米ノ谷(米野谷)の八幡神社と「米の谷修堤碑」
20211221日撮影)

米野谷八幡神社

 杉戸町大塚の「大榎橋」から中川(庄内古川)に沿って1.5kmほど北上すると、杉戸町才羽の小字「米ノ谷」に到ります。
 この地区は、直径600mほどの白熱電球のような形状で道が廻っており(その東側は中川の湾曲部分)、かねてから地形的に気になっておりました。

米野谷八幡神社

 その球状部の東側に、米ノ谷(米野谷)の八幡神社があります。

米野谷八幡神社

米野谷八幡神社

    八 幡 神 社
 祭神 譽田別命ほんたわけのみこと
 祭儀 例祭 三月十五日 十月十五日
 当社は、木立村(現幸手市木立)に鎮座ちんざ
していた譽田別命の社内の舞殿が、洪水の
ために漂流し、この地に流れ着いたのが始
まりである。その後、寛永五年(一六二八)
米野谷村の鎮守としたと伝えられている。
 明治五年村社となり、同三十九年才羽村
内の無格社、香取神社、日枝神社、八幡神
社計十社を村社八幡神社へ合併し田宮神社
と称した。
 昭和二十一年十月二十九日、合併各神神
の分離にともない独立し、その後は旧社名
の八幡神社を称している。
           杉戸町教育委員会

 神社の境内には、「米の谷修堤碑」(米野谷修堤碑)という明治三十年(1897)に建てられた石碑があります。
 この修堤碑には地衣類が付着しており、碑文を読むことは困難ですが、杉戸町の文化財として説明板が立っております。

米の谷修堤碑

米の谷修堤碑

  こめ修堤碑
 江戸幕府が開かれた頃の県東部地方
は、大河川が乱流していた。中川(庄
内古川)は当時、渡良瀬川といい数年
毎の洪水には、農作物などに多大の損
害を蒙っていた。文禄三年(一五九四)
川俣村に堤防を築いて、利根の水脈の
南下するのを絶ち東南方に新川を開削
して、渡良瀬に合流させた。このため
利根の水量も併せて引受けることとな
り、前にも増して水害を受けるように
なった。後、新しく江戸川を開削して、
渡良瀬と利根の水脈を移したので、悪
水路としての役目を持つだけになった。
明治二十三年八月の大水害を期に郷土
の有志者の発起により同二十八年一月
起工し、堤防増築一六四メートル、道
路造設一三九七メートルの大工事を同
三十年五月に竣工した。十月記念碑を
建立するものである。
         杉戸町教育委員会

 付近に位置する、堤防改修工事完了と同時に竣工した「米ノ谷樋管」の水門は、明治時代の煉瓦造り水門として、知る人ぞ知る現役近代水利施設のようです。
 ※ 参考:「米ノ谷樋管」 https://fukadasoft2.sakura.ne.jp/renga/komeno/index.html(フカダソフト きまぐれ旅写真館)

 修堤碑の背後(北側)には、岩を積み重ねた塚があり、石碑の御嶽大神、八海山神社、三笠山大神ほかが並び立っております。

米野谷八幡神社

 米ノ谷(米野谷)の八幡神社も、修堤碑も、地域を襲う水害を治めようと努める地域住民の尽力・奮闘の中から生まれております。
 カスリーン台風による、いわゆる栗橋大洪水では、米ノ谷(米野谷)地区も被害を免れ得なかったようですが、それを最後に、古利根川・中川流域における潰滅的大水害は跡を絶っております。「栗橋決壊の大水(おおみず)」を記憶する古老が少なくなりつつある今日、先人たちによる水防の営為を、あらためて心に刻みたいものです。

米野谷八幡神社

2022117日記)



中川(杉戸町 椿。対岸は杉戸町 米ノ谷)
2022.2.16

中川(杉戸町 椿。対岸は杉戸町 米ノ谷)



「米ノ谷樋管」の水門
2022.2.16

「米ノ谷樋管」の水門 「米ノ谷樋管」の水門 「米ノ谷樋管」の水門
明治時代の煉瓦造りの水門との由



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