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モンゴル帝国解体後の中央アジアにおけるカザフ汗国とカザフ王族 https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/60591/ 講義概要 モンゴル帝国を建てたチンギス・ハンの子孫は現在、モンゴル民族だけでなく中央アジアのカザフ民族の間にも数多く存在します。チンギス・ハンの長男ジュチの十三男トカテムルには顕著な事蹟がありませんが子孫は非常に繁栄し、モンゴル帝国の西北部を占めたキプチャク汗国の汗位は14世紀後半以降、彼らが多く占めました。彼らの中からカザフ汗国の建国者が現われ、同国のもとでカザフ民族が形成されました。同国が帝政ロシアに併合された後も、チンギス・ハンの後裔たるカザフ王族は貴族として特権を保ち、カザフ近代史に大きな影響を与えた人物も輩出しました。本講座ではモンゴル帝国解体後のカザフスタン地域の歴史を人物中心に概観します。 第1回 09/29 キプチャク汗国の解体とカザフ汗国の成立 チンギス・ハンの長男ジュチの後裔を戴いたモンゴル帝国の西北政権キプチャク汗国は14世紀中葉頃、嫡系にあたるジュチの二男バトと長男オルダの子孫が断絶し、傍系である五男シバンと十三男トカテムルの子孫が抬頭、その過程で分裂しました。トカテムルの後裔の一人オロスはキプチャク汗国東部を統一しましたが、その統一は彼の子の代に失われました。彼の二人の曾孫ケレイとジャニベクは1470年頃、後世の研究者からカザフ汗国と呼ばれることになる政権を建てました。第1回はカザフ汗国建国までの歴史を簡述します。 第2回 10/06 16世紀におけるカザフ汗国の発展と隆盛 カザフスタン東南部に興起したカザフ汗国は、ウズベク(ジュチの五男シバンの後裔アブルハイル汗とシャイバーニー朝)との抗争を繰り返しつつ勢力を拡大し、16世紀末、タシケントを獲得しました。また、衰退した東チャガタイ汗国(モグーリスターン汗国)から離脱した天山北麓地域の騎馬遊牧民集団(ドグラト族)を組み込み、また、カザフスタン西部のノガイ・オルダ(マングト族)の一部も編入し、中央アジアにおける最強の騎馬遊牧民政権としての地位を確立しました。第2回は、全盛期のカザフ汗国について説明します。 第3回 10/13 ボリス・ゴドゥノフに仕えたカザフ王族、オラズ=ムハンマド モスコヴィア(ロシア)の俘虜となったカザフ王族オラズ=ムハンマドはモスクワ皇帝ボリス・ゴドゥノフに仕え、モスコヴィア領内の従属政権カシモフ汗国の君主となりました。彼の重臣、ジャライル族のカーディル=アリー・ベクは、『歴史集成』の名で呼ばれるテュルク語史料を残しました。本史料は、イスラム教徒の著者がキリスト教徒のモスクワ皇帝を賛美するという稀有な存在ですが、後期キプチャク汗国、カザフ汗国、カシモフ汗国史の史料として重要です。第3回は、数奇な運命をたどったカザフ王族とその周辺について解説します。 第4回 10/20 17〜18世紀におけるオイラト(カルマク)の侵攻 モンゴル高原西部からジュンガル盆地を本拠地とした西モンゴル系のオイラト集団(テュルク語でカルマクと称されました)は、17〜18世紀、たびたびカザフ汗国を攻撃して猛威を振るいました。特に1723年におけるジュンガル王ツェワン・アラブタン治世下のオイラトによる猛攻でカザフ人は潰滅的な大敗を喫し、後世に到るまで「裸足の逃走(アクタバン・シュブルンドゥ)」の呼称によって語り伝えられました。第4回は、外敵に苦しめられたカザフの苦難の時代について説明します。 第5回 10/27 カザフ汗国の分裂と、ロシア皇帝に臣従したアブルハイル汗 カザフ汗国は、英主として名高いタウケ汗(在位1680?〜1718)を最後に統一君主はいなくなり、集団ごとに汗が立てられて分裂しました。そして、カザフにおける大中小の三つの部族連合体「ジュズ」の存在が確認されるようになります。タウケ汗の生前に小ジュズの汗として抬頭していたアブルハイル汗は、オイラト(ジュンガル)の侵攻に対抗するために、1731年、ロシア皇帝の臣下となる宣誓を行いましたが、これが後に帝政ロシアによるカザフ併合の法的根拠となりました。第5回は、カザフ汗国分裂の諸相について概観します。 第6回 11/10 帝政ロシアと清朝との狭間でカザフ汗国を再興したアブライ汗 中ジュズの汗アブルマンベトと共に1740年、ロシア皇帝の臣下となった王族アブライは、オイラト(ジュンガル)の捕虜となる苦杯を嘗めましたが、ジュンガル王ガルダン=ツェリンの没後まもなくジュンガル政権が清朝に滅ぼされた後、1757年、清朝に帰順しました。帝政ロシアと清朝との間に巧みな二重外交を展開したアブライは、1771年、中ジュズの汗となり、カザフ汗国における最後の輝かしい時代を現出させました。第6回は、カザフスタン独立後の紙幣の意匠にもなったアブライ汗の事跡を説明します。 第7回 11/17 帝政ロシアによるカザフ汗国併合とケネサルの武力闘争 ロシア皇帝へのカザフ汗・王族の臣従は、当初、オイラトに対抗するための手段として名目的な要素が強く、汗たちは実質的に独立君主として振る舞っておりました。しかし、1781年のアブライ汗の没後、帝政ロシアはカザフ汗国の植民地化に乗り出し、汗たちの政治的権力の剥奪に着手し、1822年、中ジュズのアブライ後裔の汗が廃位され、1824年、小ジュズのアブルハイル後裔の汗も廃止されました。アブライの孫ケネサルはロシアの植民地化政策に抵抗しましたが、1847年に敗死しました。第7回は、カザフ汗国の消滅の過程をたどります。 第8回 11/24 ボケイ汗国(ブケイ・オルダ)の成立と廃止 ヴォルガ川下流東岸地域におけるオイラト(カルマク)のトルグート集団は、帝政ロシアからの圧迫から逃れるために、1771年、ヴォルガ西岸地域の人々を置き残して遠く清朝領域内へ東遷しました。小ジュズの王族ブケイ(ボケイ)は、人口稀薄となったヴォルガ・ウラル両河間地帯への移住を帝政ロシアに請願し、1801年に認められ、1812年、汗位をロシアから承認されました。こうして帝政ロシア領内にボケイ汗国が成立しました。第8回は、ロシアの支配下に汗が1845年まで存続したボケイ汗国(ブケイ・オルダ)の歴史を概観します。 第9回 12/01 ヒヴァ汗国とカザフ王族 18世紀以降、小ジュズのカザフ王族が、チンギス・ハンの子孫であるという理由のもとに、アムダリヤ下流域(ホラズム地方)におけるウズベクのヒヴァ汗国(ジュチの五男シバンの後裔が建国)の汗位に即く事例が多くなります。彼らの多くは傀儡汗に過ぎませんでしたが、彼らの一族の中には、ヒヴァ汗国とロシアの関係で重要な役割を果たした人物も現われます。曽祖父・祖父・父がヒヴァ汗となった経歴がある、小ジュズの一部の汗、アルンガズは、その一人です。第9回では、ヒヴァ汗国と関係が深いカザフ王族の事蹟を紹介します。 第10回 12/08 帝政ロシア〜ソビエト初期に活躍したカザフ王族たち カザフ王族は、帝政ロシアの支配下に入った後も、カザフ汗国以來の特権を保持し、貴族階層を構成しました。彼らの中からは、カザフ最初の近代的知識人の一人にして夭折した大学者チョカン・ワリハノフ(アブライの曾孫)、カザフ伝統音楽の巨匠ダウレトケレイ(アブルハイルの曾孫)、ロシア革命・内戦期のカザフ民族自治政府アラシュ・オルダの指導者アリハン・ブケイハノフ(ボケイハン)が輩出しています。第10回では、近代カザフ王族の事蹟を紹介し、最後に、カザフ史上におけるチンギス・ハン後裔たちの存在意義を総括します。 |