわりました。即ち、『戰國遺文』今川氏編第一巻(久保田昌希、大石泰史編。東京堂出版、二〇一〇年二月)七五頁所収の、「東京大学総合図書館所蔵松平奥平家古文書写」の「今川氏親判物写」によりますと、永正二年(一五〇五)二月五日、今川氏親は「奥平八郎左衛門入道」(奥平貞昌)に「濱松庄内国方」と「濱松庄内木寺方」を与えた(大石泰史「今川氏と奥平氏 「松平奥平家古文書写」の検討を通して」『地方史静岡』第二一号、一九九三年五月、六一頁)が、本来、浜松庄は京都(三河)吉良領で、それを今川氏が勝手に没収し、差配したこととなるが、結局、永正十年(一五一三)、今川氏親は吉良氏の「濱松庄之内、国・本所」の支配を認めた、との由です。
 ここから、次のように推測することが可能となります。
     邦康親王の没後、木寺宮を継承した「童形」は、当時の朝廷において、ほとんど認識されていない、あるかなきかの存在であった。そのため、兄弟の仁和寺御室 静覚親王が、木寺宮領の遠江国浜松庄入野を管轄したのであろう。文亀三年(一五〇三)に静覚親王が入滅すると、二年後の永正二年(一五〇五)、遠江守護の今川氏親は、浜松庄の木寺宮領を勝手に処分しようとした。これに対して、浜松庄の支配者であった京都(三河)吉良氏が、同庄の「本所」領主である木寺宮の「童形」を三河国に招き、浜松庄支配の正当性を主張したのであろう。永正十年(一五一三)、今川氏親は、吉良氏による、「浜松庄の内、国・本所」方の支配を認めた。ここに、吉良家は、浜松庄の「本所」であった木寺宮の「童形」を、三河国から遠江国浜松庄へ送り込み、木寺宮は、同庄の入野に居を構えて、代を重ねたのであろう。
 また、たびたび私に様々な史料記載を御教示くださるT・T様からは、「妙見寺の上人という木寺宮」が、京都の日蓮宗大本山妙顕寺の第十世(または八世)日広(一五〇六〜一五五三)であり、日広が遠州の出身であることも、妙顕寺関係文献に明記されている、との御指摘をたまわりました。
 妙見寺とは、遠江国における今は滅んだ大寺かと思っておりましたので、京都の妙顕寺であるとは思いもよらず、日広を木寺宮の出身であると述べている先行研究にも、全く気付いておりませんでした。

 以上の点につきましては、今後、機会がありましたら、あらためて正式に論じたいものと存じます。

201919日)



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