或る日本人モンゴル帝国史研究者から、
或る中国人(漢族)若手同業者への便り
(2020年9月9日 日本語による電子メールからの抄録)
・・・・・(前略)・・・・・
歴史研究というものは、専門分野以外にも、広い視野を持つことが必要である、と私は考えております。特に、古代から現在まで、歴史というものは、すべて繋がっております。異なる時代・地域に、それぞれ、類似した事象が存在しておりますので、調べれば調べるほど、歴史は面白いですね!
さて、私は、現在も、日本の××大学教育学部で歴史の授業を少し担当しております。教育学部は、師範大学のような学部ですので、私は、三十〜四十年後の日本国の教育界の将来を考えて、講義をしています。
そのため、20世紀前半の近代日本が東アジア諸地域でおこなった、歴史上の"失敗"については、必ず教えております。今年の授業で配布した教材の一つを添付します(0918-5798_12-5.pdf(1))。その最後の文は、次のとおりです。
日本の朝鮮支配により、物質的、経済的に大変な被害を及ぼしましたが、それ以上に、朝鮮人の人間性そのものを破壊したということに一番大きな問題があります。そして、支配民族である私たちが受けた一番大きな傷は、支配して人を傷つけたことにも気づかないというところではないでしょうか。人の痛みがわからない、支配して自分が足を踏み付けた人の痛みをわかろうとしない。そういうところに、私たちが朝鮮を支配した一番大きな傷があるのではないかと思っております。
これは、日本人が歴史上の"失敗"から学んだ教訓です。
・・・・・(中略)・・・・・
1984年10月25日、『朝日新聞』に、南樺太の先住民に関するインタビュー記事が載りました(添付文書 asahi-sb19821025y.jpg(2))。これを読んだ、当時、中学生であった私、赤坂恒明少年(笑)は、衝撃を受けまして、自身の価値観形成に大きな影響がありました。
それ以来、「多数と少数とが平等に認め合い尊敬し合って生きていかねばならない」、「弱い、少数を尊重しないで、自由も平和もありません。一つの少数が抑圧されてしまったら、次は、新たな少数が抑圧されるだけですものね」という言葉は、私の人生を貫く、一本の柱となっております。
ちなみに、この新聞記事も、××大学教育学部の授業で、教材として使用しました。
私は、自分の価値観を、他人に強制する意図はありません。しかし、学校の先生となる若い人たちに、このような歴史事実や考え方がある、ということだけは知っていただきたい、と考えております。
この返信では、日本の話ばかりをいたしましたが、前述のように、歴史には、異なる時代・地域に類似した事象が存在しております。
そのような歴史上の"失敗"を、私たちは積極的に学び、自分自身の歴史上の位置づけをも相対化できるようになりたい(3)、と私は個人的に願っております。
(1) 宮田節子「日本の朝鮮支配の本質」『Seigakuin University General Research Institute Newsletter』Vol.12-5, 2002. 聖学院大学総合研究所, 2003.3, pp.4-20. 本資料は、2002年11月6日に聖学院大学本部新館で行われた、朝鮮近代史研究の開拓者・第一人者である宮田節子先生による講演の記録である。
(2) 『朝日新聞』1984年10月25日夕刊「少数民族のこころ知って わたしの言い分 北方少数民族資料館「ジャッカ・ドフニ館長 ダーヒンニエニ・ゲンダーヌさん(58)」(聞き手 籔下彰治朗記者)。当時、筆者には、新聞を"史料"として扱うという認識がなかったため、版や面を記載していなかった、そのため、当該記事の版と面は未詳である。記事の末尾に曰く。
わたしが変わったのは、北海道で民衆史掘り起こし運動をしている人たちと知り合ってからです。いろいろ話し合っているうちに、日本人になろうとするより、ウイルタ族である日本国民として生きるのが正しい、と自覚しました。そして、ウイルタの文化と人権を守る努力をしよう、と。その趣旨に立つ人たちの団体「ウイルタ協会」の手で、ウイルタやニクブンなど北方少数民族の文化資料を展示するジャッカ・ドフニ(たいせつな物をおさめる家)は生まれました。四年前のことです。
わたしか、せいぜい次の世代かで、日本のウイルタもニクブンも消え去るでしょう。しかし、それが存在したこと、多数と少数とが平等に認め合い尊敬し合って生きていかねばならないと訴えていたことを、ジャッカ・ドフニは語り続けてくれると思います。弱い、少数を尊重しないで、自由も平和もありません。一つの少数が抑圧されてしまったら、次は、新たな少数が抑圧されるだけですものね。
資料館としてのジャッカ・ドフニは過去帳入りしたとしても、その精神は日本国内で確実に受け継がれている。
(3) ちょうど百二十年前の庚子、光緒二十六年五月二十五日の上諭における「苟且圖存、貽羞萬古」(SB先生ご紹介の史料)とは、まさしくこの私のことであろう。
(2020.09.28記)
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