刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王
 
赤坂恒明

渡邊大門 編『歴史が拓く未来』
市川、歴史と文化の研究所、二〇二一年一月、517

 
はじめに
 
 江戸時代における伏見宮(ふしみのみや)家の第十三代(正しくは第十二代)当主、貞致(さだゆき)親王(一六三二〜一六九四)は、知る人ぞ知る、皇族史上、稀に見る経歴を有している人物である。すなわち、彼は、伏見宮の落胤として生まれ、青年期には刀鍛冶の徒弟として市井に暮らしていた。何事もなければ、彼はそのまま刀や鐔を鍛え続けて、その生涯を終えていたであろう。ところが、伏見宮家のお家騒動の渦中に、思いもかけず浮上し、宮家が継承者を欠いた後に、紆余曲折の末、二十九歳にして、晴れて伏見宮を継承した。
 実は、江戸時代、皇族の落胤は決して珍しいことではなかった
(1)。彼ら落胤たちの中には、幼少期に召し出されてれっきとした皇族となった者も少なくない。しかし、貞致親王の場合、世に出たのが人生の半ば近くに至っての二十九歳と年長であり、かつ、宮家の当主となったという点で、極めて異色である。
 宮内庁書陵部が編纂した『伏見宮實録』五四『貞致親王實録』一(宮内公文書館所蔵。識別番号75254)には、貞致親王の事績に関わる史料が引用されており、そこから彼の生涯を把握することができる(2)のであるが、萬治三年六月二十七日条に、「尚親王ノ生立チニ就キテハ諸説アリテ明ラカナラザルモ、承應三年邦道親王薨去ノ後嗣無キヲ以テ、家督ヲ定メラレタリト云フ」とあるように、貞致親王が伏見宮を継承するに至るまでの経緯については未詳の点が多い(3)。そこで、本小稿では、主に、現在にいたるまで十分には知られていない貞致親王の前半生を、諸史料の記載から復元・推定することを試みる。

 
一 貞致親王の誕生
 
 『伏見宮系譜』
(4)によると、貞致親王は、寛永九年(一六三二)五月二十七日に伏見宮第十代貞清親王(一五九五〜一六五四)の長男、邦尚(くになり)親王(一六一三〜一六五三)の子として生まれたとされる。しかし、貞致親王の親王宣下に関する情報を伝える一次史料である、大外記(だいげき)として朝廷の実務にあたった壬生忠利の日記、『忠利宿禰記』の萬治三年七月十七日条には、
とあり、貞致親王は邦道親王(貞清親王の子で、邦尚親王の弟)の「御舍兄」と明記されており、したがって、貞清親王の子となる。また、少外記(しょうげき)として朝廷の実務にあたっていた平田職俊が貞致親王薨去二年後の元禄九年(一六九六)に編纂した親王家・公家系図、『諸家近代系図』の、編纂当初の原形を伝える前田本(5)においても、貞致親王は、貞清親王の子にして邦尚親王の弟(邦道親王の兄)として系線が引かれている(6)。したがって、同時代史料の記載に従えば、貞致親王は貞清親王の子である。なお、貞致親王を邦尚親王の子とする系図記載が存在する理由については後述する。
 さて、前述の『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日条によると、貞致親王は「下戚腹」であったという。「下戚腹」とは、身分の低い親族の女性からの所生であることを意味する。『伏見宮系譜』によると、貞致親王の母、法号「仙壽院」は「家女房(少納言局/安藤氏、名定子)」であり、同系譜に引用される『津田蔵書安藤家系』に、「貞致親王の母儀は、伏見殿諸大夫参河守安藤藤原定元の女、定子、少納言と号す。慶長八年生まれ、伏見邦尚親王に仕え、寛永九年五月二十七日、親王を丹州小口村に生む(7)」とある。しかし、「藤原定子」という実名が、貞致が生まれた時点におけるものであるとは考え難い。貞致親王が世に出た後に遡及して名付けられたものであろう。また、彼女が家女房(いえのにょうぼう)であったとされることについても疑問がある。近世の宮家における家女房は事実上の側室であり、一定の身分があった。これも同様に、遡及によるものと考えるべきであろう。
 この『伏見宮系譜』所引『津田蔵書安藤家系』によると、貞致親王は丹州小口村、すなわち、丹波国桑田郡千歳郷(ちとせごう)尾口村(おぐちむら)(現、京都府亀岡市千歳町千歳)で出生した。そこは、貞致の母の実家、安藤家の所在地である。従って、貞致親王は母の実家で生まれた、と考えられる。
 前述の『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日条に「丹波國  【アキママ】ト云所ヘ養子ト成給」とあるが、これは貞致が「十二三ノ時」より以前の幼少期のことである。ここから、貞致が、母の実家である丹波国尾口村の安藤家で出生した後、伏見宮家から認知されない落胤として処遇され、幼少期を丹波国で過ごしていたことが知られる。
 なお、貞致という実名は、萬治三年(一六六〇)七月十七日における彼の親王宣下に際して定められた。しかし、ここでは煩雑さを避けるために、それ以前についても貞致と呼称する。

 
二 貞致親王の母方、安藤家
 
 貞致の外戚である安藤家(氏は藤原氏)は、水戸黄門光圀に仕えた有職故実家、安藤素軒(そけん)(安藤内匠(たくみ)為実(ためざね))・年山(ねんざん)(安藤外記(げき)為章(ためあきら))兄弟ほかを輩出した、学者の家柄である
(8)。素軒・年山兄弟の父、安藤内匠頭定為(さだため)(安藤朴翁(ぼくおう))は、後述するように、貞致親王を世に出すのに尽力したと伝えられる人物である。
 この安藤家は、伏見宮の王子である「王」の血統とされる。安藤年山の随筆『年山紀聞』以下、安藤家所伝の諸文献によると、貞致親王の母は、伏見宮邦輔親王の子、邦茂王の曽孫女である。この邦茂王は「長松軒惟翁」と号し、母方の安藤家を頼り、丹波国桑田郡に隠遁し、安藤惟実と称したとされる。安藤家の系図においても、同様の情報が記載される。

邦茂王───安藤満五郎定実─┬安藤定吉─┬定子(少納言局。貞致親王の母)
長松軒惟翁 (稲津甚左衛門)│ (定元)└安藤定次──津田宗氏
安藤惟実          │
              └安藤定明──安藤定為─┬安藤為実(素軒)
                      (朴翁)└安藤為章(年山)

 しかし、安藤家の伝える系譜情報には、他史料による裏付けが必要である。そもそも、安藤家の祖とされる邦茂王は、実在した人物なのであろうか。
 江戸時代、朝廷において代々書き継がれた皇室系図、『詰所系図』には、邦輔親王の子に「邦茂(隠遁者)」が見える。よって、邦茂王は実在した可能性が高い。しかし、この「邦茂」が、「長松軒惟翁」と称し、丹波に下向して安藤惟実と改名したとは、『詰所系図』には記されていない。一方、同系図には、邦輔親王の祖父、邦高親王の子として、「僧惟翁(号長松院(軒イ))」が挙げられている。これは、安藤家の所伝において、邦茂王の別称とされているものと同一である。

貞常親王───邦高親王───┐
┌─────────────┘
├貞敦親王──邦輔親王─┬貞康親王──邦房親王──貞清親王─┬邦尚親王
│           │                 ├貞致親王──
│           │                 └邦道親王
│           └邦茂(隠遁者)
└惟翁(長松軒)

 要するに、安藤家の系図に現れる邦茂王/長松軒惟翁は、相対的に史料的価値が高い『詰所系図』に記載されてはいるが、一人の人物としてではなく、続柄が異なる別人とされているのである。邦茂王と長松軒惟翁は、いずれも架空の人物と考える必要はない。しかし、彼らのいずれかが丹波尾口の安藤家の祖であることを証明する史料的根拠は、現時点では、後世における安藤家の所伝より他に見出すことができない。
 ただし、貞致親王の生母を「下戚」とする『忠利宿禰記』の記載は、安藤家の所伝とも矛盾していない。安藤家所伝の系譜情報の根拠とするには心もとないとはいえ、少なくとも安藤家が伏見宮の男系血統に属することを傍証するものであることは確かであろう。

 
三 貞致の青少年期 ── 鍛冶屋の徒弟、長九郎
 
 貞清親王の落胤として出生した貞致親王は、『伏見宮系譜』所引『津田蔵書安藤家系』によると、幼名は「峯松君」で、「誕生以来、承應元年に貞清親王の御招きにより御帰洛の年に到る二十一年の間、定次【安藤定次。貞致の生母の弟】宅に於いて養育たてまつらるるものなり」とあり、また、『伏見宮系譜』所引『津田宗氏秘記』によると、「承應元年、貞致親王、御童形廿一歳にして丹州より御帰洛。これ貞清親王の御招きによりてなり。ここに到り定次【安藤定次】の宅に於いて養育したてまつること二十一年。この時、宗氏【定次の子、津田宗氏】供奉せり」とあり
(9)、承応元年(一六五二)までの二十一年間、母方の叔父、安藤定次の家で養育され、定次の子、津田宗氏と共に帰洛した、とされる。
 しかし、史料性の高い前述の『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日条によると、貞致は、十二・三歳の時、すなわち寛永二十年/正保元年(一六四三/四四)に、西陣(にしじん)埋忠(うめただ)、すなわち京都西陣の刀鍛冶、埋忠(明珍(みょうちん)か)の弟子となり、十八歳の時、すなわち慶安二年(一六四九)まで長九カと称した。『津田蔵書安藤家系』によると、貞致の生母の妹は埋忠「明珍」の妻であった。貞致は、その姻戚関係によって丹波から上洛し、寛永二十年/正保元年から慶安二年までの期間、刀鍛冶の徒弟、長九郎として京都の西陣で青少年期を過ごすこととなったのである。前述の『忠利宿禰記』によると、彼は「鍛冶も殊のほか器用」であったとの由である。
 慶安二年(一六四九)、貞致は刀鍛冶の徒弟を辞めた。彼は、その後、生母の実家、丹波の安藤定次家へ戻ったのであろう。つまり、『津田蔵書安藤家系』と『津田宗氏秘記』は、貞致が刀工の徒弟であった経歴を隠蔽したということとなる。後に親王家の当主となった、自家で預かった御落胤を、親族のもとにとはいえ徒弟に出したという事実は、やはり公にするには不都合であったに違いない。

 
四 伏見宮家の家督争いの渦中に浮上した貞致
 
 貞致が慶安二年(一六四九)に西陣埋忠のもとを離れて丹波に戻ったのは、伏見宮家の継承問題と関係がある、と推測される。
 貞致の父、貞清親王(一五九五〜一六五四)の継嗣、邦尚親王(一六一三〜一六五三)は、宇喜多中納言秀家の娘「おなぐの方」(前田利家の外孫女で、関白秀吉の養女となった)からの所生であるが、病弱で、元服もできず、子もなかった。そのため、貞清親王が家女房(出自以下すべて未詳)に産ませた末男(邦尚親王の異母弟)を、邦尚親王に代わる伏見宮継嗣にしようとする動きが現われ、宮家に内紛が生じたようである
(10)。結局、末男が新たな継嗣と定まり、慶安二年(一六四九)十一月十六日、親王となった。すなわち、邦道親王(一六四一〜一六五四)である。そもそも、伏見宮家では、第四代貞常親王以来、明治期の貞愛(さだなる)親王に至るまで、歴代当主の実名の第一字は「貞」と「邦」を交互に用いる。したがって、邦道親王は、兄 邦尚親王の継承者ではなく、父 貞清親王の継承者と位置付けられたこととなる。よって、ここに邦尚親王は継嗣を廃されたと考えられる。貞致(長九郎)が鍛冶屋の徒弟を辞めたのは、まさにその年のことであった。
 伏見宮家における内紛の渦中で邦尚親王派が切り札として担ぎ出したのが、落胤である異母弟、貞致であったと考えられる。邦尚親王派は貞致を、子なき邦尚親王の継承者と擬することによって、邦道親王派の抬頭を抑えようとしたのであろう。既述のように『伏見宮系譜』等において貞致親王が異母兄である邦尚親王の子とされていることには、そのような背景があると考えられる。貞致は、かかる伏見宮家の家督争いの状況下に、刀工となる道を離れて、生母の実家、丹波の安藤定次家に戻ったのであろう。
 ところで、『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」に、
とあり、貞致母子は慶安四年(一六五一)に伏見宮家を離れ、生母の従兄弟、安藤定為の家に移ったとされる。しかし、貞致と生母が慶安四年まで伏見宮家で暮らしていたとは認め難い(11)。あり得るのは、慶安四年に貞致母子が、同じく丹波小口村内の安藤定次家から安藤定為家へ移転した、ということである。『安藤家由緒書』「定實ノ傳」によると、定次の父 定吉(定元)は病身であり、家督は定吉の弟で定為の父である定明が継いだとされる。定明の子で安藤一門の本家である定為が、分家出身の従姉と、彼女から生まれた御落胤を預かった、と理解すべきものであろう。
 なお、『安藤略系』「長松軒惟翁の傳」等によると、貞致の生母は、定為の父 定明の養女とされる(12)。彼女が定明の養女となった時期は明らかでないが、少なくとも、この慶安四年に至るまで、彼女が安藤定為家と関係を持っていた事実は確認されていない。あるいは彼女は、慶安四年に定為の養姉として故定明の養女となったのかも知れない。しかし、彼女が定明の生前に養女となっていたとしても、定明は寛永十四年(一六三七)に死去し、跡を継いだ定為は十一歳と年少であった。当時の安藤定為家には貞致母子の面倒を見るだけの余裕はなかったであろう。ただし、慶安四年(一六五一)、すでに定為は二十五歳と少壮の年齢に達していた。以来、定為は、義理の外甥にあたる五歳年少の貞致を献身的に支えていくこととなる。

 
五 貞致の逼塞
 
 丹波に戻った貞致は、承応元年(一六五二)、二十一歳の時、邦尚親王派の働きかけによってであろう、父 貞清親王の招きによって帰洛した
(13)。これは、邦道親王にしてみれば、自らの地位を脅かす可能性がある異母兄が出現したことになる。
 『伏見宮系譜』所引『津田宗氏秘記』によると、「伏見殿諸大夫生島右京亮盛勝、内本左京亮吉泰等、與邦道親王ノ母儀相謀ツテ讒貞致親王於貞清親王」とあり、邦道親王派の伏見宮家諸大夫、生島(いくしま)盛勝と内本吉泰が、邦道親王の生母(家女房)と共謀して、貞致を貞清親王に讒言した、という。
 折あしく、翌承応二年(一六五三)十一月二十九日、邦尚親王が四十一歳で死去した(14)。ここに、貞致は伏見宮家における後ろ盾を失い、貞致を支持する邦尚親王派は一敗地にまみれた、と考えられる。邦道親王派は貞致の排斥に成功し、貞致は逼塞を余儀なくされた(15)
 伏見宮家から追われた貞致を迎え入れたのは、かつて貞致を徒弟として鍛えた刀工、母方の義叔父である埋忠「明珍」であったようである。『伏見宮系譜』所引『津田蔵書安藤家系』に、「貞致親王依讒言、自承應二年于萬治三年御沈淪七年之間、母儀ノ妹ナル者依為明珍妻、於于明珍宅奉養育云々。明珍者理【ママ】忠氏也」とあり、これによると埋忠「明珍」は、承応二年(一六五三)から萬治三年(一六六〇)に至るまでの七年間、貞致を預かり、保護していたのであった。

 
六 伏見宮家における血統断絶の危機
 
 貞致が伏見宮家から追われた後、おそらく半年ほどで、伏見宮家に大異変が生じた。すなわち、承応三年(一六五四)七月四日、貞清親王が薨逝し、伏見宮家の跡目を邦道親王が継承した。ところが邦道親王は、三週間足らず、わずか十七日後の同月二十一日、十四歳の若さで嗣子なくして薨逝した(発喪)。
 ここに、伏見宮家には、当主も継嗣も、いなくなった。結局、伏見宮家は貞致が継承することとなるのであるが、これについて、『安藤略系』「長松軒惟翁の伝」に、
とある
(16)ものの、現実には、貞致親王の伏見宮継承は順調なものではなかった。貞致が伏見宮家を継承したのは萬治三年(一六六〇)であり、邦道親王薨逝後、六年間、伏見宮家の当主は不在であった。この事実からも、貞致の継承に至るまでに紆余曲折があったことは明白であろう。
 そのあたりの事情を記録する一次史料を、現時点では筆者は把握していない。しかし、貞致の外戚にあたる安藤家の所伝には、いくつかの事実誤認が含まれているものの、貞致の逼塞期に関する情報が伝えられている。
 まず、『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」に、
とあり、邦道親王薨去後、伏見宮家には後水尾法皇の皇子を継嗣として迎え、逼塞中の貞致を出家させることが、後水尾法皇の内意によって定められた、という。これが事実であるとすれば、おそらくこれは、貞致の伏見宮家継承を阻止すべく、旧邦道親王派の諸大夫たちが計らった結果であろう。

 
七 貞致親王の伏見宮家継承
 
 しかし、この措置は、貞常親王以来の伏見宮家の血統を断絶させる、ということに他ならない。当然、これを道理に合わないと考える関係者は少なくなかった。かくて、貞致の外戚である安藤定為、伏見宮との所縁が深い公家の庭田(にわた)雅純(まさずみ)、伏見宮家諸大夫の三木主膳善頼(のちの慈光寺(じこうじ)冬仲(ふゆなか)。定為の学友)が動いた。『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」には、上文に続けて、
とあり、また、『伏見宮系譜』所引『津田宗氏秘記』に、
とある。これらの記載によると、安藤定為、庭田雅純、三木善頼(慈光寺冬仲)の三人は相談して、武家伝奏(幕府との連絡役)の公家、清閑寺(せいかんじ)共房(ともふさ)、野宮(ののみや)定逸(さだやす)、および、京都所司代の板倉周防守重宗に、貞致が「伏見殿の御総領」であることは紛れもない事実であると訴え出て、江戸幕府の執り成しによって後水尾法皇の内意を翻させようと試みたこととなる。
 『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」には、上文に続き、「ソノ程ノ労役、或ハ防州ノ舘(二條)、又ハ江戸下向ナド、定爲獨リ當リ玉フ」とあり、安藤定為が専ら各方面への折衝にあたり、江戸にまで下向して奔走したとされる。
 幕府による吟味の末、幕命により、貞致は伏見宮の継承者に定められた
(17)。かくて、萬治三年(一六六〇)、名所司代として名高い板倉重宗は、貞致の逼塞所、おそらく西陣埋忠のもとを自ら訪れ、貞致を迎えて渡御させたのであった(18)。これについて、『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」は、
と、安藤定為の功績を讃えている。
 なお、同じ安藤家一門でも、貞致の生母の弟、安藤定之の系統である津田家の史料、『津田宗氏秘記』には、安藤定為の勲功は一言半句も述べられていない。逆に、『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」には、安藤定之、津田宗氏父子の功績がまったく記載されていない。ただし、この問題については、ここでは触れないでおく。
 それはさておき、同年萬治三年六月二十七日、貞致は後水尾法皇の猶子となり、翌七月十七日、親王となった。貞致という実名は、この時に定められた。こうして、伏見宮家の継承問題は、ここにようやく解決したのであった。
 なお、貞致親王は、実系では貞清親王の子(落胤)であり、伏見宮家の歴代としては邦道親王の跡を継承したのであるが、系図上、公式には邦尚親王の子として系線をつなげられている。これは、先述のように、貞致が邦尚親王の継承者に擬せられたこととも関係があるのであろう。

 
八 宮廷社会には「異風」の貞致親王
 
 貞致親王は、親王宣下から十日後の萬治三年(一六六〇)七月二十七日、二十九歳にして元服し、弾正尹に任じられた。その後、寛文七年(一六六七)二月十八日、式部卿に任じられ、二品に叙された。
 貞致親王は、親王にふさわしい教養を深めることに努めた。『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」に、「[定為]三十二歳ニシテ従五位下右京亮ニ進メラル。同シ歳貞致親王ニ諫メ奉リテ琵琶ヲ西園寺右府實晴公、琴ヲ今出川右府公規公ノ御弟子トナシマイラセ、ヤガテ定為モ其御門弟ヲユリテ樂道稽古アリ、マタ和歌ハ烏丸亜相資慶卿ノ御弟子トナリ、儒學ハ北村恭菴、小出三省、加藤半左衛門ナド、手跡ハ鳥山巽甫ヲ竹園ニ招キテ各其道ヲ親王ヘスゝメマイラセ自モ學ビ給フ」とあり、親王の研鑽の様子を窺い知ることができる
(19)
 安藤年山によると、貞致親王は「御むまれつきさとくあきらかにして、学問をこのませたまひしかば、搢紳のともがらをはじめ、都のうちにほまれある儒生をめして、講釈議論おこたらず。四庫のふみをさ々々のこるまじうものせさせたまふ」との由である(20)
 親王は、詠歌の会(21)を催したこともあり、詠歌も残されており、宮廷人として、ひとしなみの素養は備えていたことが知られるものの、宮廷社会に十分には馴染むことが出来なかったようである。貞致親王の正室の弟にあたる近衛基煕によると、貞致親王は、いささか「異風人間」であり、晩年には全く宮中に赴くことがなかった。基熙は貞致親王の義弟であったため、「心底、年来、疎略に思ってはいなかったが、面謁には聊か憚り思う故があり、数年を経てしまい」、結局、晩年の数年間、会うことがないまま親王は薨逝したという(22)
 碩儒、藤原惺窩の子で下冷泉家を再興した冷泉為景(もと細野為景)は、「泰平の世に酒食にふける公家社会を激しく憎んでいた(23)」が、貞致親王を世に出すために尽力した安藤定為と慈光寺冬仲(もと三木善頼)は、共に為景から儒学を学んでおり(24)、その薫陶を大いに受けていたことに疑いの余地はない。為景は慶安五年(一六五二)三月十五日に自害しているが、慶安四年(一六五一)に安藤定為の家に移った貞致が、定為を通じて、冷泉為景の精神を受け継いでいた可能性は十分にありうる。ましてや貞致は、市井にありて青少年期を過ごしたという、公家社会の人としては極めて特異な経歴を有している。貞致が公家社会において「異風人間」と評されたのは、そのためであったのであろうか。

 
おわりに
 
 以上、本小稿では、刀鍛冶の徒弟であったという過去を持つ親王、伏見宮貞致親王の前半生を明らかにすることを試みた。しかし、世に出る以前の貞致に関する一次史料は、現時点においては、ほとんどまったく知られていない。今後、関連する史料が現われることを期待したい。
 ・・・・・【中略】・・・・・
 敗戦後に皇籍を離れた旧皇族と、戦前に臣籍降下した元皇族は、すべて、この貞致親王の男系子孫である。後花園天皇の弟、貞常親王以来の伏見宮の男系血統は、貞致親王の時に断絶の危機を迎えたが、彼が民間から立身したことにより、その血統は後代に受け継がれていくこととなったのである。

 

 (1) 松田敬之『次男坊たちの江戸時代 公家社会の〈厄介者〉』(歴史文化ライブラリー246。吉川弘文館、二〇〇八年一月)
 (2) 『伏見宮實録』五四『貞致親王實録』一から容易に知り得る貞致親王の経歴については、特に注記しない。
 (3) 貞致親王の伏見宮家継承に至るまでの経緯を取り上げた学術論文は、管見の限り存在しないようである。なお、浅見雅男『伏見宮 もうひとつの天皇家』(講談社、二〇一二年十月)には、伏見宮家の歴史が概説的に述べられているが、貞致親王の数奇な生涯については言及されていない。
 (4) 『改訂伏見宮系譜 全』宮内公文書館所蔵。識別番号32748。
 (5) 前田育徳会尊経閣文庫所蔵。外題『近代諸家系図』。登録番号「一九八/一三一/金」「系譜/五百十九/ル十/三百三十八」。本『諸家近代系図』とその諸写本については別稿において紹介する。
 (6) 『系圖纂要』は、貞致親王を、貞清親王の子と邦道親王の子との双方に掛ける。そして、邦道親王の子に掛けた方には「實邦尚親王弟」と注す。
 (7) 引用部分、読み下し。
 (8) この一門に関する包括的な先行研究としては、渡辺金造(刀水)「安藤素軒と年山」(渡辺金造『渡辺刀水集』二(日本書誌学大系四七(二)。武蔵村山、青裳堂書店、一九八六年十月)所収)、亀岡市文化資料館で平成十三年(二〇〇一)十一月十日から十二月九日に開催された企画展の図録『第三二回企画展 〜国学者〜 安藤一族とその業績』亀岡市文化資料館、二〇〇一年十一月)、小川常人「水戸義公と京都の安藤一族」(『水戸史学』第五十七号、水戸史学会、二〇〇二年十一月)、原島修「安藤氏研究の現状と諸課題」(同上)等を参照せよ。
 (9) いずれも引用部分、読み下し。
 (10) 『伏見宮實録』五四『貞致親王實録』一 所引『安藤家由緒書』「定爲ノ傳」ほか。下注一一を参照せよ。
 (11) なお、邦尚親王の母「おなぐの方」は元和二年(一六一六)六月二十四日に死去しているので、「御長男邦尚親王ノ母儀寵ヲネタミ」という事実は有り得ない。これは、邦尚親王派と邦道親王派との間の対立を不正確に記述したものと理解すべきであろう。
 (12) 『伏見宮實録』五四『貞致親王實録』一 所引『安藤略系』「長松軒惟翁の傳」に、「貞致王御母少納言の局(定明の養女。定為の姉なり。但し實ハ定吉のむすめにて侍り)」とある。ただし、そこでは貞致は邦尚親王の子とされる。
 (13) 『伏見宮系譜』所引『津田蔵書安藤家系』・『津田宗氏秘記』。
 (14) 『伏見宮系譜』等では伏見宮の「第十一世」とされている。しかし、病弱のため元服もできず、父 貞清親王に先立って薨逝した邦尚親王は、伏見宮家督を継承していない。
 (15) 『伏見宮系譜』所引『津田宗氏秘記』。
 (16) 『伏見宮實録』五四『貞致親王實録』一 所引。
 (17) 『忠利宿禰記』萬治三年七月十七日条。
 (18) 『伏見宮系譜』『津田宗氏秘記』による。そこには、「萬治三年依于武命板倉周防守参入貞致親王逼塞ノ御所、而奉渡御」とある。
 (19) なお、安藤定為が三十二歳の年は萬治二年(一六五八)で、貞致親王が伏見宮家の家督相続を認められた前年にあたる。これが史実であれば、貞致は、逼塞の末期には、公家社会にも十分に認知されていたこととなるが、この年代については検討が必要であろう。
 (20) 安藤年山『千年山集』巻六。杉崎仁「安藤兄弟(素軒・年山)と父朴翁」(『水戸史学』第七号、水戸市史学会、一九七七年九月)八五頁。
 (21) 寛文二年(一六六二)四月二十五日に夢想和歌会を催しており、八條宮智忠親王、千種有維(フサ)、穏仁親王、七條隆豊以下、二十六名が詠歌を寄せている。
 (22) 『基熈公記』元祿七年五月十八日乙卯条。
 (23) 熊倉功夫『後水尾天皇』(岩波書店、一九九四年一月。初刊、熊倉功夫『後水尾院』朝日新聞社、一九八二年十月)一八〇頁。
 (24) 杉崎仁「安藤兄弟(素軒・年山)と父朴翁」八四頁。




「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」 正誤表
箇所
7頁下段4二週間三週間
11頁下段4安藤家所の安藤家の
14頁下段2冷泉爲景冷泉為景
15頁下段 後ろから2先代にの時に



【参考】 小稿「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」所載の
渡邊大門編『歴史が拓く未来』が刊行されました。

 
歴史が拓く未来

渡邊大門編『歴史が拓く未来』(市川、歴史と文化の研究所、二〇二一年一月)
・はじめに
・赤坂恒明「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」
・石田文一「能登の真宗寺院の由緒」
・岩田康志「戦国大名後北条家と鯨贈答関連文書記載の「公儀」称号」
・加藤僚「近世関所の本質について ─『長崎御番方日記』の解釈をめぐって ─」
・亀谷弘明「対馬の歴史と旅」
・小谷徳洋「河内国錦部郡の中世 ─ 三善氏と楠木氏を中心に ─」
・小柳次郎「小比企村(武蔵国多摩郡)の「新編武蔵風土記稿」における未比定小名「江田原」について」
・柴田まさみ「千年紀の風景 ─『更級日記』記主・孝標女の見た上総・下総国 ─」
・柴田まさみ「新元号「令和」の語義を探る ─『萬葉集』「梅花の宴」詠歌を手掛かりにして ─」
・柴辻俊六「戦国期武田氏領での「手形」の用例と機能」
・新藤透「北方史研究と一次史料」
https://historyandculture.jimdofree.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%AE%E8%B2%A9%E5%A3%B2/

 小稿は、小著『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流 』で割愛した文章を増補修訂したものです。
     はじめに
     一 貞致親王の誕生
     二 貞致親王の母方、安藤家
     三 貞致の青少年期 ── 鍛冶屋の徒弟、長九郎
     四 伏見宮家の家督争いの渦中に浮上した貞致
     五 貞致の逼塞
     六 伏見宮家における血統断絶の危機
     七 貞致親王の伏見宮家継承
     八 宮廷社会には「異風」の貞致親王
     おわりに
     注
 貞致親王の前半生は紆余曲折に富み、時代劇の主人公にしたくなるほどです。関心をお持ちの方々に御一読いただければ幸いです。
 なお、「おわりに」にて言及いたしました『基量卿記』が伝える霊元天皇の対伏見宮認識に関する記載は、管見の限り、世に初めて紹介されたのではないかと思われます。しかし、先行研究において既に取り上げられているかも知れません。ご存知でしたら、是非とも御教示くださりますよう、お願い申し上げます。
2021.2.1



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