タタール民族の国民的芸術家
ウルマンチェ
生誕115年記念展図録
ISBN 978-5-4428-0012-8
『バーキー・ウルマンチェ 絵画. 線画. 彫刻. 装飾=実用的美術工芸
“バーキー・ウルマンチェ. 運命のアラベスク. 芸術家の生誕115年によせて”展の図録
Баки Урманче.
Бакый Урманче.
Baki Urmanche.
Живопись. Графика. Скульптура. Декоративно-прикладное искусство.
Нәкыш. Рәсем. Сынчылык. Декоратив-гамәли. сәнгать.
Painting. Graphic Arts. Sculpture. Arts and Crafts
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Каталог выставки 《Баки Урманче. Арабески судьбы. К 115-летию со дня рождения художника》.
Государственная Третьяковская галерея, Москва, Крымский Вал, 10.
21 мая ─ 29 июля 2012.
《Бакый Урманче. Язмыш аятьләре. Рәссамның тууына 115 ел тулуга багышланган》 күргәзмә каталогы.
Дәүләт Третьяков галереясы, Мәскәү, Кырым валы, 10.
21 май ─ 29 июль 2012 ел.
Exhibition Catalogue 《Baki Urmanche. Dectiny Arabesques. 115th Birthday Anniversary of Artist》.
The State Tretyakov Gallery, Moscow, Crimean shaft, 10.
21 May ─ 29 July 2012.
Издание подготовлено к выставке 《Баки Урманче. Арабески судьбы. К 115-летию со дня рождения художника》.
Казань, Заман, 2012.
Казан, Заман, 2012.
Kazan, Zaman, 2012.
[ISBN 978-5-4428-0012-8]

 詩人ガブドゥラ・トゥカイ Габдулла Тукай と共に近現代のタタール民族を代表する文化芸術家である画家バーキー・ウルマンチェ Баки Идрисович Урманче / Бакый Идрис улы Урманче(1897〜1990年)は、日本ではほとんど全く知られていない。試みにインターネット上で片仮名「ウルマンチェ」を検索してみても、一件もかからない。
 私がウルマンチェについて初めて知ったのは、今から二十年以上前のことであろうか。地理学の専門家にして、さまざまな「民族音楽」の啓蒙的普及に貢献がある江波戸昭先生が、民放の夜間ラジオ放送においてタタールの民族音楽を紹介したことがあった。その番組の中で、高齢のウルマンチェが唄うタタール民謡(江波戸先生が録音されたものであろう)が放送された。今でも、そのラジオ放送をカセットテープに録音したものが手元にある。以来、長らくウルマンチェの名は自身の記憶の隅に残っていた。しかし、肝心の芸術作品に接する機会には恵まれないままであった。
 昨年、2012年はウルマンチェ生誕115周年にあたり、絵画・彫刻等、その芸術活動を回顧する展観がトレチヤコフ美術館で開催された(5月21日〜7月29日)。ウルマンチェの個展としては、モスクワでは初めての開催であるという。その図録を兼ねた美術書を、本年に至り、入手することができた。ここに初めて、ウルマンチェの作品を、ある程度まとまった形で知ることが叶ったのであった。
 本書には、展観に出品された、カザン(タタルスタン共和国)とモスクワの博物館・美術館その他に所蔵されているウルマンチェの美術作品が、カラー写真で掲載されている。但し、作品の中には、巻末の「カタログ」の部に小さい写真が載せられているに過ぎないものもある。序言・解説以下、ロシア語・タタール語・英語の三言語で書かれており、また、年譜(стр.138-147)・主要展観年譜(стр.148-156)・文献一覧(стр.157-159)が付いており、ウルマンチェ芸術の全体像と、その生涯・履歴を知る上で、甚だ便利である。
 ウルマンチェは、1897年2月22日、カザン県テテュシュ郡クル=チェルケネ村(д. Куль-Черкене Тетюшского уезда Казанской губернии / Казан губернасының Тәтеш өязе Күл Черкене авылы. 現タタルスタン共和国ブインスキー地区チェルキ=グリシノ村 д. Черки-Гришино Буинского района Республики Татарстан / Татарстан Республикасы Биа районының Күл Черкене авылы)で、ムッラーの家に生まれた。
 1907年秋より、ウルマンチェは、カザンの“新方式”マドラサ《ムハンマディーヤ》(Мухаммадия / Мөхәммәдия)で修学し、“ジャディード運動”の影響を強く受けた。しかし、家庭の経済的事情により、1914年、マドラサを退学した。しかし、ウルマンチェはカザン芸術学校への入校を希求し、その準備のため、1915年、ドンバスで坑夫として働いた。1916年、カザンに戻り、徴兵されて中央アジア方面に派遣された(中央アジアとその周辺地域における大反乱に伴う動員)。1917年、二月革命が勃発すると、革命活動に加わり、兵士代表に選ばれた。1918年、軍隊を辞め、教員となったが、この年には、白軍側についた大戦捕虜チェコ人部隊に追われてモスクワに赴き、ガリムジャン・イブラギモフ Галимджан Ибрагимов / Галимҗан Ибраһимов のもとで民族問題人民委員部のムスリム人民委員会(Мусульманский комиссариат / Мөселман комиссариаты)で働いてもいる。
 ウルマンチェの芸術歴は1919年のカザン国立自由芸術工房(Казанское государственные свободные художественные мастерские / Казан дәүләт ирекле сәнгать остаханәләре. 旧カザン芸術学校)への入校から始まる。カザン、モスクワでの修学の後、美術教師としての経歴を歩んだウルマンチェは、1929年8月13日、《スルタンガリエフ主義者》(султангалиевцы / солтангалиевчеләр)グループの一員であるとの容疑で逮捕された。これは、タタール語表記をアラビア文字からラテン文字へ変更することに反対するタタール知識人による、スターリンと全ソ連邦共産党タタール地域委員会(Татарский обком ВКП(б))宛の書簡 ──《82人書簡》(Письмо 82-х / 82ләр хаты)── に署名したことも、嫌疑の一つであった。1930〜1933年、ソロフキ特別用途収容所(Соловецкий лагерь особого назначения)で強制労働に従事させられたが、幸いにして1933年に釈放された。
 釈放後、カザンにとどまることができなかったウルマンチェは、ソ連邦各地において芸術活動に従事し、実績を積み重ねた。特にカザフ共和国では、現代カザフ芸術文化にも少なからぬ影響を与えたようである。
 1958年、タタール自治共和国政府の招聘によってカザンに戻ったウルマンチェは、以後、タタール民族を代表する芸術家として活躍し、1960年、タタール自治共和国人民芸術家(народный художник ТАССР / ТАССРның халык рәссамы)の称号を、1982年、ロシア共和国人民芸術家(народный художник РСФСР / РСФСРның халык рәссамы)の称号を得た。1990年8月6日に94歳で死去、カザンのタタール人墓地に葬られた。
 このような履歴を反映して、ここに紹介した図録には、タタールの風物・人のほか、中央アジアを題材にした絵画・線画作品 ── 例えば、「ウイグル集団農場にて」(1945年)、遊牧民の天幕を内側から描いた「ユルト」(1946年)、「バルハシ湖における駱駝」(1958年)等々 ── も掲載されている。
 文学作品への挿画としては、ガブドゥラ・トゥカイの著作に対するものが多いが、諧謔味に溢れたホジャ・ナスレッディン Ходжа Насретдин / Хуҗа Насретдин(ナスレッディン・ホジャ)、勇壮なコルクト Коркут / Коркыт(コルクト・アタ, デデ・コルクト)など、テュルク系諸族に広く知られている口承文学作品を主題としたものも少なくない。
 また、アラビア文字のカリグラフィー作品も秀逸である。
 彫刻作品としては、ガブドゥラ・トゥカイ(1964年)、十三世紀前半のヴォルガ=ブルガリアの詩人として知られるクル=ガリー( قل علی / Кул Гали / Кол Гали. 1965年)、カザン汗国の王妃スユムビケ( سويم بيکه / Сююмбике / Сөембикә. 1980年)の彫刻も、写真が掲載されている。特に後者は、囚われの老いた王妃の悲痛を丸木に彫り込んだ、たいへんに印象深い作品である。今後、カザン汗国史に関する叙述を行う機会があれば、是非とも挿絵として使わせていただきたいものである。
 同展では、チムール朝の君主、ウルグベクの肖像画(Портрет Уругбека / Олугбәк портреты. 1951年)も展示されていたとのこと。これは、M.ゲラシモフによって頭骨から復元された人頭に基づいたものであるという。残念ながら本書には、「カタログ」の部に小さい写真が載せられているに過ぎないが、そこには知的ではあるが小心で気弱なウルグベクの内面が描写されているように感じられる。
 また、「イブン・ファドラーンのブルガルへの到着」(Приезд Ибн-Фадлана в Булгары / Ибне Фазланның Болгарга килүе. 1973年. テンペラ画)も、小さい写真のみの掲載である。
 なお、ウルマンチェの作品を収録した美術書は、他にも複数、刊行されていることが知られるが、いずれも未見である。文学作品や歴史を主題としたウルマンチェの絵画のなかには、その作品とは気付かなかっただけで、歴史・文学関係の書籍において、既に目にしたことがあるものがあるかも知れない。よって、今後とも注意を払っていきたいと思う。
(2013.6.8)

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