大宝城跡・関城跡巡検
(2023年11月1日)
2023年11月1日水曜日、下妻方面へ、半月たらずの間をおいただけで、またも自転車で出かけました(9時00分出発、17時00分ちょうどに帰宅)。
先日、2023年10月17日に訪問を断念した、大宝城址(大宝八幡宮)が目的地です。時間に余裕がありましたので、更に足をのばして関城址にも行きました。どちらも北畠親房に所縁があるということで、一度は訪問したいと願っておりましたためです。
自宅を9時00分に出発し、芽吹大橋を渡り(9時25分頃)、例の如く利根川の土手道を北上して(旧)小山の渡し付近を経て、平将門像のある坂東市総合文化ホールで最初の休息を取りました(9時50分過)。館内で「第59回坂東市菊花展」が10時00分から始まるとのことですが、目的地が遠いですので、それを待たずに文化ホールをあとにしました。
岩井市街地を抜けて、県道結城坂東線(20号線)を北上し、国王神社を参拝(10時05分)、沓掛では旧道を進み、香取神社の西隣を通り(10時20分)、沓掛の町中に入りましたが、ついうっかり誤って県道猿島水海道線を左折してしまい、四角形の三辺を通るような形で旧道に戻り、引き続き県道結城坂東線(20号線)を北上、例の如く「上高橋」で飯沼川を渡り、東仁連川の「紅葉橋」から先は、県道に並行する田舎道を北上、皆葉峰房線(217号線)を東進して皆葉の交差点を左折して高崎坂東線(136号線)を北上、別府の丁字路を右折して鬼怒川を「大形橋」で渡ります(10時50分)。
「大形橋」から先は鬼怒川の堤防を北上し、右手斜めに分岐する道に下って直進すると下妻市二本紀松岡の聚落に入り、突き当たりの丁字路を右折しますと、左手には長屋門を構えた立派な家が何軒かあり、その先、左手にある松岡宗任神社に到着しました(10時50分)。
境内には落果した銀杏が手つかずのまま大量に落ちておりました。神社本殿は鞘堂に覆われており、その背後には真新しい薬師堂があります。
そのまま北に進めば下妻市街に到るのですが、道を誤って「左岸幹線用水路」沿いの道を西に進んでしまい、やや遠回りしてしまいましたが、下妻街道に到り、下妻街道を北上して11時20分前、無事に下妻市内に入りました。
下妻の中心街
下妻街道の突き当りを右折し、関東鉄道の下妻駅の前を回り、下妻市役所に11時30分頃到着しました。
市役所内では10分あまり休息します。新庁舎最上階に上りますと、西側はガラス窓越しに多賀谷城跡公園を望むことができます。
東側は屋外テラスの展望台となっており、筑波山を展望できます。よい景色です。
下妻市役所すぐそばの、前回訪れた多賀谷城跡公園にも立ち寄ります(11時45分過)。
そこから北へ、大宝を目指します。
大宝八幡宮南方に位置する交差点の手前に、左折「大宝八幡宮/大宝城跡/0.3km」という案内板が見えてきました。目的地はすぐそばです。
しかし、交差点の先、右手に神社の赤い屋根が見え、ちょっと心惹かれましたので立ち寄ってみました。大串の富士神社(十二天さま)とのことです。
もとの交差点に戻り、大宝八幡宮へ向かって北上しますと、いかにも昭和時代然とした「金中屋酒店」の先に、大宝八幡宮の三ノ鳥居があります。
参道の林を抜け、二ノ鳥居をくぐり(一ノ鳥居との間に、関鉄の大宝駅からの道との交差点と、駐車場があります)、自転車から下りて一ノ鳥居をくぐり、本殿へ向かいます。
12時05分、大宝八幡宮の本殿を拝み、社殿の裏手へまわり、「贈正四位下妻政泰公碑」(撰文は、戦前の右派の史学者として高名な平泉澄)と、「贈正四位下妻政泰忠死之地」石柱、その裏手にある五輪塔を参観しました。
大正天皇御即位記念樹「大王松」の下を通り、末社を拝み、そして、駐輪していた自転車を押して東へ向かいます。
神社の境内の東隣に大宝保育園がありますが、その東端に旧国鉄の有蓋貨車(台車なし)が置かれているのに気づきました。すなわち、「だいほうほいくえん こどもとしょかん」です。
この有蓋車の番号は「ワラ1316」ですが、ネットで検索をかけても当たりませんでした。
なお、大宝保育園のサイトには、この有蓋車の姿も映っております。
https://www.daihou.ed.jp/about/
園について 大宝保育園|茨城県下妻市
大宝保育園の東から道を南に進みますと、一ノ鳥居の前と東ノ鳥居とを東西に結ぶ道に出ます。その角の「手塚屋ストア」の真向かい、ほぼ南側に、「ときわ町 道徳推進委員会」による「あいさつは元気よく」という看板があります。
こういうの、好きです。
西に進み、12時50分少し前に、関東鉄道の大宝駅に立ち寄りました。
水海道方面のホーム上で二人が列車待ちしているのが見えます。駅の小さな待合室(私以外、誰もいません)で休息しておりますと、水海道方面の列車が入選してきました。12時54分発の取手行きです。ホーム上の二人が乗車しましたが、車内には三人しか乗客がいなかったように見えました。
ちなみに、大宝駅の入場券は、前回の下妻訪問の際に、下妻駅で購入いたしております。
大宝駅は無人駅となって久しく、切符を買うことはできませんが、私の手元には、昭和54年3月17日 大宝駅発行の国鉄連絡乗車券があります。
これは自分自身で使用したものではありません。国鉄柏駅の有人改札口(ラッチ latch)に置かれていた使用済み切符を貯める箱から拾い上げたものです。国鉄時代は、そのあたりがたいへんにおおらかでした。訓点学研究で高名な国語・漢文学者、築島裕(1925〜2011)は、伝説的な切符収集家ですが(鉄道乗車券に関する著書もあります)、国鉄御茶ノ水駅のラッチの中に首を突っ込んで使用済み切符を掻き集めていた姿が目撃されていたということです。
ここで余談です。築島裕は、倉一棟を建てて、膨大な切符コレクション(漢学者 長澤規矩也から受け継いだものをも含むとの由)を収容・保管していたと仄聞しておりますが、没後、その旧蔵書が神保町の古本屋にて大量に売りに出され、私もいろいろと購入いたしました。その時に、貴重な切符コレクションも、蔵書同様に散逸してしまったのであろうか、と他人ごとながら大いに心配しておりました。しかし、幸いにして、文化財的な価値の高い切符コレクションは、芝浦工業大学附属中学高等学校(前身は東京鐵道中學)内の「しばうら鉄道工学ギャラリー」(設置・運営:学校法人芝浦工業大学)に寄贈され、無事に保全されました。まことに欣快、大慶至極でございます。
https://shibaura-rtg.com/collection/
コレクション | しばうら鉄道工学ギャラリー
話をもとに戻します。
大宝駅から先は、しばらく線路に並行する、大宝神社の台地の崖下の道をしばらく北上、台地が切れたところ(大宝城神社境内の北西)を左折し、県道山王下妻線(233号線)新道の高架橋の下を越えて、関鉄の踏切を渡り、右手のやや急な坂道を登って洪積台地の上に出ます。
そこから北上しますと、道は舗装されていない細い土道になりますが、そのまま道なりに進みますと、舗装道路に出ます。突き当りの丁字路を左折し、また道なりにゆるゆると進みますと、道は北から西へと向かい、畜産臭が強く漂うようになったところで、道はゆるやかに台地からくだり、突き当りの丁字路を右折、「神明堆肥生産組合」のプラントに挟まれた道を、畜産臭を全身に浴びつつ北上、右手が洪積台地の斜面の道を進みますと、やがて、両側が田圃の、視界が開かれた場所に出ました(13時15分)。
前方(北方)の、真正面に見える洪積台地が関城跡です。その台地の上は筑西市(旧関城町)です。
関城の台地の登り口に、「関城通り」の案内標識があります。
その先は林に囲まれた上り坂で、坂を登った右手、関城跡の石碑や関宗祐父子供養塔がある一角に、13時20分、意外にアッサリと到着しました。
その一角には、正面に、南朝方で関城に籠城して討死した関宗祐・宗政父子の墓と伝えられる宝篋印塔が、銀色に塗られた場違いな感じがする門扉の付いた石壇の上に位置しています。石壇の手前には石灯籠二基と、「贈正四位關宗祐之墓」と刻まれた石標が立てられております。
その左手(北隣)には、北朝方に加わり攻城して戦傷死した同族の結城直朝の墓とされる崩れた五輪塔があり(諸行無常です)、その五輪塔の傍らには、表面に「此五輪塔結城直朝墓也」と、裏面に「明治十七年九月/伯爵松平基則建之」と刻まれた石標があります。
↑ 五輪塔 ↓
その一角の南側(正面右手)には、「関城之碑」(慶應三年)があります。
関係サイト:
関城跡 | 筑西市公式ホームページ
https://www.city.chikusei.lg.jp/page/page000268.html
関城跡 ― 茨城県教育委員会
https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-95/
関城跡 - 全国遺跡報告総覧
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/10521
ここから、『茨城県真壁郡関城町埋蔵文化財調査報告 国指定史跡 関城跡』(関城町教育委員会、二〇〇一年三月)をダウンロードできます。
この関城跡の中心的な一角にて、銘文を読んだりして過ごしました。
そこからさらに道を北に進みますと、いくらも行かないうちに、荒木貞夫題額の石碑「箱守賢少尉誠忠碑」が路傍左手に立っております。
碑銘によりますと、箱守賢少尉は津田沼の鉄道連帯の工兵曹長として満洲事変に出兵、「北満」の黒河で鉄道架橋に従事し、罹病して昭和九年十二月一日に戦病死したとの由です。
この石碑の右側には、もう一基の石碑があったはずですが、何らかの理由で撤去されたものとおぼしく、台座のみが空しく残されています。また、囲いの石が一部、倒れており、いかにも荒廃した様子です。
さらに先へと北に進みますと、左手に白い案内表示柱と案内板があります。
案内板には、「この先は個人の所有地です。/史跡見学者の車輛は一〇〇メートル北側にある指定の駐車場をご利用ください。」と記されておりますが、傍らの白い案内表示柱の文字は完全に消えており、この先に何があるのかわかりません。ちょうど、右手の民家に住民のかたがいらっしゃっいましたので尋ねてみますと、先の石段を登った先に「お宮」があるとのこと。そこには石段のある高い土塁があり、石段を登り、城址の土塁の上に鎮座する「お宮」(お祠)を14時00分前後に参拝しました。
お祠の先にも土塁の遺構が良好な状態で残されておりますが、深入りせずに引き返します。
なお、帰宅後に調べましたところ、このお祠の石段の手前を左手に下りますと、「関城船着場跡」があるのだそうですが、現地に何も表示がないところを見ますと、今では公開を止めてしまったということなのでしょう。しかし、あるいは北畠親房は、そこから密かに関城を脱出したのかも知れません。次の機会を設けて再訪する必要がありそうです。
また、その北東方向には、高師冬が城攻めのために掘った坑道跡とされる横穴があります。
写真を撮り始めましたところ、藪から棒、私よりも年配の男性が近づいてきましたので、地元の人か思いましたが、見れば身なりが地元住民っぽく見えませんので、挨拶し、他所から来られましたかと尋ねましたところ、東京からとの由。何となく研究者のような雰囲気がありましたので話を伺ってみたかったのですが、すでに14時10分前後で、もはやゆっくりと滞在するわけにもいかず、早々にその場より立ち去りました。
帰途は、追い立てられるかのように自転車を走らせました。自転車に電灯がないので日没前に帰宅する必要があるためです。
さらに遠くへ行くようですが少し北上して左折、「グリーンライン」という新道(一部区間は県道山王・下妻線/233号線に重なります)に入り、ずっと西進し、14時28分、鬼怒川を「駒城橋」で渡り、結城郡八千代町佐野の「蔵前」交差点で左折して県道結城坂東線(20号線)をひたすら南下しました。これは、迷いようのない確実な経路です。尤も、後で確認してみましたところ、往路と同じような経路を取った方が、距離が短いことが判明しましたが。
それはともかく、県道結城坂東線(20号線)も、行けども行けども結城郡八千代町、という感覚でした。八千代町役場で少し休息するつもりでおりましたが、道が新道に付け替えられており、旧道に面していた役場を通り過ぎてしまいました。14時58分、進行方向の右手に車掌車「ヨ5083」が見えました。踏切の遮断警報機も添えられております。
帰宅後に調べましたところ、位置は八千代町蕗田の「中山電設」の南側にあたっておりますが、それ以上のことは未確認のままです。
ともかく帰路は急いで自転車をトバしましたので、ペダルを漕ぎつつ、「何を好んで、このようなハァドなことをしているのだろうか」という心境でした。八千代町から常総市(旧石毛町)に入り、崎房の丁字路に達しまして、やれやれ、ようやくここまで戻ることができた、という気分になりました(まだまだ先は長いのですが)。
15時20分に飯沼川を「上高橋」で渡り、15時45分頃に国王神社、16時00分頃、岩井市役所で少々休息し、(旧)小山の渡し付近で利根川の堤防に出て(16時18分)、「芽吹大橋」で利根川を渡り、重くなった足取りで、夕暮れどきの17時00分ちょうどに帰宅しました。先日の下妻行きの時は17時12分に帰宅しましたが、日没時間が短くなっていることがはっきりと分かります。
大宝城跡と関城跡へは、桜の季節にでも再訪してみたいものです。次は関東鉄道を利用して、関城へは騰波ノ江駅から歩いていってみても良さそうです。
関城から筑波山を望む
(2023.11.2.初稿, 2023.12.18.公開. 修正あり)
戻る