赤坂恒明
「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考」



   二、源経基の初叙

 そもそも、源経基については、従来より、武士団の棟梁たる武門源氏の祖としての側面が強調される反面、官吏としての側面の検討が等閑にされてきたやうに思はれる。官吏としての「出身」−− 律令官制において官僚の世界に参加すること −− において家系が大きな意味を持つてゐたものとしては、周知のやうに、蔭位の制がある。これは、言ふまでもなく、父祖の地位によりその子孫が一定の位階を与へられるといふ特典制度である。源経基は、清和天皇または陽成天皇のいづれかの孫にあたるので、当然、彼の初叙には蔭位が適用され得る。そこで、本章では、源経基の初叙と その位階について検討を行ふ。
 通説では、源経基の最初の叙位は、平将門の反乱を通報した功績によつて天慶三年(九四〇)正月九日に従五位下に叙されたことに帰せられてゐるやうである五一。これは、『将門記』に、

今介【武蔵介】恒基【経基】也、始雖奏虚言、終依実事、叙従五位下五二

と記され、また、『日本紀略』天慶三年正月九日乙亥条に、

以武蔵介源経基叙従五位下。依申東国凶賊平将門謀反之由也五三

と記されてゐることに基づく。『貞信公記抄』天慶三年正月九日条にも、

経基叙従五位下五四

とあり、源経基が天慶三年正月九日に従五位下に叙されたといふ事実自体には疑ひの余地がない
五五
 但し、この天慶三年正月九日における経基の叙位は、彼にとつて最初の叙位ではない。なぜなら、経基は それより以前に武蔵介に任じられてゐるからである。無位者の任官は、令制上、原則的には有り得ない五六。よつて、天慶三年正月九日における経基への叙位は、褒賞による昇叙、或いは、将門の「謀反」を誣告したために除かれてゐた五七位階がもとに戻された復本位、のいづれかであると考へられる。よつて、武蔵介在任時の経基の位階は、前者の場合は従五位下未満となり、後者の場合は従五位下となる。いづれにせよ、経基の初叙が天慶三年正月九日以前のことであり、その位階が従五位下以下であつたことに、疑ひの余地はない。
 では、源経基の出身位階は、何位であつたのであらうか。
 経基は、特に学問等に長じてゐたといふ形跡もなく、また、その官歴からも推測されるやうに、大学寮に入学した後に「出身」したといふ可能性は少ないと考へられる五八ので、他の諸王や皇親系被賜姓者の大多数と同様に、蔭位の直叙によつて初叙されたものと考へられる。
 経基は、清和天皇の子である貞純親王の子か、陽成天皇の子である元平親王の子か、のいづれかであり、どちらにしても親王の子、即ち、天皇の孫(二世)にあたる。蔭位についての規定が含まれる「選叙令」には、

凡蔭皇親者、親王子従四位下 ・・・・・五九

とあり、親王の子の蔭位は従四位下との規定がある。但し、当該の「選叙令」の規定は、皇親を対象としたものであり、二世孫王のみに適用されるに過ぎず、被賜姓者には適用されなかつたやうである。即ち、桓武天皇の子 仲野親王の子である平惟世と平利世は、他の兄弟が皆 四位(従四位下)に叙されたのに対し、彼ら二人は諸王でなかつたため五位に叙されるに留まつてゐる六〇。また、桓武天皇の子 明日香親王の子と推定される六一久賀朝臣三夏の初叙は従五位下である六二。彼の初叙は、久賀朝臣を賜姓された後であつた六三。よつて、親王の子である被賜姓者の蔭叙位階は従五位下であると推定される。これは、仁明天皇の子 時康親王(のちの光孝天皇)の諸子のうち、二世孫王として初叙された元長王と兼善王が従四位下に直叙された六四のに対し、賜姓後に二世源氏として初叙された源朝臣貞恒が従五位下に直叙されてゐる六五ことからも裏付けることができる六六。このやうに、原則として親王の子の蔭位は、孫王では従四位下、被賜姓者では従五位下であつたことが確認される。ちなみに、三世王(天皇の曾孫である諸王)の蔭位も従五位下である六七ので、二世被賜姓者の蔭位は三世王の其れと同じである。
 ところが、清和天皇の孫王については、この原則はあてはまらない。即ち、『西宮記』恒例第一 正月 五日 叙位議に、

氏爵 ・・・・・ 二世(【振仮名・送仮名】セイノ)孫王 (従四位下。自解、依巡。預昇殿者超越。貞観孫王従五位下六八

とあり、清和天皇の孫王のみ、王氏爵における蔭位が従五位下であるといふ例外的な規定があつた六九
 よつて、源経基は、旧来の通説どほり清和天皇の孫であるとすれば、その初叙は、二世源氏または貞観二世孫王としての従五位下への直叙であつた可能性が高い。そして、この場合、天慶三年正月九日における従五位下への叙位は復本位といふこととなり、特に矛盾は存在しないやうである。
 一方、経基が陽成天皇の孫であるとすれば、経基の初叙は、二世源氏としての蔭叙であれば従五位下、賜姓以前に二世孫王として蔭叙された場合には従四位下、となる。しかし、天慶三年正月九日における経基の従五位下への叙位は、降位であるとは考へられない。従つて、経基が陽成天皇の二世孫王として蔭叙されたといふ可能性はない。
 よつて、経基の初叙は、貞観二世源氏または貞観二世孫王として従五位下に直叙されたか、或いは、元慶二世源氏として従五位下に直叙されたかのいづれかであると考へられる。
 ここに、陽成天皇の孫王としての経基の「出身」は有り得ないことが確認されるわけであるが、陽成出自説の唯一の根拠たる「頼信告文」には、

源頼信告文案

とあり、経基は、源氏ではなく「孫王」と明記されてゐる。しかし、経基は、武蔵介として下向した時には既に臣籍にあつた七三
 星野恒は、「頼信告文ニ祖父経基孫王ト云ヘルハ、タヽ其孫王タルニ因テ、名ニ連テ之ヲ敬称スルマテニテ」云々七四と述べるが、敬称ならば「経基朝臣」とあるべきであらう。そもそも、親王に次いで天皇に近い皇親である「孫王」は、三世以下の諸王と比べ格別の待遇を受ける立場にあり、無位の孫王さへも、服制や致敬などにおいて五位に准ずるものとされてゐた七五程である。よつて、「孫王」とは、二世賜姓者に対しても用ゐられるやうな単なる敬称であるとは考へ難い。
 源経基が陽成天皇の孫王として「出身」したことが有り得ない以上は、「頼信告文」において経基が陽成天皇の孫王と称されてゐることには、源頼信の意図に基づいた何らかの作為が含まれてゐる、と考へざるを得ないのである。
 以上、本章より、
武蔵介任官以前に行はれた源経基の初叙は従五位下への直叙であると考へられ、陽成天皇の孫王として「出身」したのではないことは確実である。よつて、「頼信告文」において経基が陽成天皇の孫として「経基孫王」と称されてゐることは客観的事実をあらはしたものではなく、其処には源頼信による作為がある、と考へられる。
といふことが確認されよう。




 第 一 章   第 三 章
目 次 へ


 Copyright: AKASAKA Tsuneaki JAN.2003 - All rights reserved.