最初の在日ウイグル民族
 
 小松久男編著『テュルクを知るための61章』(明石書店, 2016.8)第60章の拙稿、「日本で活躍したテュルク 在日トルコ・タタール人の戦後」の冒頭に、
     東京都府中市の多磨墓地の東南部第1区画、外国人墓地の東端にムスリム墓地がある。墓碑銘を見ると、被葬者の大半はテュルク(在日トルコ人)である。中には東トルキスタン出身者(現ウイグル族)も含まれるが、多くはカザン、ヴャトカ等、ヴォルガ=ウラル地域出身のタタール人・バシコルト(バシキール)人である。
とありますが、この「東トルキスタン出身者(現ウイグル族)」とは、トフタバイ・トゥルディザーダ(19081965)です。彼は、竹内義典「ウィグル族との出会いと思い出」には、トルファン出身と書かれております。

TOHTABAY TURDİZADE
2016年1月9日撮影

 その墓碑には、次のように記されております。

TOHTABAY TURDİZADE
22HAZİRAN1908DOĞU
TÜRKİSTAN
17TEMMUZ1965TOKYO
NUR İÇİNDE YAT
EŞİ RAVZA   KIZI HAVVA
トフタバイ・トゥルディザーデ
  1908年6月22日  東トルキスタン
  1965年7月17日  東京
光の中に横たわれ
その配偶者 ラヴザ  その娘 ハッヴァ
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 同じ墓域には、娘の墓碑もあります。

HAVVA ARDA
1947.6.25−1994.9.8

 トフタバイ(トクタバイ)の日本への移住は、戦前における日本の大陸政策と関係があります。
 中華民国期における1931年の新疆大反乱で「東トルキスタン・イスラーム共和国」の大統領となり、その後、新疆省副主席となったホージャ・ニヤーズという有名な歴史人物がおります。このホージャ・ニヤーズの腹心で、カシュガル騎兵第六師団の司令官、中将マフムード・ムヒーティー maḥmūd muḥīṭī(ムフティーというのは不正確。マフムード・バーイ。18831944年)の部下の一人が、このトフタバイです。
 トフタバイの上官、マフムード・ムヒーティーは、新疆大反乱におけるトルファン反乱の指導者で、ヘディンの『シルク・ロード』にも現われます。新疆省において1937年から始まった盛世才による大粛清(ホージャ・ニヤーズや、カザフ王公シャリフハンらが処刑されました)に際し、マフムード・ムヒーティーは、イーサー・ユースフ・アルプテキン(190195)ら部下15名と共に、カラコルム山脈を越えてインドのレー、スリナガルを経て、トルコへ亡命し、イスタンブルに寄住しました。マフムード・ムヒーティーは、1939年、部下15人と共に上海に渡り、日本総領事館に支援を要請。日本政府の招聘により東京を訪問しました。
 この15人のうち、ムハンマド・イミーン・イスラーミー(カシュガル出身)は東京に残り、代々木の東京ジャーミィのイマームとなり、その後、サウジアラビアのジッダに移住しました。トフタバイは、日本人女性(墓碑に見える名前はイスラーム名でしょう)と結婚し、東京に残りました。在日ウイグル人トフタバイは、異国の地、日本で生涯を全うし、前述のとおり、墓碑から娘のいたことが知られます。
 さて、トフタバイの上官、マフムード・ムヒーティーは、残る部下と共に北平(北京)に移り、さらに、日本が支配する「蒙疆政権」下の四子王旗のウランホワ(烏蘭花)に住みましたが、マフムード・ムヒーティーは1944年、北平で死去し(1943年に新疆に戻って戦死したとする文献もありますが誤りのようです)、日本敗戦後、部下13人は北平へ戻り、1946年、新疆に帰還して新疆省「連合政府」に参加し、彼らのうちの一人、アルプテキンは国民党側の新疆省政府委員となりました。1949年、人民解放軍が新疆に迫り、新疆省「連合政府」が中国共産党政府に帰順すると、それに反対するアルプテキンは、再びカラコルム山脈を越えてインドを経てトルコへ亡命し、その後、長らくトルコで東トルキスタン独立運動の指導者として活動しました。しかし、他のマフムード・ムヒーティーの旧部下は、全員、殺害されたということです。戦前の日本と関わったウイグル人の悲劇です。
 以上、手元にある限られた文献から、取り敢えず軽くまとめただけですので、誤りが含まれている可能性があります。しかし、たまたま多磨墓地でトフタバイの墓碑に気付き、また、彼の同僚たちが内モンゴルとも縁があったということで、敢えてここに紹介いたしました次第です。ご批正いただければ幸いです。
    参考文献
     新免康「新疆ムスリム反乱(一九三一〜三四年)と秘密組織」『史学雑誌』第九十九編第十二号, 1990.12.
     竹内義典「ウィグル族との出会いと思い出」国立国会図書館編『アジア・アフリカ資料通報』Vol.24, No.4, 1982.7.
     小村不二男『日本イスラーム史』日本イスラーム友好連盟, 1988.4.
2021.5.24.記。修訂アリ

 新疆近現代史研究の専門家、蘭州大学の菅原純先生から、トフタバイはトルファンでなくカシュガルの出身であると御教示を賜わり、関係資料および先行研究を御提供いただきました。記して感謝申し上げます。

トフタバイ「知れていない奇習 ――回教民族の特殊な風俗――」(脱出回教徒が語る秘境新疆)『毎日情報』第六巻第十号, 1951.10, pp.53-59.

 表題から想像されるのとは稍々異なり、「新疆人が新疆の風俗・習慣を書いたもの」である本記事の内容には、同時代史料的価値があります。
     トフタバイ氏略歴
     カシュガルに生れ、祖父の代からのウィグル族の豪商。一九三七年四月にカシュガルを脱出して、ヒマラヤの峠を越えてスリナガルを通り、インドから香港を経て日本に亡命。くわしくは本文の“トフタバイ家の悲劇”の章に述べてある。

       気候と言語
     ・・・・・
       大学以下の各学校
     ・・・・・
       詩人アミンと舞踊家ハナン
     新聞はウルムチに「新疆日報」というトルコ語の日刊紙が出ている。発行部数は四万くらいである。「エンギハヤア」【※『イェンギ・ハヤート』】という新聞もあつたが、いまは廃刊した。
     現在は各県に一紙ずつ、共産党の機関紙が出ていて、民衆はそれを与えられている。「新疆日報」も中身は共産党化されてしまつているのである。
     雑誌類は、あるにはあるが、われわれがぜひ読みたいというようなタチのものでなく、時々しか出なかつたり、すぐ名前をかえたり、あまり大衆に知られているようなものはない。
     ・・・・・
     新疆の芸術家として全ウィグル人に知られているのはマホメット・アミンであろう。
     かれは詩人で、トルコ語で沢山な詩を書いているが、小説も書く。なかんずくわれわれはアミンの「トルキスタン史」を尊重している。
     カンバル・ハナンは南京や上海にきたことのある新疆第一の女優である。
     ・・・・・
       十二の楽器とウィグル踊り
     ・・・・・
     私たちは故郷を遠くはなれて日本のような外国にくらしていると、時にはウィグルの音楽やおどりを夢にみることさえある、私はウィグルの全部の楽器の形を作図できる。だれか日本人の有志がそれによつてわれわれの楽器をつくつてくれれば、せめてウィグルの音楽だけでも日本人にきかせたいと思う。
     ・・・・・
       衣服などのこと
     ・・・・・
       結婚の風習
     ・・・・・
       一夫多妻制の眞相
     ・・・・・
       割礼は宗教儀式
     ・・・・・
     回教徒が豚肉を食わないのも、豚が人糞を食う不潔な動物だからである。回教徒の断食や沐浴は、つねに身を清浄に保つという教義にもとづく。割礼もその一つで、・・・・・
     日本のようにパンパンガールなどというものは共産主義にならぬ前から新疆には一人もいない、もしいたなら殺されたであろう。
     ヨシワラのような商売は新疆には許される性質のものではない。もし強いてああいう商売をする者があれば、これまた殺されてしまうだろう。
       カシュガル市の楽園
     ハジ・トフタバイ・トルデザーダが私の名であるが、私はカシュガル市に生れた。私の家は祖父の代から有名な商人で、キャラバンを所有してインドや天津に貿易をした。
     カシュガル市には私の営む大きなデパートがあり、その支店は新疆中に十六あつた。町の目抜きの所に、トフタバイ家の私有にかかわる広い公園があつた。
     その公園には二十七の道路がたてよこに走り、一区かくごとにありとあらゆる果樹がみのつていた。リンゴ、ブドー、アンズ、イチジク、ナシ、ザクロ、サクランボ、メロン、スイカなどが、時季を追うて日本の果物の何倍もの高い香気を発していた。
     私はインドや中国からも、何百本という珍しい果樹をとりよせてこの公園のいたるところにうえた。
     公園は四時から七時迄門をあけ、市民はだれでもはいり放題で、みのつている果物をとつて食べてよいことになつていた。私の店の者にはこれらの果物がいつも豊富に分配された。
     これは施すための果物で、それを売るということはなかつた。したがつて町の人々から私の公園は、カシュガル市の楽園といわれ、所有主のトフタバイ家は、回教徒らしい慈善者だとたたえられたのもうそではない。・・・・・
     また私は、商売でもうけた利益のうちから孤児を収容する私立小学校を町にたてた。政府にそれをたてるようにすすめたのだが、やろうとしないので、私個人がしたのである。
     そこでは十幾人の先生をやとい、七百八十四人の孤児を収容して、教育だけでなく生活の一切の面倒をみた。
     ・・・・・
       トフタバイ家の悲劇
     ところで、そうしたトフタバイ家も、一九三七年の革命の時には、貧民の敵、ブルジョアとして、忽ちヤリ玉にあがつた。全財産は没収されて、公園も孤児学校もあつたものでない。カシュガルはソ連赤軍に占領され、千七百五十人の有産者が逮捕された。その中には私の伯父以下十七人の家族がまじつていた。
     かれらは全部カシュガルの監獄に入れられ、三十七年十月にソ連軍が退却する時、ガソリンをぶちこんでその監獄に火をつけたので、私の家族十七人は、千七百五十人とともに、監獄の建物もろとも焼き殺されてしまつた。
     私はその年の四月八日に、商用の出先きからそのまま逃亡して、雪と氷のコンロン山をこえ、インドのカシミールへはいつて、そこのスリナール市で、あとから脱出してくる同胞を待つた。同胞はまもなく七百五十六人集つた。(現在国外亡命者は二千人以上となつた。)
 ここに見える「一九三七年の革命」とは、ソ連と連携した盛世才による大弾圧を指しております。トフタバイには、これが「政変」ではなく「革命」と認識されていたわけです。
 なお、カシュガルにおけるトフタバイの活動については、当時の現地新聞紙『イェンギ・ハヤート』にも紹介されているとの由です。ウイグル民族の近代教育に対する彼の貢献は、テュルク系諸民族の教育史上、銘記されるべきものでありましょう。

菅原純「ウイグル人と大日本帝国」『アジ研ワールド・トレンド』第112, 2005.1, pp.28-31.
 ここには、マフムード・ムヒーティーとその部下、ムハンマド・イミン・イスラーミー、バイ・エズィズ、トフタバイの動向も紹介されております。そして、ここから、マフムード・ムヒーティーの部下筆頭の「バイ・エジシイ」ことバイ・エズィズが、「「解放」そして「文革」をへて新疆で天寿を全うした例外的な人物」であることを知ることができました。したがいまして、「他のマフムード・ムヒーティーの旧部下」は、全員が殺害されたわけではないことが判明いたしました次第です。
 本稿の「おわりに」における著者の問い、
    一九四五年の日本の敗戦をもって大陸における日本の活動は終焉を迎えた。そしてかつて日本が持ちえた新疆・ウイグル人についての知見、人材、そしてコネクションは(・・・・・)ほぼ断絶し、忘却され現在に至っている。・・・・・ 我々は彼らをかつての日本人たちほど理解しているのであろうか。
は、内モンゴルについても、かなりの部分において該当しているでしょう。
 戦後の日本人の前には、昭和時代の1980年、一世を風靡した国民的テレビ番組、NHK特集「シルクロード」の映像において、内モンゴル自治区西部〜新疆ウイグル自治区の諸民族が、姿を現しました。しかし、そこにおいては、戦前・戦時中の日本人が政略・戦略的に彼らの一部と関わり、日本敗戦後、彼らの運命に少なからぬ影響を与えるに至った、という過去については、まったく触れられませんでした。
 それから四十年以上を経た今日、新疆が国際政治問題の焦点として浮かび上がることになるとは、1980年当時、いったい誰が想像し得たでしょう。また、現時点において、今後、新疆をめぐる問題がどのように推移することになるのか、まったく予想できません。
 それはともかく、トフタバイの没後十五年目に放映されたNHK特集「シルクロード」に映し出されたカシュガルの映像を、トフタバイの御遺族はどのような心境で御覧になられたのでしょうか。そこに映り込んでいたカシュガルの老人たちの多くは、社会事業に尽しながらも理不尽に非業の最期を遂げたトフタバイ家の記憶を鮮明にとどめていたことでしょう。しかし、カシュガルが劇的な変容を遂げた現在、トフタバイ家の痕跡と記憶は、八十年以上の歳月を隔て、どれほど残されているのでしょうか。
2021.6.1.記)



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