「梅若塚」(春日部市新方袋の満蔵寺)

満蔵寺の「梅若塚」

 桜が満開の202242日、例の如く古自転車にまたがって春日部方面を巡り、春日部市 新方袋の満蔵寺の傍らにある「梅若塚」に立ち寄りました。

満蔵寺 満蔵寺

 「梅若塚」は、申すまでもなく能「隅田川」所縁の史跡です。東京都墨田区のほかに、なぜ春日部にも「梅若塚」があるのか ―― と思われる向きもあるかも知れませんが、おそらく春日部市民ならば周知のとおり、東武鉄道春日部駅から北方の地点において、古利根川と古隅田川が合流しております。

古利根川と古隅田川の合流点
↑古利根川(右)と古隅田川(左)の合流点
↓古隅田川
古隅田川

 古隅田川の南岸、県立春日部高校の北東に位置する春日部八幡神社には「都鳥の碑」があり、古隅田川の上流にあたる旧古隅田川には、豊春小学校の傍らに「業平橋」も架かっております。
 古隅田川と旧古隅田川の沿岸は宅地化が進んでおりますが、川筋には古い堤防も部分的に残っており、その一部は「古隅田公園」として保全されております。
 それはさておき、「梅若丸」の父とされる「吉田少将惟房」なる人物は、円融天皇の御代に実在していたとは到底、考え難く、「梅若塚」は、史実とは認めがたい中世の伝説が具象化されたものと考えるべきなのしょう。

満蔵寺の「梅若塚」

満蔵寺の「梅若塚」

 しかし、「梅若丸」伝説には、それが成立した時代の諸相が反映されていることは言うまでもなく、現実に存在したと思われる悲惨な最期を遂げた人身売買の被害者となった少年たちの運命に対する中世の人々の共感が、貴種流離譚と結びついたものなのでしょう。
 中世における「吉田」を称号とした公家としては、吉田定房が有名ですが、定房の両子息、宗房と守房は南朝に仕えております。吉田家が属する勧修寺流藤原氏は、弁官を歴任する「名家」の家格ですが、吉田宗房は、少将、中将と近衛将を歴任しております。「梅若丸」の父とされる「吉田少将惟房」なる架空人物は、あるいは、吉田定房の後裔に仮託されて創作されたのかも知れません。
 ちなみに、「吉田神道」で有名な吉田家は卜部氏で、堂上公家となったのは徳川家康よりも後のことで、当然、「梅若丸」伝説とは無関係です。

満蔵寺の「梅若塚」

 梅若丸の命日とされる旧暦三月十五日には法要も行われ、宝生流(シテ方)で謡曲「隅田川」が謡われるとの由です。「梅若塚」の傍らには、宝生九郎師、今井泰男師と宝生流(シテ方)関係の石碑もあります。
 能(謡曲)「隅田川」には、聴かせどころとして、ワキ(船頭)の語りがあります。語り始めは他人事としてアッサリと、しかし、語っているうちに知らず知らず情感が強まっていき、語りの最後には、つい感情が籠り過ぎたことに気付いてハッと我に帰る、という語りが個人的には好きですが、実は私は「隅田川」を師匠から直接習ったことがありませんので、このような理解で正しいものか、自信はありません。

満蔵寺の「梅若塚」

 満蔵寺は、埼玉県指定天然記念物「御葉附銀杏」でも有名です。私が訪れた時には、まだイチョウは芽吹いておらず、また、寺の門は閉ざされており、やや遠くから眺めるよりほかありませんでした。

満蔵寺

 満蔵寺には駐車場があります。
 鉄道を利用する場合は、東武野田線の八木崎駅が最寄りですが、1kmあまりの距離があります。寺の東側には古隅田川の旧河道があり、北東方向(工業団地側)からは寺へ入ることができません。八木崎駅から大宮方面へ線路に沿って南西に歩き、「新方袋」交差点で国道16号線を横断して道なりに西さらに北西へと進みますと、満蔵寺の参道に到ります。天候が良ければ、さらに慈恩寺まで足を延ばしても良いでしょう。
2022.6.13.記. 修訂あり

満蔵寺の「梅若塚」
(写真はすべて202242日撮影)



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