小田城跡訪問
2024328日)

小田城跡

 北畠親房ゆかりの史跡を、大宝城跡・関城跡に続き、2024328日、小田城跡を訪れました。例の如く45年モノの古自転車に乗ってです。

 ・つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡歴史ひろば」パンフレット
  https://www.city.tsukuba.lg.jp/material/files/group/156/oda.pdf

 経路は、往きは岩井・沓掛・宗道経由で、帰路は常陸北条・水守をまわり三妻・菅生経由です。野田市南部地区から小田へ行くには、地形(河川)の関係上、四角形の二辺を経て対角へ到るような具合とならざるを得ません。
 実は、前日の327日に決行する腹づもりだったのですが、その前の晩、何を血迷ったものか、夕食後に濃いコーヒーを飲んでしまい、それにウカされてロクロク睡眠をとることができず、睡眠不足のままで自転車に乗るのは危険、と一日、日延べしました。
 当初の予定日は晴天でしたが、決行当日は曇天でした。おかげで日焼けによる身体的消耗が少なくなり、かえって自転車乗りには都合がよかったです。
 自宅を830分少し過ぎに出発し、9時、芽吹大橋を渡り、例の如く北へ利根川の堤防を進み、(旧)小山の渡し付近を経て925分、平将門像のある岩井の坂東市総合文化ホールに少し立ち寄り、938分、屋根葺き替え工事中の国王神社を参拝しました。
 
国王神社
国王神社
 
 昨20231017日の小島草庵跡・多賀谷城址、同年111日の大宝城跡・関城跡と二度にわたって下妻方面へ行きました時とほぼ同じ経路を取り、1030分頃、下妻市千代川公民館(旧千代川村役場の隣)に少し立ち寄りました。
 そこから関鉄常総線宗道駅北方の踏切を渡り、さらに東進します。昨年10月は、踏切の少し先を左折して、親鸞聖人の小島草庵跡に向かいましたが、より以東は自転車では未踏の地となります。ひきつづき県道56号つくば古河線を直進、1045分頃、大園木の甲神社という村社(祭神は阿部宗任命、経津主命)を参拝しました。
 
大園木 甲神社
大園木 甲神社
 
 1050分、小貝川の「愛国橋」に到りました。この橋の手前左手(西詰北側)には「子飼之渡」案内標柱があります。
 
「子飼之渡」案内標柱
「子飼之渡」案内標柱
 
「子飼之渡」案内標柱
愛国橋
 
 その説明文には主語がなく、残念ながら理解困難な悪文です。『将門記』に拠ると「子飼之渡」は、平将門と敵対する伯叔父 平良兼が、「故上総介高茂王」(将門の祖父 高望王)と「故陸奥将軍平良茂」(将門の父 平良持)の「霊像」を陣前に押し立てて、甥 将門の軍を撃破した古戦場ですが、その「子飼之渡」が愛国橋の付近であったという歴史的保証はありませんし、当時の小貝川が現在の流路であったか否かも確認困難でしょう。尤も、将門の叔父で良兼と組んでいた平良正の根拠地であった水守方面から、将門の本拠地であった豊田へと向かう途上の渡河点が、その周辺のどこかに位置した、ということは妥当なところかと思われます。
 欄干が低い「愛国橋」を渡った先を右折して旧道に入り、曲がりくねった上り坂の左手に現れた吉沼八幡神社を、1100分頃、参拝しました。
 
吉沼八幡神社
吉沼八幡神社
 
 東へ少し進みますと、1107分頃、古い町並みが残る吉沼の内町に到りました。
 
吉沼内町
 
吉沼内町
吉沼 内町
 
 そこには、「太政官布告高札場」が現存しております。
 
吉沼内町
   
吉沼内町
 
 さらに東へ少し進み、1112分、吉沼郵便局で記念(?)に千円を下ろしました。
 少し西へ戻り、県道56号つくば古河線の旧道(吉沼の市街地でクランク状になっております)を進みましたが、少し寄り道して、「つくば市吉沼交流センター」(旧 公民館)に立ち寄りました。
 
つくば市吉沼交流センター
つくば市吉沼交流センター
 
 1120分頃、県道56号つくば古河線に戻り、東へ進み、新道と合流し、さらにずっと進んでいきますと、「セブン-イレブンつくば篠崎店」の付近で道が分かれます。左手が旧道、直進するのが新道で、本来ならば旧道を進むべきだったのですが新道を進んでしまいました。新道の南側(右手)は、筑波学園都市の一角なのでしょうか、いかにもそれらしい雰囲気です。あとで地図で調べてみますと、国立研究開発法人建築研究所や教職員支援機構などといった施設でした。
 次の信号は「学園西大通り」との交差点で、そこを左折すれば、そのまま小田城跡方面に到るのですが、疑いもせずに直進してしまい、街中で道を失いかけました。曇天ですと方角が分かりにくいのですが、このような時は、文明の利器、スマホの位置情報に頼るのが得策です。
 県道53号線は、名を「つくば古河線」から「つくば千代田線」に改めます。さらに東へ進みますと長い下り坂で、1150分頃、桜川を「太田橋」で渡り、県道53号つくば千代田線の旧道(一部区間は廃道となっております)を進みますと、ちょうど1200分に、小田城跡の「曲輪X」のはずれに達しました。
 
小田城跡
宝篋山麓の小田城跡
 
 北に向かい、小田城跡東北のトンネル状の入り口(筑波鉄道の切通し跡)から城内「建物域」に入りました。
 
小田城跡
 
小田城跡
小田城跡東北の筑波鉄道の切通し跡
 
 小田城跡内では、約一時間、ゆったりと時を過ごし、史跡として整備された部分は、くまなく歩きまわりました。
 
小田城跡
小田城跡「建物域」の説明板
 
小田城跡
筑波鉄道廃線跡
 
小田城跡
曲輪Xの一角 ── 筑波山と宝篋山を背に
 
小田城跡
曲輪Xにおける、筑波町時代に立てられた説明版
 
 南側の木立の中の石碑二基を眺めておりましたところ、鳥に白い液状の糞を落とされ、左袖にかかりました。頭上から外れたのは幸いでした。これもまぁ運がついたということでございましょう。
 
小田城跡
 
 中世城郭跡を十分に堪能し、ちょうど1300分に小田城を離れました。
 
小田城跡
 
小田城跡
 
 旧筑波鉄道の廃線跡を北へ向かいますと、いくばくも進まないうちに、北畠親房を顕彰した「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑があります。
 
「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑
 
「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑
「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑
 
 その傍らには、三村山極楽寺跡から出土したという五輪塔群が柵の中に置かれておりますが、あたかも檻に入れられているかのようで、あまり大切に扱われていないという印象を受けます。
 
五輪塔群
 
五輪塔群
三村山極楽寺跡出土の五輪塔群
 
 そこから目と鼻の先の「小田城跡歴史ひろば案内所」は、筑波鉄道小田駅の跡地に建てられた施設で、「小田氏治」「小田城跡歴史ひろば」と大書した幟が風にたなびいております。
 
小田城案内所
小田城跡歴史ひろば案内所
 
 しかし、中に入るのは次の機会に委ねます。
 その北側には、昭和四十三年一月筑波町教育委員会建立「小田城阯」碑と巨大な五輪塔があります。
 
「小田城阯」碑
「小田城阯」碑
 
 「小田城阯」碑には「北畠親房卿が本城に拠り職源抄を著し神皇正統記を起稿して有名である」と記されておりますが、もちろん(?)小田氏治の名はありません。小田氏治が有名になったのが比較的最近である事実をここからも窺い知ることができ、興味深いです。
 小田城関係の碑文類は、小田駅跡の北側の「右小田城阯」碑が、北に向かっては最後の一基となりましょうか。
 
「右小田城阯」碑
「右小田城阯」碑
 
 そこを離れたのは結局、1315分頃で、いささか時間を取り過ぎたようです。
 筑波鉄道廃線跡の自転車専用道を北へ快走しますと、1325分、次の駅のプラットホーム跡が見えてきました。常陸北条駅跡です。
 
常陸北条駅跡
 
常陸北条駅跡
常陸北条駅跡
 
 常陸北条駅には、かつて筑波鉄道廃止の日に立ち寄ったことがございます(「筑波鉄道最後の日における常陸北条駅」)。
 それにつけても、筑波鉄道の廃止は本当に惜しまれます(鹿島鉄道についても同様です)。鉄道線路によって分断された小田城跡にとりましては、鉄道が廃止されたおかげで多少なりとも旧状を回復できたので良かったのでしょうが、鉄道があるとないとでは、外部からの訪問客にとりましては大違いです。公共交通を利用する訪問客にとりましては、例えば、古い町並みで有名な真壁へ赴く敷居が非常に高くなってしまいましたことは、明白な事実です。
 それはさておき、常陸北条駅跡から、平将門の叔父にして宿敵の平良正の根拠地、水守へと向かいます。その途中、旧道を通り、1335分頃、泉の「子育観音」として知られる勢光山慶龍寺に参詣しました。
 
勢光山慶龍寺
勢光山慶龍寺
 
 ・慶龍寺サイト:
  https://www.izumi-kosodate.com/
  (このサイトには建造物等の由緒に関する記載がないのが残念です)

 表御門(山門)は、貞亨四年(一六八七)に土浦藩主土屋政直が寺領を寄進した際に造営されたとの由で、華やかな極彩色で飾られ、二重の屋根の間は寺院らしからぬナマコ壁で、一見の価値があります。
 
勢光山慶龍寺 表御門
 
勢光山慶龍寺 表御門
勢光山慶龍寺 表御門
 
 また、鐘楼は、廃仏毀釈の際に筑波山中禅寺から慶龍寺に移築されたものであるそうです
 
勢光山慶龍寺 鐘楼
勢光山慶龍寺 鐘楼
 
 子育観音のすぐそばに天狗党の墓があることは、事前に地図上で確認していたのですが、つい失念しておりました(万事、この調子です)。これもまた次の機会に。
 県道213号高野北条線で桜川を渡り、やや急な坂を上りつつある右手に「円乗寺」という寺院がありましたが、門の正面からは本堂が見えません(1345分頃)。
 
円乗寺
円乗寺
 
 「廃寺なのであろうか?」と思いつつ、門前に自転車を停めて境内に入ってみますと、奥の左手に、あたかも地区公民館の集会場のような建物がありました。それを離れたところから眺めただけで、引き返しました。
 そこから西へと向かい、国道408号線の下をくぐり、国道の西側にほぼ並行する道を北に向かってウネウネと少し進んだ先で左折して西へ進みますと上り坂です。自転車では登り切れず、下りて自転車を押して坂道を上がり、再び自転車にまたがり、西へ進んだ突き当りの丁字路を左折して少し南下、右折した先の突き当りの丁字路のあたりは、平良正の本拠地として知られる水守の中心域です(1355分頃)
 
水守
つくば市 水守
 
 水守には立派な構えの家が多く、重厚さを感じます。
 ところが、あいにく雨が降り始めました。その丁字路の北西に位置する水守香取神社を参拝したかったのですが、断念して帰路を急ぐことにしました。
 水守の中心域を南北に走る道を南下し、「筑波水守簡易郵便局」の少し先を右折します。
 
筑波水守簡易郵便局
筑波水守簡易郵便局
 
 そこからは、道なり一直線で県道56号つくば古河線の新道に合流し、「子飼之渡」標柱のある愛国橋に到ります。とは言いましても、それなりに距離はあります。しかも雨脚が強まりましたので、水守の中心域を抜けた先にある「小野薬品工業筑波研究所」の敷地と思われる樹林の下に自転車を寄せて雨をよけつつ、背負った鞄の中の荷物が雨に濡れないように処置した後、再び降りしきる雨の中をひたすら南西へ進みました。
 幸い雨は途中でやみました。局地的な降雨であったようです。1420分頃、「愛国橋」で小貝川を渡り、そこからは小貝川の右岸(西岸)堤防上の道を南下します。
 そして、1445分、豊田城跡石碑・案内板に到りました。
 
豊田城跡
 
豊田城跡
 
豊田城跡
 
豊田城跡
 
豊田城跡
豊田城跡
 
 その先、さらに小貝川右岸の堤防上を南下していきますと、1510分頃、いかにも古めかしい橋が見えてきました。「昭和三年四月竣功」の「福雷橋」です。
 
福雷橋
福雷橋
 
 橋のかなた、下流方面の対岸(東岸)には、いかにも新興宗教っぽい巨大な建造物が、否応なしに目に入ります。帰宅後に調べてみれば、案の定、でした。
 それはともかく、この橋の名「福雷橋」は、「福二町」と、金村別雷神社に由来する「雷神」地区とを結んでいることによるのでしょう。
 
福雷橋
 
福雷橋
福雷橋
 
 金村別雷神社の鳥居は、小貝川の対岸からもよく見えます。自転車を土手の上に止めて、土手から下りて橋を見に行きました。金村別雷神社へは、徒歩で橋から往復するには少し時間がかかりそうですので、参拝は後日に委ね、遠くから拝礼するのみに とどめます。
 
福雷橋東詰「金村別雷神社」案内標
福雷橋東詰「金村別雷神社」案内標
 
 「福雷橋」西方の福二町も、古きを感じさせる落ち着いた町並みです(1518分)。
 
福二町
福二町
 
 福雷橋から先は、しばし小貝川に沿って県道129号下妻常総線を南下し、県道123号土浦坂東線との交差点を右折し、1532分、関鉄常総線の三妻駅に到着しました。
 
三妻駅
三妻駅
 
 駅の待合室にて腰を下ろし、1545分まで休憩しました。実は、このたびの外出で、腰を下ろして休息するのは、これが最初で最後です。
 鬼怒川は、県道123号土浦坂東線の鉄橋「美妻橋」で渡りました(1555分)。この橋は自動車の通行量が多く、車道の北隣に歩道橋が併設されておりますが、幅が狭く、自転車でのすれ違いは厄介そうです。車道の鉄橋もやや老朽化している様子で、補修工事が必要なのではと感じられました。
 「美妻橋」から県道123号を坂で下り、最初の信号を渡って左折、1600分、モダンな建物の「大花羽簡易郵便局」の前を過ぎて南下します。
 
大花羽簡易郵便
大花羽簡易郵便
 
 道々、沿道には、「元三大師」安楽寺や、宝蔵寺の「累の墓」など気になる旧跡がありますが、帰路を急ぎ、立ち寄りません。
 県道354号土浦野田線旧道を横断し、そのまま南下して鬼怒川右岸にしばらく並行する旧県道(菅生方面に到りますが名称未確認)に入ろうとしましたところ、道を失い、やむなく引き返して県道354号土浦野田線旧道との交差点まで戻り、その県道を西進、豊岡町の「貫通道路入口」信号から県道58号線「貫通道路」に入り、南西へと向かいました。後で地図を確認しましたところ、これは正解でした。鬼怒川右岸にしばらく並行する旧県道は、新道開通により、非常に道がわかりにくくなっておりました。以前、自動車を運転していた時に、この旧県道を通って道を大いに誤ったことがありましたが、そのことをすっかり忘れておりました。
 ともかく、「貫通道路」をひたすら進み、「菅生」交差点を経て、その先の「原入口」交差点を右折し、法師戸水門、芽吹大橋(1700分)を経て、1731分、自宅に帰着しました。
 このたびの小田城跡行きは、距離がありましたので、時間に余裕を持たせていたつもりでしたが、それでも当初の予定よりも帰着が30分、遅くなりました。しかし、すでに彼岸も過ぎて日が長くなっておりますので、まったく心配はありませんでした。
 こうして無事に戻ることができましたが、自転車から下りた後、しばらくは足腰がガタガタガクガクで、歩行にも支障を来たしておりました。しかし、意外と疲れが長引くことはなく、翌日にはほぼ通常に復しました次第。
 今回の走行距離は、どうやら100kmを超えたようです。出発から帰宅までの9時間のうち、ほぼ7時間30分は自転車のペダルを漕いでいた道理ですので、速度はそれほどではなくても、確かにそのくらいの距離には達してしまいます。
 小田城跡訪問という所期の目的は達しましたが、多気城跡のある北条と、平良正の本拠地であった水守は、結局、ほぼ通過しただけでしたので、後日あらためて訪れたいものでございます。

勢光山慶龍寺 表御門(山門)
勢光山慶龍寺 表御門
 
筑波山
筑波山
2024329日初稿、2024415日改稿公開



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