鎌倉幕府御家人、土屋一族の史跡を訪ねる
(平成二十四年六月十三日)
東海大学湘南校舎の南西方向、金目川の南に位置する土屋の地は、鎌倉幕府の御家人で、土肥次郎実平の弟、土屋三郎宗遠を祖とする土屋一族の苗字の地である。
自宅にある神奈川県道路地図を見ると、土屋は、平塚市の北西端、土屋小学校の西南から「土屋霊園」方面に広がる、鉄道の駅から遠く離れた山中に位置し、いたって交通不便の地であるかのように思われた。そのため、長らく、足を延ばすことを躊躇していたのであった。
ところが、平塚市博物館発行の図録『
平塚と相模の城館
』から、土屋一族に関係する史跡が、実は東海大学から比較的近い場所にあることを知った。
また、自宅にある神奈川県道路地図には載っていなかったのであるが、現在、土屋小学校の南隣に神奈川大学が進出し、大学と秦野駅とを結ぶ神奈川中央交通バスが多く運行されており、公共交通が決して不便ではないことも判った。
そこで、平成二十四年六月十三日水曜日、東海大学の授業が終了した後、土屋一族のものと伝えられる墓所と土屋城址(大乗院)を訪れるべく、十五時四十分過に、ゆっくりと東海大学の文学部より出発したのであった。最初の訪問であるので、まずは一見、の心づもりである。
東海大学の広い構内を西へ、そして南に向う。正門に出るまでに十分以上を要したが、東海大学正門から西に歩くと、ものの五分も経たないうちに、土屋の里の入口にあたる土屋橋(金目川に架かっている)の北に至る。
東海大学正門
左に折れ、土屋橋を渡り、県道77号線を南へ進む。しばらくすると、道なりに右手、西方に道は曲がる。そこから先は道幅が狭くなり、歩道もなくなる。自動車の交通量が少なくないので、歩行には注意が必要である。
土屋橋北東の「土屋橋」バス停
「寺分」バス停
下庶子分自治会館
西方正面に「やま」が見える。土屋城の東端であろう。「寺分」バス停の西方、右手に枝道があり、案内標識に、右折すると「土屋一族の墓 1km」と記されている。これは、県道の交通量が多く、歩行者が危険であるため、より安全な道を案内しているものであると思われる。しかし、土屋城の地形を南側から確認したかったので、安全とは言い難い県道を、そのまま直進した。
すぐに右手に旧道が分岐する。もちろん旧道を進む。まもなく左手に「下庶子分自治会館」が見えてくる。「庶子分」とは、さきのバス停の「寺分」などと共に、土地の分割相続に由来する地名に他ならない。
碁打橋
旧道は、やがてゆるやかに南に進路を変え、県道に交差する。
その先、南には、座禅川(金目川の支流)に架かる「碁打橋(ごうちばし)」がある。なお、正面の「やま」の右手(西側)に広がっているのは「碁打谷」という小字であるとのことである。
「庶子分」バス停
道標
再び、ダンプカーも通る危険な県道を西に進む。バス停「庶子分」の北西に位置するのは小字「大庭(おおば)」で、土屋一族の居館跡とされる区域であるが、大型自動車に脅かされつつ、道を歩きながら地図を開くわけにもいかず、そのことに気付くことなく歩いていたのであった。
神奈川大学方面への道に架かる「座禅川橋」(新しい橋に架け替えられている)への道との交差点の手前に、
関東ふれあいの道
土屋一族の墓0.3km
関東ふれあいの道
鷹取山 4.3km
と記された道標がある。
稍々戻るかたちとなるが、幾つも立っている道標に従って、細道を進む。
道は山中の坂となり、その上がりゆく先に案内板と標識が見えてくる。
その案内板には、「土屋一族の墓」と記されている。しかし、そこからは墓は見えない。
案内板が立っている場所から、標識が指し示すとおりに岐路の階段状の坂を下ってゆくと、右手が開け、下方、斜面の中腹に五輪塔の数々がたたずんでいるのが見える。すなわち、既に写真で見たことがある、「土屋一族の墓」と伝えられている供養塔群である。
図録『平塚と相模の城館』(平塚市博物館発行)等の写真から想像していたのとは異なり、墓所は明るく開けた場所にあった。そこからは谷地を見下ろすことができ、周辺の光景をも含め、なかなか好ましい環境である。
なお、階段状の下り坂が向きを変える所に、比較的新しい石碑が立っている。そこには、
昭和五十四己未年九月十二日
浩宮様見学記念植樹
と記されている。
これにより、此処にまで浩宮徳仁親王殿下(現在の皇太子殿下)の足跡が及んでいたことを知ることができた。
後で確認してみたところ、当該の日付は、
伝岡崎義実墓
の御訪問と、まさに同じ日であった。
また、供養塔群の列の右端には、これまた新しい石碑が立っている。すなわち、
源頼朝公源氏再興石橋山参陣八百年記念
地頭土屋三郎平宗遠公一族之墓苑
浩宮徳仁殿下一行当所見学記念
昭和五十四年九月十二日
とある。
学習院大学に在学中であった徳仁親王殿下の御訪問は、地元の人たちの間に、地域の身近な歴史遺産に対する関心を、必ずや促したことであろう。
あらためて、史跡の保全に関する殿下の「貢献」について評価する必要があるように思われた次第である。
案内板から、これらの供養塔群は、昭和十年(一九三五)に現在の場所に集められて移されたことを知ることができる。
昔ながらの位置でないことは、考古学的には甚だ残念なことであると思われる。
しかし、土屋三郎宗遠とその一族が、地元の方々によって手厚く供養されて今日に至っていることは、誠に喜ばしいことである。
墓域の南端には、谷地に下る細い坂がある。
下った所で小道は左に折れ、谷地を横断する。その先にも道標がある。
この谷地こそ、小字「大庭(おおば)」で、土屋氏の居館址であった宗憲廃寺址であると考えられている地に他ならない。
土屋の館址
湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟 第三巻 中村党・波多野党』(東京、戒光祥出版、二〇一一年五月)によると、「土屋一族供養塔・館址」と記された石柱の道標より南の方に、宗憲廃寺の旧墓地があるということである。しかし、それを確認するのを怠っていた。次回の探訪の際には立ち寄ってみる所存である。
土屋の館址から大乗院に上る坂道を見おろす
さて、道標の立地点から北に向って、上り坂の細い小道が、深い木立ちの中へと伸びている。
木々に覆われた暗く険しい坂を上りきると、思いもよらず、目の前に無粋な光景が立ち現れる。すなわち、大乗院の南に位置する現代の墓地である。
土屋一族の墓所と館跡から感じられた長閑さの余韻は、此処で断ち切られ、きれいに雲霧消散するに至る。
墓地の南側の道を西に行くと、「土屋城址」の案内板がある。
平塚市博物館の図録『平塚と相模の城館』によると、其処より西の小字「高神山(こうじんやま)」には丘陵の尾根があったが、土取り工事によって跡形もなく消滅してしまい、かつての景観を知る由もない、ということである。
なお、大乗院の南にある墓地の標高は76.1mで、周囲より高いが、これは、尾根先端部の名残りであるということである。
いずれにしても、現状からは、いにしえの土屋城を偲ぶことは難しい、と言わざるを得ない。
2012年6月13日における「土屋城址」現況
2012年6月13日における大乗院
大乗院
さて、大乗院(星光山弘宣寺)は、「土屋三郎宗遠が堂塔を再建したと伝えられる寺院である」というが、本堂の西側に土塁状の高まりがあるという。
しかし、新しい堂舎の造築工事のため、境内の西側には立ち入ることはできず、遺構を確認することはできなかった。
大乗院の北には、熊野神社がある。この神社は、土屋三郎宗遠が紀州熊野より熊野権現・十二社権現を勧請したものであるという。
熊野神社も、大乗院と同様、土屋館の背後に構えられた防禦区画として、土屋城の一部を構成していたと考えられている。
なお、熊野神社の西には立派な門構えの旧家があり、大いに訪問者の目を惹く。
熊野神社から、大乗院の西方にある道を南に向い、「土屋城址」の案内板がある場所に再び戻る。
其処から、「土屋一族供養塔・館址」への道標に従って、木々の中を下って行く細い坂道を進むと、先の「土屋一族の墓」の案内板が立っている場所に至る。
今度は墓には寄らず、もと来た道を戻り、そのまま坂を下りていった。
「座禅川橋」の北の地点に出たところで、其処から西の方に位置する「源水(げんずい)の横穴(おうけつ)」なるものを見ようと思い、神奈川大学と秦野駅とを結ぶバスが通る道(歩道がある)を西に進んだ。
ところが、この道からは「源水の横穴」に至らないようである。今さら引き返すのも面白くないので、次の枝道がある所まで、と西に向って歩き続けた。
「自治会館前」のバス停がある「上庶子分自治会館」に至り、ようやく、座禅川の方へ下る道があった。そこで、新道を離れ、県道77線にまで下りていったのである。
上庶子分自治会館
其処からは、東へ「座禅川橋」方面に引き返すという手もあったが、そのまま戻るのも気が進まなかったので、土屋の「惣領分」の方へ、
芳盛寺
(土屋山無量寿院。もと阿弥陀寺。土屋宗遠が開基であるという)さらに愛宕神社に向って、取り敢えず行ける所まで行ってみよう、と県道を西(正しくは南西)に向って歩いた。この辺りは県道に歩道があるので、自動車に脅かされることなく、安心して歩くことができる。
「琵琶入口」バス停
座禅川に架かる「脇橋」の先、芳盛寺まであとわずかの所にバス停があった。「琵琶入口」である。時刻を見ると、ちょうど三〜四分後の17時32分に、七国(ななくに)峠を越える「秦野駅南口」行き神奈川中央交通「平76」系統バスの便があることを知った。
そのバスに乗れば、土屋一族の本家にあたる中村氏の本拠地である、中井町(中村と井ノ口の合成地名)の中村川流域に至る道の状況を知ることもできるであろう。そこで、芳盛寺詣では次に回すことにして、その日の土屋探訪を、急遽、打ち切ることとしたのである。
一日12本しか走っていない「秦野駅南口」行き「平76」系統バスは、定刻どおりにやって来た。進行方向、運転席の左、最前列の座席が空いていたので、そこに座った。
バスは、まもなく七国峠の山越えの道にかかった。歩道はなくなった。二車線あるが、道幅はあまり広くなく、大型自動車同士のすれ違いは困難であるように思われる。ときどき木の枝葉がバスの側面を撫でる。この道を歩いて峠を越えるのは危険極まりなく、無謀なことであると知ることができた。
なお、七国峠の手前の地点、進行方向右手に、なかなか素晴らしい広大な眺望があったが、ひた走るバスは、あっという間に其処を通り過ぎたのであった。
ささやかながら思いもかけず迫力があった峠道であるが、七国峠の周辺はゴルフ場と化しており、芬々と俗気が漂っているように思われた。
さて、峠を越えたバスは、長い坂をひたすら駈けおり、中井町の井ノ口まで一挙に下った。其処から方向を転じて北に向かうと、市街地を走るごく普通の乗合バスに姿を変え、東名高速道路の秦野中井インターチェンジを経て、18時より少し前、終点「秦野駅南口」に到着したのである。
秦野駅構内にて
こうして、初めての土屋探訪は、次回に訪問すべき場所を幾つか残したとはいうものの、ともかく無事に終えることができたのであった。
付記。颱風一過の平成二十四年六月二十日水曜日、二度目の土屋訪問を果たした。御世話になった地元の方々に、心より御礼を申し上げる。
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