赤坂恒明
「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考」



   三、天暦七年の王氏爵不正事件と「孫王」経基

 「頼信告文」において「経基孫王」と陽成天皇とを系譜的に結ぶ人物は、元平親王である。この元平親王は、氏爵研究の上で現在知られてゐる三件の氏爵不正事件のうちの一件の当事者として、我々に記憶される。しかもこの事件は、天暦七年(九五三)正月叙位の王氏爵において、「貞観御後」の源氏が「元慶御後王氏」を偽つた、といふものである。即ち、「貞観御後」の源氏、「元慶御後」の王氏、元平親王、といふ三点で、源経基の出自をめぐる問題の焦点とも共通してゐるのである。そこで、本章では、この天暦七年の王氏爵不正事件について検討する。
 天暦七年の王氏爵不正事件を直接記した史料は現前してゐない。しかし、その後起きた二件の氏爵不正事件、即ち「長徳四年(九九八)、内蔵文利が京家長者藤原輔遠に依頼して藤原氏と偽り称し、藤氏爵に預かろうとした事件」と、「長元四年(一〇三一)、王胤にあらざる鎮西異姓者が王氏と称し、王氏爵に預かろうとした事件」七六の処置の勘例として、その概略が伝へられてゐる。まづ、長徳四年の藤氏爵不正事件に関する先例勘申については、『権記』長徳四年十一月十九日条に、

去天暦七年王氏爵巡、相当於元慶御後。氏是定式部卿元平親王、以貞観御後源経□為元慶御後王氏、申関栄爵。依有事聞、令法□七七勘申所当罪状、親王并経忠遠流。但親王可官当、依官高可贖銅者。其後有大赦。又依宣旨□□云、所当之罪科可原免。所給之位記可返進者七八

と見える。即ち、
天暦七年の王氏爵の巡は「元慶御後」に当つてゐた。王氏是定【ぜぢやう】として王氏爵にあづかる者を推挙する立場にあつた元平親王は、「貞観御後」の源経忠を「元慶御後王氏」として叙爵させようとした。しかし、事が露見し、元平親王と経忠の両人は罪に問はれた。
といふのが、この事件の概略である。
 また、この事件は、長元四年における「鎮西異姓者」即ち大宰大監大蔵種材の男七九による王氏爵不正事件に際しても、勘例として取り上げられてゐる。即ち、『小右記』長元四年正月十二日庚申条「氏爵事」に、

天暦七年、以改姓為従八〇者入王氏爵多八一簿、仍召親王【元平親王】、申病不参。遣外記伝説八二令問、令注文書経奏聞。詳見故殿【藤原実頼】御記八三

とあり、本事件の顛末が『清慎公記』(散逸)に詳述されてゐたことが知られる。また、『小右記』長元四年正月十四日壬戌条にも、

件事尋見前跡。天暦七年、以改姓為臣者奏名簿、先召遣親王【元平親王】、申病不参。仍以権少外記伝説問遣親王。彼所弁申之旨注取、令見親王、経奏聞八四

とある。ここには「源経忠」とは記されてゐないが、「改姓為臣者」とある。よつて、源経忠は皇族出身で源朝臣を賜姓され臣籍降下した人物であることが知られる。既出の貞観十五年四月二十一日の清和天皇の勅によると、清和天皇の親王の子は原則として賜姓されることとなつてゐた。また、林陸朗氏によると、その当時、源朝臣を賜姓されるのは一世・二世に限られ、三世の賜姓は平朝臣であつたといふ八五。従つて、「貞観御後」の源経忠は、清和天皇の二世源氏にして父は親王であると考へられる。
 では、この源経忠は、何世の「元慶御後王氏」と出自を偽らうとしたのであらうか。陽成天皇の三世(曾孫)が叙爵されるには、年代的に まだ早過ぎるやうである。また、清和天皇の孫は源氏・王氏いづれの場合でも蔭叙従五位下 −− 三世王の蔭叙と同位階 −− であつたと考へられるので、陽成天皇の三世王として従五位下に蔭叙されたのでは、氏爵不正を行ふ意味が全くない。一方、既述の如く、貞観御後以外の二世孫王ならば四階上の従四位下に直叙される八六。よつて、源経忠は、元慶御後の二世孫王として氏爵にあづからうとしたものと考へられる八七
 尤も、源経忠が陽成天皇のどの親王の子と称したかについてまでは明らかにすることができない。そもそも、王氏爵にあづかるための手続きの上で、王氏爵申文【まうしぶみ】や王氏爵名簿には、王の出自については「某御後」・「某世」と記されるに過ぎない八八ので、経忠も、具体的にどの親王の子と称するかといふことまでは問題としてゐなかつた可能性もある。けれども、この事件が、源経忠と陽成天皇の子である元平親王とによつて画策されたものである以上、不正の前提として、両者の間に何らかの特定の結び付きがあつたことを否定することはできまい。
 以上より、天暦七年の王氏爵不正事件の当事者、源経忠については、
清和天皇の孫にして源朝臣を賜姓された「貞観御後」の二世源氏である。
元平親王と共謀して、陽成天皇の二世孫王として王氏爵にあづからうとした。
と総括され、源経基については、
『尊卑分脈』等によると、清和天皇の子 貞純親王の子である。
「頼信告文」において、陽成天皇の子 元平親王の子といふ系譜のもとに「孫王」と称されてゐる。
となり、両者とも、
清和天皇の孫にして源朝臣を賜姓された。
元平親王と関連して陽成天皇の孫王と称した(称された)。
といふ二点において共通してゐる。
 そこで、源経忠と源経基との関係を系譜の上で検討してみると、源経忠は、清和天皇の孫であると推定されるが、『尊卑分脈』八九、『本朝皇胤紹運録』九〇等を見る限りでは、この源経忠に該当する人物を見出すことはできない。そして、親王の子である貞観二世源氏のうち、「経」または「忠」の字を兄弟で諱の通字としてゐる例は、貞純親王の子である「経基王」と「経生/経主」しか見出すことができない九一。また、源経忠は、源経基とほぼ同時代人である。よつて、源経忠と源経基は父を同じくする兄弟、或いは、同一人九二である可能性が高い、と考へることができよう。
 いづれにせよ、源経忠は「貞観御後」の源氏であることが王氏爵不正事件から明白であり、当然、陽成天皇の子 元平親王の子であつたとは認め難い。よつて、源経基も、実系の上で元平親王の子であるとは考へ難く、『尊卑分脈』等における記載どほり、清和天皇の子 貞純親王の子である可能性が高いものと考へられる。




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