赤坂恒明
「世ノ所謂清和源氏ハ陽成源氏ニ非サル考」



   四、「源頼信告文案」における系譜の作為性

 以上より、源経基を陽成天皇の「孫王」として位置付ける「頼信告文」の系譜には源頼信による作為が認められ、経基は実系の上では清和天皇の子 貞純親王の子であつたと考へるべきである、といふことが明らかになつた。しかし、「頼信告文」に記された系譜に客観的な意味での作為性が含まれてゐるとしても、告文といふ性格上、その記載内容は源頼信自身には決して虚偽とは認識されてはゐなかつたと考へざるを得まい。従つて、経基の系譜についても、或いは、貞純親王が薨逝した後、経基ら貞純親王の諸子が元平親王 −− 近親(従兄弟)にして、かつ、「一親王」即ち王氏是定として諸王の家長的な立場にもあつた −− の庇護を受けた、といふやうな事情があつたのかも知れない九三。しかし、経基と兄弟または同一人であると推定される源経忠が天暦七年に処罰された既述の事件からも明らかであるやうに、経基が元平親王の子として元平親王の戸籍に入り、それが正親司【おほきみのつかさ】において認められてゐた、とは考へ難い九四。所詮、「頼信告文」における経基を陽成天皇の子 元平親王の子とする系譜は、あくまでも私的な擬制的系譜関係を表したものに過ぎない、と考へるべきであらう。
 では、このやうな擬制的系譜を記した「頼信告文」は、如何なる意図のもとに頼信によつて作成されたのであらうか。
 まづ、「頼信告文」の末尾部分(包紙の題署九五)に、

頼信奉 八幡大菩薩祭文 (顕源氏之由来云ヽ九六

と記されてゐることから明らかなやうに、「頼信告文」の作成目的の一つは「啻ニ之ヲ神廟ニ秘蔵セサルノミナラス、併セテ世人ノ閲覧シテ其家系ヲ知ラン事ヲ欲スル九七」ことにあり、これは既に先学によつても指摘されてゐるとほりである。そして、その「家系」とは、頼信の八幡神信仰の理由、即ち、頼信自身の先祖が八幡神(応神天皇)であるといふことを示したものであるが、この点から見れば、頼信が清和天皇の子 貞純親王の子孫であらうと、陽成天皇の子 元平親王の子孫であらうと、どちらでも同じことである。ここで問題とすべきは、何故に「貞観御後」である筈の頼信が自身の系譜を陽成天皇の子 元平親王につなげたか、といふ点である。
 まづ考へられるのは、暴君としての陽成天皇の個人的属性が「兵」の祖としてふさはしいと頼信によつて考へられた可能性があるといふ竹内理三氏の指摘 −− 既に本稿第一章において言及されてゐる −− である。これは、それなりに首肯するに足る指摘ではあると思はれるが、傍証もなく、また、否定すべき根拠もないので、その正否については判断し難いと言はざるを得まい。
 また、頼信と彼の兄弟、特に頼親との関係についても、考慮する余地があらう。周知の如く、源頼親とその後裔は、所謂「大和源氏」として大きな武士団勢力を築いてゐた。先述したやうに、承暦二年の正月叙位においては、頼親の子孫である頼風が源氏爵にあづかつて叙爵された。頼親流が他の同族たち −− 頼光流・頼信流 −− を抑へて源氏爵にあづかることができたのは、頼親流と源氏長者たる所謂「村上源氏」との密接なつながり九八もさることながら、やはり、「氏爵に預かるためには、自らの家系の者の過去の事績・位階等が本人に大きく影響を与え」てゐた九九、即ち、頼親流は「貞観御後」として源氏爵にあづかる「理」にあつた家系であつたと見做されてゐたためではないかと推測される一〇〇。よつて、次のやうに憶測することも、或いは可能であるかも知れない。即ち、源頼信は、「貞観御後」として源氏爵にあづかることで頼親一門に遅れを取つてゐたため、代つて「元慶御後」として自身の一門を源氏爵にあづからせようと欲し、そのために敢へて自身の系譜を陽成天皇につなぎ替へようとした、と。尤も、この憶測には、かなり飛躍があるやうに思はれ、我ながら納得のいくものではない。
 「貞観御後」たるべき頼信が自身を陽成天皇の子 元平親王の子孫と位置付けようとした目的が如何なるものであるか、といふ問題については、やはり、元平親王と源経忠が関つた天暦七年正月の王氏爵不正事件を無視するわけにはいくまい。といふのは、この事件は、頼信自身にとつては、無関係の単なる過去の一事件としてではなく、自身の家系とも密接に関つた身近な事件として認識されてゐた可能性が高いからである。既述のやうに、長元四年(一〇三一)の正月叙位において起きた王氏爵不正事件に際しては天暦七年の事件が勘例として取り上げられたのであるが、この長元四年の正月叙位では、頼信自身も従四位下に叙されてをり一〇一、彼が王氏爵不正事件について全く無関心であつたとは考へ難い。
 このやうな情況を考へ合はせれば、氏爵不正事件が起こる都度 勘例として取り上げられる天暦七年の事件に対して、頼信自身が何らかの見解を抱いてゐたとしても、それは決して不思議なことではなからう。即ち、武士団の棟梁たる頼信の周辺に少なからず存在してゐた擬制的系譜関係を、頼信が過去に投影して、元平親王と経忠との間にも同様の関係があつたものと理解してゐた、と推測することも あながち強引であるとは言へまい。そして、このやうな理解の上に、頼信は、天暦七年正月の事件における元平親王と経忠への処罰を不当なものと認識しようとしてゐたのではなからうか。
 かやうに考へると、頼信が「頼信告文」において自身の系譜を陽成天皇の子 元平親王につなげた意図は、実に、
頼信自身の観点から見れば不当に罰された元平親王と源経忠(源経基と兄弟または同一人と推測される)の名誉回復を図り、その系譜関係が決して詐称ではないといふことを頼信が神明にかけて誓ひ、顕らかにし、併せて、平将門の乱における経基の働きと平忠常の乱における自身の功績とを以て自身の家系を称揚する。
といふものであつた、と推測することも不可能ではあるまい。そして、この推測が正鵠を射たものであるとすれば、おそらく源経忠と源経基は同一人であり、擁護されるべき主対象は元平親王よりむしろ経基の方であつた、とも憶測することができるであらう。
 これらの推測・憶測の正否についてはともかく、以上より、少なくとも、「頼信告文」における「其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇」といふ系譜は、源頼信自身の観念に基づいて作成されたものであり、客観的事実を述べたものではない、といふことだけは確認することができたものと思はれる。そして、経基の系譜を陽成天皇につなげようとする試みも、結局、頼信一人の観念の顕示にとどまり、彼の同族・子孫に受けつがれることはなかつたのであつた。




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