八 幡 神 社 祭神 祭儀 例祭 三月十五日 十月十五日 当社は、木立村(現幸手市木立)に していた譽田別命の社内の舞殿が、洪水の ために漂流し、この地に流れ着いたのが始 まりである。その後、寛永五年(一六二八) 米野谷村の鎮守としたと伝えられている。 明治五年村社となり、同三十九年才羽村 内の無格社、香取神社、日枝神社、八幡神 社計十社を村社八幡神社へ合併し田宮神社 と称した。 昭和二十一年十月二十九日、合併各神神 の分離にともない独立し、その後は旧社名 の八幡神社を称している。 杉戸町教育委員会 |
江戸幕府が開かれた頃の県東部地方 は、大河川が乱流していた。中川(庄 内古川)は当時、渡良瀬川といい数年 毎の洪水には、農作物などに多大の損 害を蒙っていた。文禄三年(一五九四) 川俣村に堤防を築いて、利根の水脈の 南下するのを絶ち東南方に新川を開削 して、渡良瀬に合流させた。このため 利根の水量も併せて引受けることとな り、前にも増して水害を受けるように なった。後、新しく江戸川を開削して、 渡良瀬と利根の水脈を移したので、悪 水路としての役目を持つだけになった。 明治二十三年八月の大水害を期に郷土 の有志者の発起により同二十八年一月 起工し、堤防増築一六四メートル、道 路造設一三九七メートルの大工事を同 三十年五月に竣工した。十月記念碑を 建立するものである。 杉戸町教育委員会 |