拙稿中の一章
「ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性,再論」

(2013年6月29日)
 平成二十五年六月二十八日昼過ぎ、偶然、内陸アジア史学会会員の或る先生と出会った。その折の御詞。「赤坂君も、たいへんだねぇ」。
 これが『内陸アジア史研究』最新号で拙論が批判されたことに対するものであるか否かは不分明であるが、当該号は、まもなく大学の図書館等で閲覧に供されるようになるであろう。
 そこで、主な批判対象となった拙稿、「ジュチ・ウルス史研究の展望と課題より」(吉田順一監修, 早稲田大学モンゴル研究所編『モンゴル史研究 現状と展望』, 東京, 明石書店, 2011年6月, pp.91-105)のうち、関係する箇所を次に引用して、読者諸賢の御参考に供したい。
 なお、「自著」・「拙著」とあるのは、『ジュチ裔諸政権史の研究』(東京, 風間書房, 2005.2)を指している。また、文中のラテン文字表記は、私自身の方式による転写表記が、編輯の際に改められてしまったものであることを、付言しておく。

pp.96-101.
     3.ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性,再論
     上述のように,筆者は,自著において,ジュチ裔諸政権史研究の今後の課題・展望を述べているが,拙著の第二章においては,16世紀以降に編纂された所謂「ウズベク史料」に記されたモンゴル帝国期を対象とした記載を批判的に分析し,「モンゴル帝国期のジュチ・ウルスの歴史を研究するためには,原則として,同時代的史料を中心に据えなければならない」と結論した。
     しかし,それに対する反論が現れた。即ち,川口琢司・長峰博之の両氏による,ホラズムのヒヴァ汗国の君主・皇族に仕えたウテミシュ=ハージー Ötämiš ḥājī の『チンギス=ナーマ』 Čingīz-nāma の訳注書[UCN/KN]における解題である。この訳注そのものは,チャガタイ=テュルク語のローマ字転写とアラビア文字校訂テキストをも伴った,高く評価されるべき業績であり,今後,研究の発展に裨益するところ大なること,疑いの余地がない。それであればこそ,本史料の史料性に関する,筆者の見解に対する両氏の批判には,具体的に答えておく必要があると考える。
     まず,筆者が具体例を挙げて分析を行った上での結論として述べた,
      以上,ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の記載を検討した結果,バルトリドが指摘したように,其処には,☆史料編纂時における同時代的状況を過去に仮託したものが存在し,それらの情報はモンゴル帝国期の史実を伝えたものと見做すべきではない☆,ということが確認された[赤坂 2005: 118]。
    とある箇所から,両氏は「☆〜☆」の部分を引用し,「しかし,誤解を恐れずにいうならば,そのような政治的傾向は他の少なからぬ史料にも認められるものであり,この一事をもってモンゴル帝国期に関する『チンギズ・ナーマ』の記述をすべて否定するのは極論である」,と述べている[UCN/KN: xvi]。
     「すべて」否定するのは確かに「極論」である。無論,筆者も,そのような「極論」は唱えていない。両氏が,「『チンギズ・ナーマ』には独自の情報が多く含まれているが,同時に,他の諸史料によって史実と確認される記述も少なからず存在しているのである」と述べていることに,何ら異論はない。筆者が問題としているのは,あくまでも,「ジュチ・ウルス史を研究する少なからぬ先学が,所謂「ウズベク史料」等,後世の史料に初めて現れる,モンゴル帝国時代を対象とした情報を,あたかも史実であるかのように見做していること」である[赤坂 2005: 106]。つまり,『チンギス=ナーマ』における「独自の情報」とされるもの こそが,問題となるのである。
     それらの情報には,他の先行諸史料には見られないものと,他史料とは矛盾しているものがある。史料批判のためには,言うまでもなく,まず,他史料との比較・検討が可能である後者を検討する必要がある。そのため,筆者は,『チンギス=ナーマ』における,『世界征服者史』や『集史』等と矛盾した,史実とは認め難い記載として,チンギス・ハンの諸子弟分封を取り上げ,また,ウテミシュ=ハージーの政治的偏向が著しく現れる事例として,ジュチの十三男トカ=テムルの後裔に対するシバン裔の優位に関する記述を取り上げたのであった[赤坂 2005: 111-116]。そして,筆者は,それら,史実とは異なる記述が,どのような背景のもとで『チンギス=ナーマ』に記載されたのかを推測し,その史料性を明らかにしようと試みたのである。
     しかし,両氏は,「肝要なのは,厳密な史料批判によって史実および史実の反映,そして伝承的要素を見極めることであろう」と述べている[UCN/KN: xvi]── これには筆者も賛成する ── にもかかわらず,筆者が具体的に事例を挙げた上で出した見解に対して,実証的な反証を何ら行ってはいない。
     更に両氏は,「そして,そのような史料批判をへたうえでなお,われわれは『チンギス・ナーマ』におけるウズ・ベグの即位前後の事情,……(中略)…… などに高い史料的価値を見出すのである」と述べている[UCN/KN: xvi]。「ウズ・ベグの即位前後の事情」に関する『チンギス=ナーマ』の記載は,既に[川口 1997]において史実として扱われているが,果して,「厳密な史料批判によって」史実であると「見極める」ことが可能であるのであろうか。
     まず,ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』における当該の記載を要約する21
      トクタガ・ハン【トクタ】は,自分の息子にハン位を確実に継承させようと,近親や一族のすべてを殺した。弟トゥグルルの子ウズベクは,密かにチェルケスの山地に逃れた。トクタガの子は父に先立って死去し,トクタガには継承者がいなくなった。ウズベクの生存を知ったトクタガは,ウズベクを後継者として迎えたが,ウズベクが到着する前にトクタガは死去し,カラ=キシ(非チンギス裔)のバジル・トク=ブカがハン位を簒奪した。キヤト・イサタイが彼を暗殺し,ウズベクは即位した[UCN/T: 45b-47b; UCN/KN: 25-30]。
     ここには年代が明記されていないが,ウズベクの即位は西暦1313年のこととされる。従って,この『チンギス=ナーマ』の記載が史実であるとすれば,非チンギス・ハン裔の有力者が,自らの出自を詐称することなくハン位を簒奪した最初の事例となり,モンゴル帝国期において早くもチンギス・ハン裔の権威が脅かされたこととなるので,その意味する所は甚だ重大である。
     しかし,ウズベク・ハンのまさに文字どおり同時代に書かれた史料である,カーシャーニーの『オルジェイトゥ史』には,トクタの死後,ウスベクが即位するに至る状況を伝える,次のような記述がある[TU/AS: 198b-199a]。
      その後【トクタ死去後】,ウルスのアミールたち・ノヤンたちが,王子たちのうちの一人の即位[のために]集まった。サライのアミールのクトルク=テムル qutlugh-timūr は言った。
       「我々はトクタ tūqtā の子息を,帝位に即けよう。なぜなら,彼の父の諸権利が,我々の上に数多くあるから。しかし,[その前にまず],『ウズベク ūzbīk は王権の敵であるから,[我々は]まず彼を呼び,より良い方法で彼を片付けよう』という約定によって[ウズベクを殺害し],その後,トクタの子息をウルスの王座に即けよう」と。
       [彼らは]このことに同意した。
       ウズベクは,トクタ死去の報せを聞くと,軍隊を残し,急いで来た。ある人が,彼に対して,裏切り者なるアミールたちの考え・策略・反逆を報せた。
       そして,それ【ウズベク殺害計画】の原因は次のとおり。即ち,[以前]彼はアミールたちにイスラーム入信・イスラーム信仰を求めていた。アミールたちの指導者が言うには,「ああ帝王よ。汝は我々にムスリムたることを欲するなかれ。しかるに[汝は]服従・従属を要求[している]。どうして我々を,チンギス・ハン jinkiz khān のヤサ yāsā・ヨスン yūsūn から[背かせようとするのか]。なぜなら,アラブたちの古い法を[汝が]導入しているという不平[があるから]」。ウズベクは彼を殺した。他のアミールたち・ノヤンたちは,忌まわしき行為ゆえ彼を疎んじ,憎悪するようになった。
       そして,彼の命を狙うために,[彼らは]ケンゲチュ(協議)・一致した。そして,[彼らは]招待した。即ち,招待の間に彼のことを片付けようと。
       ウズベクはトイ(饗宴)に列席した。そして,二・三杯の花蘇芳酒を,歌を聞きながら飲んだとき,ひとりのアミールが,立ち上がる際に目くばせによって合図した。ウズベクは疑った。そして,厠へ行くとの口実で[ウズベクも]立ち上がり,外へ出た。そのアミールは,彼の後について来た。そして,アミールたちの考え・策略・反逆を,あるがままに彼に説明した。ウズベクは直ちに一目散に走り,逃げた。そして,数千人を自らのもとに集め,彼らの力と支援によって戻り,彼らを狙って先手を打った。そして,[ウズベクは]アミールたちの全てを,百人余の王子やトクタの子息ともども捕え,殺した。
       [ウズベクは]そのアミールに対して,引き立てと考慮をなされ,自身の密談相手・相談役・親友にした。そして,自ら,ジュチ・ハンのウルス(ulūs-i jūjī khān)の王座に即いた。
     ジュチ裔諸政権のもとで作成された諸史料では,ジュチ・ウルスをイスラーム化させた帝王としてウズベク・ハンは極めて高く評価されているが,イル汗国の地で編纂された『オルジェイトゥ史』には,ウズベクの残虐性が描かれており,興味深い22
     また,ほぼ同時代史料であると言えるが,『オルジェイトゥ史』よりは編纂の時期がくだる『シャイフ=ウワイス史』には,次のような記載がある[TSU/Loon: 146-147]。
      キプチャク草原(dasht-i qifjāq)において,トクタ ṭūghtā’ も,この年【ヒジュラ暦703年(西暦1303年8月15日〜1304年8月3日)】に亡くなった。彼にはイルバスミシュ īlbāsmīsh という名の子息がいた。そして,カダク qadāq が大アミールであった。[彼は次のように]欲していた。即ち,「ガザン【ママ。トクタの誤りであろう】の死後,イルバスミシュを王座に座らせよう」と。
       トーリチャ【トゴリルチャ】の子ウズベク ūzbik bn ṭūlīja は,ホラズム khwārazm にて,クトルク=テムル qutlugh timūr ともども同意した。[ウスベクとクトルク=テムルは],帝王【トクタ】[へ]の哀悼の名目でオルドに入った。その内部において,ウズベクは小刀をイルバスミシュに刺し,クトルク=テムルは小刀をカダクに[刺し],各二人を殺した。そして,帝位はウスベクに回った。そして,[ウズベクは]スルターン位の王座に座った。
     両史料には,ウズベクによる政権掌握におけるクトルク=テムルの役柄が全く異なっているという違いはあるものの,ウズベクがトクタの子を殺害した後に即位した,という基本線では一致している。ここには,非チンギス裔によるハン位簒奪は,一時的なこととしてさえ,事実として存在する余地がない。
     『オルジェイトゥ史』も『シャイフ=ウワイス史』も,後期イル汗国史を研究するための史料として史料性が高いことは,言うまでもなく周知の事実である。従って,『オルジェイトゥ史』や『シャイフ=ウワイス史』の記載とは矛盾する,後世の『チンギス=ナーマ』に初めて現れる「ウズ・ベグの即位前後の事情」に「高い史料的価値を見出す」[UCN/KN: xvi]ことは,到底,認めることができないのである。
     これは,『チンギス=ナーマ』におけるモンゴル帝国期を対象とする記載に「高い史料的価値を見出す」ことが困難である理由のうちの一つに過ぎず,これ以外にも同様の根拠を挙げることは可能であるが,紙幅の関係上,割愛せざるを得ない。しかし,拙著および上文において取り上げた例のみを以てしても,他の事例について類推することは十分に可能であろう23
     なお,川口・長峰両氏は,本史料の「口頭伝承性」に対する見直しを行っている[UCN/KN: xiv-xv, xxi-xxiii]。確かに,本史料の中には,情報源とした文献として「ドースト・スルターン殿下の諸史書(ḥaḍrat-i dūst sulṭān ning tawārīkh lārī)」(f.43a),「スルターンたちの誉れドースト・スルターン殿下が持っている書冊」(fakhr-i salāṭīn ḥaḍrat-i dūst sulṭān dāqī daftar)」(f.54b)が挙げられている。しかし,それらに基づいた情報として挙げられているのは,全体から見れば分量的に極くわずかに過ぎず,史料全体に広く認められる「口頭伝承」的な要素を否定するものではない24
     以上より,ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性について,筆者の分析から導き出された結論は,全く改める必要がないものと思われる。従って,『チンギス=ナーマ』をも含め,後世の諸史料 ── 所謂「ウズベク史料」,「クリミア史料」等 ── におけるモンゴル帝国期にかかるジュチ・ウルスに関する歴史記述については,それが史実であるか否かを検討するよりも,むしろ,編纂時期における過去に対する歴史認識という側面から分析することにこそ,最も重要な意義があると言うことができよう。

pp.102-103, n.22)
     これと同様の記述は,『ハーフィズ・アブルー全書』[MHA/S282]や,『集史』写本のうち所謂パリ本と同族である JT/P209 の増補部分にも見え,その内容は,夙にドーソン Konstantin M. d'Osson によっても紹介されている[ドーソン: 6: 243]。なお,[杉山 2004: 508-513]において紹介されている『集史続編』写本(Nur Osmaniye 3721)の記述は,上記JT/P209 の増補部分と基本的に同文である。

p.103, n.23)
     なお,川口・長峰両氏は,「赤坂は,……(中略)……「多様な口承伝承のうちから,シバン裔ホラズム王家に都合の良い情報のみを,自身の価値基準であるシバン裔中心主義に従って選択した可能性が高い」としているが[赤坂2005: 110-111],これはまったく根拠のない曲解といわざるをえない」と述べている[UCN/KN: xxii n.40]。しかし,筆者は,それを結論として述べているのではない。筆者の文章は,「可能性が高い」の直後に句点が付くのではなく,
      ,と推測することが可能である。そこで,次章では,『チンギス=ナーマ』の本文から,具体的な事例を取り上げて,このことを検討してみたい。
    と続いている。要するに,あくまでも,そのような可能性もあるので,その実否を確認すべく検討を行う,という文脈において書かれているに過ぎない。従って,両氏が筆者の文章の一部のみを引用し,文脈から切り離してそれを評するのは,いささか不適切であるように思われるが,いかがであろうか。

p.103, n.24)
     なお,ウテミシュ・ハージーの『チンギス=ナーマ』に挙げられた両史料に,口承伝承に基づいた情報が含まれていない,と断言すべき根拠もない。

 なお、『シャイフ=ウワイス史』については、本田実信『モンゴル時代史研究』所収「ペルシア語史料解説」577頁に、次のように記されている。
 著者クトビー・アハリーが、ウズベク・ハン(1342年死去)と「ほぼ同時代」人であることは疑いの余地がないと思われる。また、故本田実信氏が、本史料に、「キプチャク・ハン国との交渉史研究」における重要性を見出していることにも、注意したいものである。

(2013.7.1.改訂)


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