赤坂恒明 「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考」 一、源経基裔と源氏爵 軍記物語などからよく知られてゐるやうに、武士たちは合戦の際に祖先の系譜を名のり上げた。このやうな系譜には、言ふまでもなく、客観的事実としての系譜よりも、むしろ武士自身の観念が強く反映されてゐる。陽成出自説の立場に立つた研究でも、武門源氏の系譜は、彼ら自身の意図によつて陽成天皇から清和天皇へとつなぎ替へられたとされる。即ち、星野恒によると、平氏が「不世ノ英主」にして「其盛徳偉烈百世ニ〓赫」たる桓武天皇の後裔であるのに対し、源頼朝の祖である陽成天皇が「践祚未タ幾クナラサルニ廃ニ遭ヒ、遜位ノ後、極意縦肆、民間ノ厭苦スル所ト為」つてをり、頼朝自身の心情にとつて「不景気」であるが故に、頼朝が自身の系譜を陽成天皇の父である「寛明仁恕」なる清和天皇に結び付けた、といふ二四。一方、竹内理三氏は、星野恒の説に賛同しつつも、逆に「陽成天皇の暴君としての強い力は兵の祖としてふさわしいと頼信は考えたのではあるまいか」、と述べてゐる二五。どちらの場合も、武門源氏と陽成天皇との関係は、暴君としての陽成天皇の個人的属性に帰せられてゐる。いづれにせよ、諸先学が、武門源氏の祖としての清和天皇や陽成天皇は源頼信・源頼朝の意思によつて選択される対象であつたと考へてゐることに変りはないやうである二六。 しかし、同時代的にみれば、親王・諸王(王氏)・源氏にとつて、彼らが何天皇の後裔であるかといふことは、決して観念上の問題だけには留まらなかつた。即ち、これは、親王の場合には「年官・年爵」(年給)の巡給と、諸王(王氏)・源氏の場合には「氏爵」の巡と関るものであり、彼らの個人的観念によつて簡単に左右されるやうな性質のものではなかつたのである。 「年給」(年官・年爵)とは封禄の一種である。「年官とは毎年除目の際に、所定の官職に所定数の人員を申任する権利を、年爵とは毎年叙位の際に、所定の人員の叙爵(はじめて従五位下に叙すること)を申請する権利を与える制度」二七である。そして、親王年給の巡給とは、親王・内親王が何天皇の子女であるかによつて一団を作り、これを単位として「年給」が給される、といふ制度である二八。 また、氏爵とは、正月叙位・即位叙位・大嘗会叙位・朔旦冬至【さくたんとうじ】叙位において、特定の諸氏に所属する者が叙爵される制度である二九。王氏(諸王)・源氏は、各々、各天皇の後裔ごとに集団をつくり、叙位に際して、その時の「巡」に当つた集団に属する者が叙爵された三〇。従つて、王氏・源氏にとつて、何天皇の子孫であるかは、氏爵にあづかつて叙爵されるための重要な現実問題とも結びついてゐたのであつた。 王氏爵・源氏爵についての記載がある諸史料において、嵯峨天皇裔は「弘仁御後」、仁明天皇裔は「承和御後」、文徳天皇裔は「天安御後」、清和天皇裔は「貞観御後」、陽成天皇裔は「元慶御後」、光孝天皇裔は「仁和御後」、宇多天皇裔は「寛平御後」、醍醐天皇裔は「延喜御後」または「延長御後」、村上天皇裔は「天暦御後」、花山院裔は「寛和御後」、三条院裔は「長和御後」、と各々呼ばれてゐる三一。従つて、同時代的な用法に即して言へば、所謂「清和源氏」は「貞観御後」の源氏、所謂「陽成源氏」は「元慶御後」の源氏、と各々言ひ替へることが可能である。 では、源経基とその後裔は、「貞観御後」と「元慶御後」のいづれの源氏として待遇されてゐたのであらうか。そこで、源経基の子孫が氏爵にあづかつてゐたといふ事例を見る。 まづ、『水左記』承暦二年(一〇七八)正月四日条に、 下官【源俊房】今年初挙源氏爵。酉刻許、令書氏爵名簿(源頼風。前陸奧守頼俊男也)三二。 とあり、経基の孫 源頼親(源頼信の兄にあたる)の後裔である源頼風が源氏爵にあづかつたことが知られる。甚だ残念なことに、この承暦二年正月叙位の源氏爵が何天皇の「御後」に対して行はれたものであつたかが判然としないので、頼俊が「貞観御後」と「元慶御後」のいづれの源氏であつたかを確認することはできない。但し、この叙位の前年、承保四年/承暦元年(一〇七七)に、頼風の父 頼俊をはじめ、頼信の孫にあたる義家・義綱や、頼親・頼信の兄にあたる頼光の孫の国房ら、経基の子孫が、相次いで、源氏爵を推挙する立場にあつた源氏長者源俊房(所謂「村上源氏」)のもとを訪ねてゐる三三。これは、翌年の承暦二年正月叙位−−源氏爵の巡が、経基裔の属した「貞観御後」ないし「元慶御後」のいづれかに相当してゐた−−にて、彼らが自身の子弟を源氏爵にあづからせようと欲してゐたためである、と考へられてゐる三四。ここから、経基の孫にあたる三兄弟、頼光・頼親・頼信の子孫が同じ天皇の「御後」に属してゐたと推定される、といふことを指摘しておきたい。 次に、『東山御文庫記録』甲二百七十四所收『叙位尻付抄』を見ると、応徳四年(一〇八七)正月叙位の氏爵において、「貞観御後」の「源朝臣清宗」が叙爵されてゐる三五。この清宗は、『尊卑分脈』に頼信の子 頼清の孫または子として見える山城守の清宗に比定される三六。これは、陽成出自説を提唱した星野恒が、「頼朝以前、源氏【武門源氏】ノ人ニシテ自ラ清和ノ後胤ト称スルモノアル〓【コト】ナシ、源氏ノ人ニシテ自ラ清和ノ後胤ト称スルハ、実ニ頼朝ヲ以テ創始トス」と述べてゐる三七ことに対する反証とならう。 さらに、内閣文庫所蔵『御即位叙位部類記』所收『頼業記』によると、永治元年(一一四一)十二月二十六日の近衛院即位叙位において、「貞観御後」の「源基行」が叙爵されてゐる三八。この基行は、年代より、『尊卑分脈』に源頼光の六世孫として見える遠江守の基行に比定することが可能である三九。この比定が誤つてゐなければ、頼信の子孫だけでなく頼光の子孫も「貞観御後」であつたと認められる。 いづれにせよ、『水左記』に見える承暦二年正月叙位の源氏爵の巡は「貞観御後」に当つてゐたと推測することができ、少なくとも十一世紀後半には源経基の後裔が「貞観御後」即ち清和天皇裔の源氏として認められてゐたといふ事実を確認することができよう四〇。 これは、同時代文献である『大鏡』や『今昔物語集』の記載とも矛盾しない。先行の諸研究においても既に挙げられてゐるものであるが、『大鏡』には、 一 五十六代 (清和天皇) つぎのみかど、清和天皇と申けり。・・・・・ この御すゑぞかし、いまのよに源氏の武者のぞうは。それも、おほやけの御かためとこそはなるめれ四一。 とあり、『今昔物語集』巻第十九(本朝仏法部)「摂津守源満仲出家語 第四」には、 今昔、円融院ノ天皇ノ御代ニ、左ノ馬ノ頭源ノ満仲ト云フ人有リケリ。筑前守経基ト云ケル人ノ子也。・・・・・ 階モ不賎ズ、水尾天皇【清和天皇】ノ近キ御後ナレバ、年来公ケニ仕ケレバ、・・・・・四二 とある。 星野恒は、『大鏡』の記述については、『大鏡』の「著者ノ誤記錯認ヲ筆セシ」もの、もしくは、陽成天皇の条にあつた文を「後人妄ニ清和ノ条ニ移シテ、世伝ノ清和源氏に牽合セシ」ものであるとし四三、また、『今昔物語集』の記述については、「コノ水尾天皇ノ近キ御後云々ノ語ハ清和天皇後胤ノ的証ト為スヘキカ如クナルモ、其実ハ然ラス、何ントナレハ、此一段ハ満仲ノ武勇勢力恩寵品階ヲ称述シ、前後トモ皆賛頌ノ辞ヲ用ヒタルモノナレハ、独リ世系ノミ事実ニ従テ陽成天皇ニ係クル時ハ、前後ノ賛辞ト相副ハス、故ニ其詞ヲ婉曲ニシ、天皇ノ父帝ニ係ケテ近キ御後ト云ヒシナリ」、と論じてゐる四四。しかし、これらはいづれも、「頼信告文」に基づく陽成出自説を主張せんがための強引な解釈であると言はざるを得まい。やはり同時代的な観点を尊重すれば、それら『大鏡』・『今昔物語集』の記載は、当時、源経基の後裔が「貞観御後」であると見做されてゐたといふ実態の傍証として位置付けるべきものであらう四五。 以上より、源頼朝の時代より以前から、源経基およびその後裔が「貞観御後」即ち清和天皇の子孫の源氏として認められてゐたといふ実態が同時代的に存在してゐた、といふ事実を否定することはできないものと思はれる。 但し、ここで注意すべきことがある。それは、某天皇の「御後」とされる人々が、実際の血統の上で、当の某天皇の子孫であるとは必ずしも限らない、といふことである。例へば、『尊卑分脈』「長和 三条」によると三条院の子孫であるとされる源通季は天喜三年(一〇五五)に「可為天暦御後王氏之由」を「宣下」され四六、通季の玄孫とされる兼隆王は康治二年(一一四三)の正月叙位において「天暦御後」(村上天皇裔)として王氏爵にあづかつてゐる四七。従つて、源経基が陽成天皇の孫であるといふ「頼信告文」の記載と、経基の子孫が「貞観御後」であつたといふ事実とは、必ずしも矛盾するわけではないのである。 尤も、三条院の後裔が「天暦御後」の王氏と成つたのは、それが公に「宣下」されたためであつた。源氏における属籍変更の一例と考へられるものとしては、光孝天皇(もと時康親王)の諸子の賜姓を挙げることができる。即ち、仁明天皇の子 時康親王の諸子は貞観十二年(八七〇)二月十四日に源朝臣を賜姓され四八、その後、時康親王の即位(光孝天皇)により、元慶八年(八八四)四月十三日にあらためて源朝臣を賜姓されてゐる四九。これは、前者が承和御後の二世源氏としての賜姓、後者が仁和御後の一世源氏としての賜姓であると考へられてゐる五〇。よつて、仮に「頼信告文」の系譜が客観的事実であつたとするならば、当然、経基またはその子孫に対しても、「元慶御後」(陽成天皇裔)から「貞観御後」(清和天皇裔)への属籍変更が宣下されてゐなければなるまい。しかし、言ふまでもなく、そのやうな事実は全く知られてゐない。 また、仮に源経基が血統の上で陽成天皇の孫であつたとしても、経基の後裔(または後裔を称する者)が清和天皇の後裔であることを自称し、それが世に広く受容され、日本史上長らく通念として認められてゐた、といふ実態そのものが動かし難い歴史事実であることも忘れるべきではない。一方、経基の後裔に対して「元慶御後」もしくは「陽成源氏」といふ用語が適用された事例は、陽成出自説の根拠である「頼信告文」をはじめ、いかなる史料においても見出すことができない。結局のところ、「清和源氏」を「陽成源氏」に言ひ替へるべきであるといふやうな主張は、所詮、研究者の視座を基点とした研究上の一解釈によるものに過ぎない。よつて、源経基とその後裔を同時代的な意味で「陽成源氏」と呼ぶこと自体が適切であるとは言ひ難く、経基裔は旧来の通説どほり「清和源氏」として何ら問題がないものと思はれる。 いづれにせよ、源氏爵といふ観点からは、源経基の後裔は「貞観御後」であつたといふ事実を確認することができるに留まり、経基の出自をめぐる実際の系譜関係については、別の観点から あらためて考察を行はなければならないであらう。 はじめに へ 第 二 章 へ 目 次 へ Copyright: AKASAKA Tsuneaki JAN.2003 - All rights reserved.