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源経基の後裔は、「貞観御後」即ち清和天皇の子孫として源氏爵にあづかつてゐた。このことは、同時代文献である『大鏡』や『今昔物語集』において、彼らが清和天皇の子孫と述べられてゐることとも合致する。よつて、旧来の通説どほり、源経基裔の武門源氏は「清和源氏」であるとして問題ない。
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蔭位の適用から見れば、天皇の孫にあたる二世孫王(清和天皇の孫王のみ除外)は、原則として従四位下に直叙された。源経基の初叙(武蔵介任官以前)の位階は従四位下より低いので、経基が陽成天皇の二世孫王として「出身」してゐないことは確実である。よつて、「頼信告文」において経基が陽成天皇の孫として「経基孫王」と称されてゐることは客観的事実をあらはしたものではなく、そこには源頼信の観念に基づいた作為が含まれてゐると考へられる。
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「頼信告文」における元平親王(陽成天皇の子)と経基の父子関係と、元平親王と源経忠(貞観御後の賜姓二世源氏)が起こした王氏爵不正事件との間には関連があるものと思はれ、経基と経忠は兄弟または同一人であると推測され、彼らの実系は清和天皇の孫であつたと考へられる。
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源頼信の観念が顕示されてゐる「頼信告文」に記される経基と元平親王の父子関係は、実系であるとは認め難い。強ひて言へば、それは、朝廷には認められてゐない擬制的関係として頼信に認識されてゐたものであると考へるべきである。そして、「頼信告文」には、頼信が自身の祖[と位置づけた者]の名誉回復を図るといふ側面もあつた、と推測される。
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