世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考
── 源朝臣経基の出自をめぐつて ──
赤坂恒明

   はじめに

 地方武士集団を組織化して自己の勢力を拡大した「中央軍事貴族」のうち、「清和源氏」の名のもとに知られる武門源氏は、武門の棟梁として、最大規模の大武士団を形成した。彼らの祖 源朝臣経基の系譜については、清和天皇の子 貞純親王の子とする旧来の通説と、陽成天皇の子 元平親王の子とする説(以下各々「清和出自説」「陽成出自説」と略す)が並立し、今日なほ決論が出てゐない。
 陽成出自説は、明治三十二〜三十三年(一八九九〜一九〇〇)、星野恒【ほしのひさし】によつて唱へられた。この説は、経基の孫にして所謂「河内源氏」の棟梁であつた河内守源頼信が、永承元年(一〇四六)に、新造の河内国誉田【こんだ】八幡宮に奉つたといふ告文【かうもん】(願文)の写しである、石清水八幡宮田中家文書「源頼信告文案」古写以下「頼信告文」と略す)における記載、

源頼信告文案

に基づいてゐる。星野恒は、旧来の清和出自説に対し、武門源氏の系譜は源頼朝によつて初めて清和天皇の子貞純親王につなげられた、と論じてゐる。即ち、『尊卑分脈』など、清和出自説の根拠の大部分は、頼朝より後の時代に作成されたものであり、また、頼朝以前の『大鏡』・『今昔物語集』における、武門源氏が清和天皇の後裔であるといふ記載については、「大鏡頗訛舛〓入アリ、今昔物語ハ記事精ナラス、妄リニ街談巷説ヲ載セ、彼条又許多ノ賛詞ヲ列ネタル語中ナレハ皆頼信告文ト対勘スルニ足ラ」ないものとした一〇
 星野説発表当時、源経基の出自をめぐる問題は日本史研究上重要な意味を持つものと考へられ、陽成出自説は学界に大きな波紋を投げかけた一一。しかし、その後、陽成出自説は、学界からは黙殺されたも同然の扱ひを受け、その後も長らく清和出自説が主流の状態が続いたのであつた一二
 その流れが変はつたのは、竹内理三氏が「頼信告文」の史料性を肯定し陽成出自説を支持一三してからである。そして、近年では、逆に陽成出自説の方が次第に有力になりつつある状況にあるやうに見える一四
 しかし、清和出自説を否定しようとする星野恒の史料批判の方法や所論の展開には、今日の研究上の視点から見れば、従ひ難いものがある。例へば、星野恒は、『今昔物語集』の史料性を否定するために、『今昔物語集』巻第二十五(本朝世俗部)「源頼信朝臣責平忠恒語 第九」を取り上げ、平忠常の乱における史実と比較し、「其叙事実ヲ失ナヒ、信拠スルニ足ラ」ない、と述べてゐる一五。しかし、当該の説話に述べられてゐるのは、忠常の反乱についてではなく、それ以前に頼信と忠常との間に行はれた私闘についての話であると考へられ一六、その同時代的史料性を否定するための根拠とは必ずしも成り得ない。また、星野恒は、源氏の系譜を清和天皇につなぎ替へるやう源頼朝に入説したのは大江広元であるとする。そして、その根拠として、広元の出自した氏族である大江氏が、同族(本姓土師宿禰。神別)にして共に紀伝道を相承する菅原氏に家格の上で対抗するため平城天皇の子 阿保親王の後裔と称して「皇別」氏族となつたといふ家風であること、また、広元自身も、立身出世の目的のために大江氏より中原氏に氏を改め、志を得た後、大江氏に復したといふ人物であること、を挙げてゐる一七。しかし、家風云々がこの場合客観的根拠と成り得ないことは言ふまでもなからう。また、特定の氏族と特定の令制官司との結合によつて必然的に生じるやうになつた改氏姓は、所謂「官司請負制」のもとでは至極当然のことである、といふことが今日では我々の共通認識となつてゐる一八
 また、近年における陽成出自説への支持も、ただ単に「頼信告文」の記載にそのまま従つてゐるだけに過ぎず、清和出自説を実証的に否定するといふ手続きをとつた上でのものではない。先行諸研究の分析から「頼信告文」そのものが後世の偽作でないことは確実であると思はれるものの、「頼信告文」に記された系譜自体の史料性については、分析・検討が必ずしも十分には行はれてゐないやうである。よつて、「頼信告文」の系譜を、即、客観的事実であると断言することはできないのではないかと思はれる。
 一方、清和出自説を支持する立場からは、経基の年齢を推定することによつて元平親王と経基の父子関係が成り立たないことを論証しようとする試みがある。しかし、その論拠として使用される系図資料は、史料性の上で問題がないとは言へないものである一九ので、十分な説得力を持ち得てはゐないやうに思はれる。経基個人の生没年等の年代を、信憑性のある史料から、これまで知られてゐる以上に明らかにすることは、今後、史料批判に十分堪へ得る新出史料でも発見されない限り、現時点ではほぼ不可能であらう。
 このやうに、源経基の出自をめぐつては、清和出自説・陽成出自説のいづれも、決定的な根拠を出し得てゐない、といふ現況にある。
 尤も、経基が清和天皇と陽成天皇のいづれの孫であらうと、武門源氏の本質に影響が及ぶことがないことは言ふまでもない。現に、経基の出自をめぐる問題は、研究者の大多数からは冷淡に扱はれる傾向にある二〇。それにもかかはらず、経基の出自が問題とされるのは、これが、人口に膾炙した「清和源氏」といふ用語の如何と直接的に結びつくものと考へられてゐるからに他ならない。言ふまでもなく、武門源氏が「清和源氏」と称されるのは、彼らの祖 経基が、旧来の通説である清和出自説では、清和天皇の子 貞純親王の子とされてゐるためである二一。よつて、陽成出自説を支持する研究者の一部は、武門源氏は「清和源氏」ではなく実は「陽成源氏」であつたと考へてゐる二二
 しかし、従来より、「清和源氏」といふ用語は、多用される割には、十分にその定義づけがなされてきたとは言ひ難いやうに思はれる。多賀宗隼氏は、朧谷寿氏の著書『清和源氏』に対する書評において、「現存史料に関する限り,『清和源氏』の用語や信念は,平安末以来の用法・発想であることは,明治32年の星野恒氏の研究(・・・・・)以来,史家の常識となってゐる」二三と述べてゐる。しかし、天皇から系譜が分かれた親王・諸王(王氏)・源氏の出自は、「平安末」以前から既に「年給の巡給」や「氏爵【うぢのしやく】の巡」の関係で同時代的に重要視されてゐたので、この「史家の常識」については再検討の余地があるやうに思はれる。
 そこで、本稿では、中世武士団研究の立場から言及されることが多かつた源経基の出自に関する問題を、違つた角度から、即ち、主に氏爵や蔭位【おんゐ】など官位制度上の観点から検討したい。




  第 一 章
目 次 へ


 Copyright: AKASAKA Tsuneaki JAN.2003 - All rights reserved.