〔学会発表〕
赤坂恒明
「ホシラの西行とチャガタイ家」


 次に掲げるのは、九州大学で開催された、2007年度九州史学会大会における標記の学会発表(二〇〇七年十二月九日午前)のために用意した「要旨」である。
 本報告の内容は、「
ホシラの西行とバイダル裔チャガタイ家」(『東洋史研究』第六十七巻第四号, 2009.3, pp.36-69)として論文化したので、そちらを参照されたい。

要旨
 元の武宗ハイシャンの長男ホシラ(コシラ、クシャラ。のちの明宗)は、叔父アユルバルワダ(仁宗)と対立し、中央アジア方面へ亡命することとなった。通説では、ホシラはチャガタイ汗国のもとに庇護され、その後、「天暦の内乱」においては、チャガタイ汗国の軍事力を背景に帝位に即いた、と考えられている。
 私は、元朝に帰属したチャガタイ裔であるチュベイの一門に関する系譜情報を復元・確定する過程において、彼らがホシラと密接な関係を持っていた可能性が高いことを指摘した(赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」『西南アジア研究』第66号)が、その問題については、必ずしも十分に論証を加えたものではなかった。
 そこで、本発表では、両者の関係について、主に次に挙げる諸点を中心に、考察を加える。
 一、ホシラの西行の結果、引き起こされたトガチの反乱は、ホシラを支持する部将トガチ・チンサン(トガチ・バートル)によるものであるが、『元史』に「叛王脱火赤」とあるのは、チュベイの孫にあたる同名異人で、元朝期カラホト漢文文書等の分析よりカラホトがあるエチナ路付近を本拠地としていた寧粛王家に属する王族との混同によるものである、と考えられる。
 一、ホシラの西行および即位に関わったと考えられる、チュベイの弟トカ=テムルの子孫(柳城王家)は、チャガタイ一族の末子(オッチギン)の家系として、アルタイにおけるチャガタイの初封地の継承者ないし継承権者であった可能性が高く、元朝とチャガタイ汗国との境界的な地域を本拠地・権益地としていた可能性が高い。
 一、モンゴル帝国期のペルシア語系図集『五族譜』には、チュベイの姉妹が、チャガタイ・ウルスのドゥルベン族の一部将に嫁いでいることが記されているが、チムール朝のペルシア語年代記の叙述等を分析することによって、彼がチャガタイ汗のエルジゲデイ(イルチギデイ)──『元史』より、エルジゲデイとホシラとの間に密接な関係があることは既に確認されている ── の配下であったことが推測される。ここに、ドゥルベン族が、チュベイ一門とチャガタイ汗国とを結ぶ接点となりうることを指摘することができる。
 以上の検討において、十四世紀以降の元朝とチャガタイ汗国の関係や、河西・甘粛から天山東部に至る地域の政治情勢の一端を明らかにすることを試みたい。


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