A.I.クインジ歿後百周年によせて
  一昨日、二〇一〇年十一月二十日は、レフ・トルストイ死去百周忌であったとの由。
 本年は、ウクライナ出身の風景画家、A.I.クインジ(1842〜1910)の歿後百周年にもあたっている。

 アルヒプ・イヴァノヴィチ・クインジ Архип Иванович Куинджи の名は、管見の限り、日本で刊行されている美術事典・百科事典には現れていないようである。
 しかし、A.I.クインジは、鮮烈な色彩を効果的に用いた絶妙な明暗によって、あたかも絵が光を放っているかのように錯覚させる高度な技法や、簡潔な意匠を幻想の域にまで昇華させ、瑞々しい詩情を静謐に湛えた内面性により、今日に至るまで多くの観覧者を魅了し、感銘を与え続けている。同時に、才能ある弟子たちを育成し、その門流は「クインジ派」と称され、印象主義の伝統をソビエト美術に継承させる上で、大きな影響を与えたという。
 即ち、必ずしも十分には知られていないが、知る人ぞ知る巨匠であると言うことができよう。いずれは、その画業が美術史上、正当に評価され、人口に膾炙した存在になることは、間違いないと思う。

 アゾフ海北方のマリウポリ Мариуполь 付近、カラセフカ Карасевка(カラスー Карасу)近郊集落で、ギリシア人靴職人の子として生まれたというクインジの絵に、私が初めて出会ったのは、二千七年の初夏、東京都美術館で開かれた「国立ロシア美術館展」においてであった。その、現代的な感覚が溢れる「森の月影」は、雪を踏みしめる自らの足音が触感と共に聞こえてくるような、静寂にして神秘的な一点であった。
 しかし、その時はクインジについて全くの無知であったため、その名前と、クリミアに所縁があったという経歴から、「美術史に大きな足跡を残したわけではない、クリミア・タタール系の一画家であろう」と勝手に憶測していたのであった。誠に笑うべきである。これが、わずか三年余り前のことである。

 ところが、某日、神保町の或る古本屋にて、三冊五百円の均一本から、二冊、選んだものの、残り一冊、特に欲しいと思う本も無く、どうしようかと思っていたその時、「クインジの名作を初公開」という背表紙が目に入った。

クインジの名作を初公開 ロシア・ロマン派の風景画展 クインジの名作を初公開 ロシア・ロマン派の風景画展
Романтизм в русской пейзажной живописи XIX − начала XX века
主催 : ソ連邦文化省, 香川県文化会館, 浜松市美術館, 財団法人国際美術協会, 香川県教育委員会, 朝日新聞社.
後援 : 外務省, ソ連邦対外文化交流友好団体連合会, 文化庁, 日本対外文化協会, 在日ソ連邦大使館, 朝日イブニングニュース社.
協力 : 月光荘.
(東京日本橋三越, 1979.4.24〜5.13; 浜松市美術館, 1979.6.1〜6.30; 香川県文化会館, 1979.7.7〜8.5)
編集 : 財団法人国際美術協会.
編集責任者 : 中村曜子.
制作 : 月光荘


 「クインジって、意外と有名な画家だったんだな。二冊でも三冊でも同じ五百円。それならば。」と、中をあらためもせず、当該の図録を「ついで」に購入したのであった。
 帰宅後、ごく軽い気分でその図録を開いたところ、思いもかけず衝撃を受けた。即ち、クインジの代表作の一つ、「ドニエプルの月夜」である。しばらくの間、目が釘付けになってしまった。

 巻末の「作家・作品紹介」には、次のように記されている。
     1880年11月、その野心作とも言える《ドニエプルの月夜》1点だけを展示する個展を、ペテルブルグの美術家奬励協会のホールでクインジは開いたのである。この作品を見ようと集まった観覧者の列は、ネフスキー大通りまで続いたという。
     《ドニエプルの月夜》では、冷たい銀、緑色を配合した暗くて胸騒ぎするような色調を駆使しながら、夜空の月光に照らし出されたドニエプル河の神秘的な幻想イリュージョンを画布に再現している。そこには真実の光と空気が充満し、河は永遠の流れを保ち、夜空は果てしもなく深遠なものに感じとれる。
     個展のホールには、驚くような静けさと、感嘆するため息が充満していた。詩人ヤコフ・ポロンスキーは、この作品についての感想を詩に綴っている。
 本物の絵でなく、図録の写真を見ただけに過ぎないのであるが、今から百三十年前のサンクト=ペテルブルグの観覧者たちを追体験したようなものである。
 ましてや、顔料が劣化して画面が黒ずむ以前の、光輝くが如き真新しい現物を目の当りにした人々の驚嘆は、推して知るべし、であろう。
 それはともかく、当該の図録(早稲田大学中央図書館にも所蔵されている。整理番号「723.3/349」)には、次の七点のクインジ作品が載せられている。なお、それらは全てカラーである。「森の月影」もある。
    図版1−ドニエプルの月夜(1880年作)クインジ(ロシア美術館所蔵. No.Ж−4191
    図版2−夜の放牧(1905〜1908年作)クインジ(ロシア美術館所蔵. No.Ж−4199
    図版3−海の日没 クインジ(デイネカ記念クールスク博物館所蔵. No.674
    図版4−日没 クインジ(ロシア美術館所蔵. No.Ж−462
    図版5−森の湖・雲(1876〜1890年作)クインジ(ロシア美術館所蔵. No.Ж−4194
    図版6−森の月影 クインジ(ロシア美術館所蔵. No.Ж−1514
    図版7−エリブルースの夕べ(1898〜1908年作)クインジ(ロシア美術館所蔵. No.Ж−1519
 図録の表題に「クインジの名作を初公開」とあり、クインジの名を大いに称揚しているにもかかわらず、結局、彼の名は、十分には知られることがないまま、現在に至ってしまったようであることは、やはり残念であると言わざるを得ない。

 ところで、本年夏、ロシア書籍輸入会社「日ソ」の目録に、モスクワの《白い町 Белый город》出版社刊行《絵画の巨匠 Мастера живописи》シリーズの一冊として、クインジの生涯と作品が紹介されている美術書があることに気付いた。しばし日を置いた後、結局、注文した。海外発注となったが、無事に入手することができた。
Golitsyna 2009
イリーナ・ゴリツィナ
『アルヒプ・クインジ』
Ирина Голицына,
Архип Куинджи.
Москва,
Белый город,

2009.

 本書の表紙は、クインジ晩年の代表作「馬の夜間放牧」の一部である。この絵は、上記図録にも載せられている。月光を映して流れているのはドニエプル川。不思議な感覚を抱かされる、印象的な一点である。
 総48頁の本書は、厚さには欠けるものの、クインジの作品が90点、すべてカラー図版で掲載されている。本物の絵の持つ迫力を期待することは、無論、できないものの、それでも、彼の絵をこよなく愛する向きには、是非とも座右に置きたい一冊である。
 なお、本書には、前述の図録『クインジの名作を初公開 ロシア・ロマン派の風景画展』に所載の図版3「海の日没」と図版4「日没」は収録されていない。
 従って、我々は、これら二冊で、クインジの作品を92点、知ることができるのである。

 ところで、この美術書には案の定、クインジの出自について興味深い記載があった。
     《クインジ Куинджи / Kuinji》という姓は珍しく、そして、魔術をかける東洋音楽の歌詞のような響きがある。この姓は同時代人たちを驚かせており、時に、刺激を与えていた:画家が《異国のヘビイチゴ[のような有象無象の類]の出身》であるということを強調して、それを軽蔑的に発音することが試みられたように。
     ところが、クインジの戸籍簿には、エメンジ Еменджи / Emenji という姓のもとに記載されていた。エメンジとクインジという両姓とも、トルコ起源である。ということは、アルヒプ・イヴァノヴィチ Архип Иванович / Arxip Ivanovič は、ギリシア人でないのか? 興味深いことに、クインジの家族においてはタタール語が話されており、そして、画家自身がクリミア=タタール人の言葉を流暢に話していた。ギリシア語をもクインジは知っていた。では、アルヒプ・クインジの出自は、どのようであるのか?
     クリミア=タタール人は長期間トルコの臣属者であったということが知られている。それゆえ、トルコ語にそれらの基を探しあてつつ、クリミア=タタール人と《タタール化した》ギリシア人の多くの姓の意味の翻訳を作すことができる。つまり、エメンジは《働く人》を意味している。
     クインジの家族においては、アルヒプ・イヴァノヴィチの祖父が金細工師であった最良の時代についての追憶が残されていた。クインジとはトルコ語で金細工師、金・銀から製品を製造している名匠である。《順調安穏な》祖父についての追憶が長らくクインジの大家族において生きていた。クインジの姓がロシア語に翻訳されたのが、アルヒプ・イヴァノヴィチの実兄弟スピリドン・イヴァノヴィチ Спиридон Иванович / Spiridon Ivanovič に得られたゾロタレフ Золотарев / Zolotarev であることは、決して偶然ではない。
 美術専門の著者は、クリミア=タタール語がテュルク諸語の一つであることを知らず、このような記述を行ったものと推測されるが、それはさておき、ギリシア人の出身であるA.I.クインジが、クリミア=タタール語と同系統のキプチャク=テュルク系言語、ウルム語を母語としていたことが知られる。
 かつて、私が、クインジのことをクリミア=タタール系ではないかと憶測したのも、決して故なきことではなかったのであった。

 なお、「クインジ」という名を持つ人物は、モンゴル帝国史関係の書物の一部によると、チンギス・ハンの長男ジュチの長男オルダの孫にもいるとされる。しかし、この「クインジ」とは、実は、単なる綴りの誤りに由来するものに過ぎず、正しくは「コニチ」である。即ち、ジュチ・ウルスの左翼(東部)を構成したオルダ・ウルスの君主であり、マルコ・ポーロによっても言及され、モンゴル帝国全体の中でも重きをなし、過肥満のため気道が塞がり窒息死したという、かの有名なコニチである。
 実は、私がA.I.クインジに関心を抱くに至ったのは、要するに、その名前が、コニチの人名の誤りと同じであることによる。おかげで、A.I.クインジについて、関連する文章を読むに至り、その高潔な人格と、素晴らしい作品の数々を知ることができたのである。
 いずれにせよ、A.I.クインジの事蹟が再評価され、その素晴らしい作品に更に多くの方々が接することができるようになることを心より願う次第である。
(2010.11.22.稿; 11.23; 11.25.改訂)

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