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小田城跡訪問
2024328日)

小田城跡

 北畠親房ゆかりの史跡を、
大宝城跡・関城跡に続き、2024328日、小田城跡を訪れました。例の如く45年モノの古自転車に乗ってです。

 ・つくば市教育委員会「国指定史跡 小田城跡歴史ひろば」パンフレット
  https://www.city.tsukuba.lg.jp/material/files/group/156/oda.pdf

 経路は、往きは岩井・沓掛・宗道経由で、帰路は常陸北条・水守をまわり三妻・菅生経由です。野田市南部地区から小田へ行くには、地形(河川)の関係上、四角形の二辺を経て対角へ到るような具合とならざるを得ません。
 実は、前日の327日に決行する腹づもりだったのですが、その前の晩、何を血迷ったものか、夕食後に濃いコーヒーを飲んでしまい、それにウカされてロクロク睡眠をとることができず、睡眠不足のままで自転車に乗るのは危険、と一日、日延べしました。
 当初の予定日は晴天でしたが、決行当日は曇天でした。おかげで日焼けによる身体的消耗が少なくなり、かえって自転車乗りには都合がよかったです。
 自宅を830分少し過ぎに出発し、9時、芽吹大橋を渡り、例の如く北へ利根川の堤防を進み、(旧)小山の渡し付近を経て925分、平将門像のある岩井の坂東市総合文化ホールに少し立ち寄り、938分、屋根葺き替え工事中の国王神社を参拝しました。
 
国王神社
国王神社
 
 昨20231017日の小島草庵跡・多賀谷城址、同年111日の大宝城跡・関城跡と二度にわたって下妻方面へ行きました時とほぼ同じ経路を取り、1030分頃、下妻市千代川公民館(旧千代川村役場の隣)に少し立ち寄りました。
 そこから関鉄常総線宗道駅北方の踏切を渡り、さらに東進します。昨年10月は、踏切の少し先を左折して、親鸞聖人の小島草庵跡に向かいましたが、より以東は自転車では未踏の地となります。ひきつづき県道56号つくば古河線を直進、1045分頃、大園木の甲神社という村社(祭神は阿部宗任命、経津主命)を参拝しました。
 
大園木 甲神社
大園木 甲神社
 
 1050分、小貝川の「愛国橋」に到りました。この橋の手前左手(西詰北側)には「子飼之渡」案内標柱があります。
 
「子飼之渡」案内標柱
「子飼之渡」案内標柱
 
「子飼之渡」案内標柱
愛国橋
 
 その説明文には主語がなく、残念ながら理解困難な悪文です。『将門記』に拠ると「子飼之渡」は、平将門と敵対する伯叔父 平良兼が、「故上総介高茂王」(将門の祖父 高望王)と「故陸奥将軍平良茂」(将門の父 平良持)の「霊像」を陣前に押し立てて、甥 将門の軍を撃破した古戦場ですが、その「子飼之渡」が愛国橋の付近であったという歴史的保証はありませんし、当時の小貝川が現在の流路であったか否かも確認困難でしょう。尤も、将門の叔父で良兼と組んでいた平良正の根拠地であった水守方面から、将門の本拠地であった豊田へと向かう途上の渡河点が、その周辺のどこかに位置した、ということは妥当なところかと思われます。
 欄干が低い「愛国橋」を渡った先を右折して旧道に入り、曲がりくねった上り坂の左手に現れた吉沼八幡神社を、1100分頃、参拝しました。
 
吉沼八幡神社
吉沼八幡神社
 
 東へ少し進みますと、1107分頃、古い町並みが残る吉沼の内町に到りました。
 
吉沼内町
 
吉沼内町
吉沼 内町
 
 そこには、「太政官布告高札場」が現存しております。
 
吉沼内町
   
吉沼内町
 
 さらに東へ少し進み、1112分、吉沼郵便局で記念(?)に千円を下ろしました。
 少し西へ戻り、県道56号つくば古河線の旧道(吉沼の市街地でクランク状になっております)を進みましたが、少し寄り道して、「つくば市吉沼交流センター」(旧 公民館)に立ち寄りました。
 
つくば市吉沼交流センター
つくば市吉沼交流センター
 
 1120分頃、県道56号つくば古河線に戻り、東へ進み、新道と合流し、さらにずっと進んでいきますと、「セブン-イレブンつくば篠崎店」の付近で道が分かれます。左手が旧道、直進するのが新道で、本来ならば旧道を進むべきだったのですが新道を進んでしまいました。新道の南側(右手)は、筑波学園都市の一角なのでしょうか、いかにもそれらしい雰囲気です。あとで地図で調べてみますと、国立研究開発法人建築研究所や教職員支援機構などといった施設でした。
 次の信号は「学園西大通り」との交差点で、そこを左折すれば、そのまま小田城跡方面に到るのですが、疑いもせずに直進してしまい、街中で道を失いかけました。曇天ですと方角が分かりにくいのですが、このような時は、文明の利器、スマホの位置情報に頼るのが得策です。
 県道53号線は、名を「つくば古河線」から「つくば千代田線」に改めます。さらに東へ進みますと長い下り坂で、1150分頃、桜川を「太田橋」で渡り、県道53号つくば千代田線の旧道(一部区間は廃道となっております)を進みますと、ちょうど1200分に、小田城跡の「曲輪X」のはずれに達しました。
 
小田城跡
宝篋山麓の小田城跡
 
 北に向かい、小田城跡東北のトンネル状の入り口(筑波鉄道の切通し跡)から城内「建物域」に入りました。
 
小田城跡
 
小田城跡
小田城跡東北の筑波鉄道の切通し跡
 
 小田城跡内では、約一時間、ゆったりと時を過ごし、史跡として整備された部分は、くまなく歩きまわりました。
 
小田城跡
小田城跡「建物域」の説明板
 
小田城跡
筑波鉄道廃線跡
 
小田城跡
曲輪Xの一角 ── 筑波山と宝篋山を背に
 
小田城跡
曲輪Xにおける、筑波町時代に立てられた説明版
 
 南側の木立の中の石碑二基を眺めておりましたところ、鳥に白い液状の糞を落とされ、左袖にかかりました。頭上から外れたのは幸いでした。これもまぁ運がついたということでございましょう。
 
小田城跡
 
 中世城郭跡を十分に堪能し、ちょうど1300分に小田城を離れました。
 
小田城跡
 
小田城跡
 
 旧筑波鉄道の廃線跡を北へ向かいますと、いくばくも進まないうちに、北畠親房を顕彰した「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑があります。
 
「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑
 
「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑
「史蹟 神皇正統記起稿之地」碑
 
 その傍らには、三村山極楽寺跡から出土したという五輪塔群が柵の中に置かれておりますが、あたかも檻に入れられているかのようで、あまり大切に扱われていないという印象を受けます。
 
五輪塔群
 
五輪塔群
三村山極楽寺跡出土の五輪塔群
 
 そこから目と鼻の先の「小田城跡歴史ひろば案内所」は、筑波鉄道小田駅の跡地に建てられた施設で、「小田氏治」「小田城跡歴史ひろば」と大書した幟が風にたなびいております。
 
小田城案内所
小田城跡歴史ひろば案内所
 
 しかし、中に入るのは次の機会に委ねます。
 その北側には、昭和四十三年一月筑波町教育委員会建立「小田城阯」碑と巨大な五輪塔があります。
 
「小田城阯」碑
「小田城阯」碑
 
 「小田城阯」碑には「北畠親房卿が本城に拠り職源抄を著し神皇正統記を起稿して有名である」と記されておりますが、もちろん(?)小田氏治の名はありません。小田氏治が有名になったのが比較的最近である事実をここからも窺い知ることができ、興味深いです。
 小田城関係の碑文類は、小田駅跡の北側の「右小田城阯」碑が、北に向かっては最後の一基となりましょうか。
 
「右小田城阯」碑
「右小田城阯」碑
 
 そこを離れたのは結局、1315分頃で、いささか時間を取り過ぎたようです。
 筑波鉄道廃線跡の自転車専用道を北へ快走しますと、1325分、次の駅のプラットホーム跡が見えてきました。常陸北条駅跡です。
 
常陸北条駅跡
 
常陸北条駅跡
常陸北条駅跡
 
 常陸北条駅には、かつて筑波鉄道廃止の日に立ち寄ったことがございます(「筑波鉄道最後の日における常陸北条駅」)。
 それにつけても、筑波鉄道の廃止は本当に惜しまれます(鹿島鉄道についても同様です)。鉄道線路によって分断された小田城跡にとりましては、鉄道が廃止されたおかげで多少なりとも旧状を回復できたので良かったのでしょうが、鉄道があるとないとでは、外部からの訪問客にとりましては大違いです。公共交通を利用する訪問客にとりましては、例えば、古い町並みで有名な真壁へ赴く敷居が非常に高くなってしまいましたことは、明白な事実です。
 それはさておき、常陸北条駅跡から、平将門の叔父にして宿敵の平良正の根拠地、水守へと向かいます。その途中、旧道を通り、1335分頃、泉の「子育観音」として知られる勢光山慶龍寺に参詣しました。
 
勢光山慶龍寺
勢光山慶龍寺
 
 ・慶龍寺サイト:
  https://www.izumi-kosodate.com/
  (このサイトには建造物等の由緒に関する記載がないのが残念です)

 表御門(山門)は、貞亨四年(一六八七)に土浦藩主土屋政直が寺領を寄進した際に造営されたとの由で、華やかな極彩色で飾られ、二重の屋根の間は寺院らしからぬナマコ壁で、一見の価値があります。
 
勢光山慶龍寺 表御門
 
勢光山慶龍寺 表御門
勢光山慶龍寺 表御門
 
 また、鐘楼は、廃仏毀釈の際に筑波山中禅寺から慶龍寺に移築されたものであるそうです
 
勢光山慶龍寺 鐘楼
勢光山慶龍寺 鐘楼
 
 子育観音のすぐそばに天狗党の墓があることは、事前に地図上で確認していたのですが、つい失念しておりました(万事、この調子です)。これもまた次の機会に。
 県道213号高野北条線で桜川を渡り、やや急な坂を上りつつある右手に「円乗寺」という寺院がありましたが、門の正面からは本堂が見えません(1345分頃)。
 
円乗寺
円乗寺
 
 「廃寺なのであろうか?」と思いつつ、門前に自転車を停めて境内に入ってみますと、奥の左手に、あたかも地区公民館の集会場のような建物がありました。それを離れたところから眺めただけで、引き返しました。
 そこから西へと向かい、国道408号線の下をくぐり、国道の西側にほぼ並行する道を北に向かってウネウネと少し進んだ先で左折して西へ進みますと上り坂です。自転車では登り切れず、下りて自転車を押して坂道を上がり、再び自転車にまたがり、西へ進んだ突き当りの丁字路を左折して少し南下、右折した先の突き当りの丁字路のあたりは、平良正の本拠地として知られる水守の中心域です(1355分頃)
 
水守
つくば市 水守
 
 水守には立派な構えの家が多く、重厚さを感じます。
 ところが、あいにく雨が降り始めました。その丁字路の北西に位置する水守香取神社を参拝したかったのですが、断念して帰路を急ぐことにしました。
 水守の中心域を南北に走る道を南下し、「筑波水守簡易郵便局」の少し先を右折します。
 
筑波水守簡易郵便局
筑波水守簡易郵便局
 
 そこからは、道なり一直線で県道56号つくば古河線の新道に合流し、「子飼之渡」標柱のある愛国橋に到ります。とは言いましても、それなりに距離はあります。しかも雨脚が強まりましたので、水守の中心域を抜けた先にある「小野薬品工業筑波研究所」の敷地と思われる樹林の下に自転車を寄せて雨をよけつつ、背負った鞄の中の荷物が雨に濡れないように処置した後、再び降りしきる雨の中をひたすら南西へ進みました。
 幸い雨は途中でやみました。局地的な降雨であったようです。1420分頃、「愛国橋」で小貝川を渡り、そこからは小貝川の右岸(西岸)堤防上の道を南下します。
 そして、1445分、豊田城跡石碑・案内板に到りました。
 
豊田城跡
 
豊田城跡
 
豊田城跡
 
豊田城跡
 
豊田城跡
豊田城跡
 
 その先、さらに小貝川右岸の堤防上を南下していきますと、1510分頃、いかにも古めかしい橋が見えてきました。「昭和三年四月竣功」の「福雷橋」です。
 
福雷橋
福雷橋
 
 橋のかなた、下流方面の対岸(東岸)には、いかにも新興宗教っぽい巨大な建造物が、否応なしに目に入ります。帰宅後に調べてみれば、案の定、でした。
 それはともかく、この橋の名「福雷橋」は、「福二町」と、金村別雷神社に由来する「雷神」地区とを結んでいることによるのでしょう。
 
福雷橋
 
福雷橋
福雷橋
 
 金村別雷神社の鳥居は、小貝川の対岸からもよく見えます。自転車を土手の上に止めて、土手から下りて橋を見に行きました。金村別雷神社へは、徒歩で橋から往復するには少し時間がかかりそうですので、参拝は後日に委ね、遠くから拝礼するのみに とどめます。
 
福雷橋東詰「金村別雷神社」案内標
福雷橋東詰「金村別雷神社」案内標
 
 「福雷橋」西方の福二町も、古きを感じさせる落ち着いた町並みです(1518分)。
 
福二町
福二町
 
 福雷橋から先は、しばし小貝川に沿って県道129号下妻常総線を南下し、県道123号土浦坂東線との交差点を右折し、1532分、関鉄常総線の三妻駅に到着しました。
 
三妻駅
三妻駅
 
 駅の待合室にて腰を下ろし、1545分まで休憩しました。実は、このたびの外出で、腰を下ろして休息するのは、これが最初で最後です。
 鬼怒川は、県道123号土浦坂東線の鉄橋「美妻橋」で渡りました(1555分)。この橋は自動車の通行量が多く、車道の北隣に歩道橋が併設されておりますが、幅が狭く、自転車でのすれ違いは厄介そうです。車道の鉄橋もやや老朽化している様子で、補修工事が必要なのではと感じられました。
 「美妻橋」から県道123号を坂で下り、最初の信号を渡って左折、1600分、モダンな建物の「大花羽簡易郵便局」の前を過ぎて南下します。
 
大花羽簡易郵便
大花羽簡易郵便
 
 道々、沿道には、「元三大師」安楽寺や、宝蔵寺の「累の墓」など気になる旧跡がありますが、帰路を急ぎ、立ち寄りません。
 県道354号土浦野田線旧道を横断し、そのまま南下して鬼怒川右岸にしばらく並行する旧県道(菅生方面に到りますが名称未確認)に入ろうとしましたところ、道を失い、やむなく引き返して県道354号土浦野田線旧道との交差点まで戻り、その県道を西進、豊岡町の「貫通道路入口」信号から県道58号線「貫通道路」に入り、南西へと向かいました。後で地図を確認しましたところ、これは正解でした。鬼怒川右岸にしばらく並行する旧県道は、新道開通により、非常に道がわかりにくくなっておりました。以前、自動車を運転していた時に、この旧県道を通って道を大いに誤ったことがありましたが、そのことをすっかり忘れておりました。
 ともかく、「貫通道路」をひたすら進み、「菅生」交差点を経て、その先の「原入口」交差点を右折し、法師戸水門、芽吹大橋(1700分)を経て、1731分、自宅に帰着しました。
 このたびの小田城跡行きは、距離がありましたので、時間に余裕を持たせていたつもりでしたが、それでも当初の予定よりも帰着が30分、遅くなりました。しかし、すでに彼岸も過ぎて日が長くなっておりますので、まったく心配はありませんでした。
 こうして無事に戻ることができましたが、自転車から下りた後、しばらくは足腰がガタガタガクガクで、歩行にも支障を来たしておりました。しかし、意外と疲れが長引くことはなく、翌日にはほぼ通常に復しました次第。
 今回の走行距離は、どうやら100kmを超えたようです。出発から帰宅までの9時間のうち、ほぼ7時間30分は自転車のペダルを漕いでいた道理ですので、速度はそれほどではなくても、確かにそのくらいの距離には達してしまいます。
 小田城跡訪問という所期の目的は達しましたが、多気城跡のある北条と、平良正の本拠地であった水守は、結局、ほぼ通過しただけでしたので、後日あらためて訪れたいものでございます。

勢光山慶龍寺 表御門(山門)
勢光山慶龍寺 表御門
 
筑波山
筑波山
2024329日初稿、2024415日改稿公開



四月五日より、早稲田大学エクステンションセンター公開講座(オンライン)にて、キプチャク汗国史講座が開講しております。開講後でも、途中からの受講は可能です。
 
キプチャク汗国の歴史
ヨーロッパを震撼させ中世ロシアをも支配した西北のモンゴル帝国

https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/62930/

講義概要
 チンギス・ハンの長男ジュチは1206年のモンゴル帝国建国に際し軍民・牧地を分配され、ジュチ・ウルス(ジュチのくに)が成立しました。帝国の拡大に伴い同ウルスはドナウ川下流域からアルタイ山脈に至るキプチャク草原全域に領域を拡大し(地名に基づきキプチャク汗国と呼ばれます)、ルーシ(中世ロシア)をも支配下に入れました。モンゴル人(ルーシからタタールと呼称)は14世紀中葉までに言語的にテュルク化、宗教的にイスラム化し、モンゴル的伝統を残しつつも変容し、汗国はモンゴル帝国崩壊後も存続しましたが、15世紀に分裂しました。本講座では、キプチャク汗国とその継承政権の16世紀までの歴史を、政治史中心に紹介します。

第0回 3/16 (事前宣伝講座)

第1回 4/05 薄倖の皇子、チンギス・ハンの長男ジュチ
 モンゴル高原を統一して1206年にモンゴル帝国を建国したチンギス・ハンは、子弟に軍民(遊牧民)・遊牧地を分配し、長男ジュチには四つの千戸を賜与し、アルタイ山脈北西方面を本拠地とするジュチ・ウルス(ジュチのくに)が成立しました。ジュチは南シベリアの「森の民」を服属させましたが、キプチャク草原(ドナウ川下流域からアルタイ山脈に至る大草原)西部の征服を果たすことなく死去しました。第1回は、ジュチ・ウルスの成立とジュチの事蹟を取り上げます。

第2回 4/12 大モンゴル帝国の西半部を実質的な支配下に置いた実権者、ジュチの二男バト
 ジュチ没後、ジュチ家当主となった二男バトは、第二代皇帝オゴデイ期に行われた、「リーグニッツの戦い」で特に有名なモンゴルの中欧遠征を率い、第三代皇帝グユクとの対立を経て、第四代皇帝モンケの即位に大いに貢献し、モンケ期にはモンゴル帝国西半部を実質的に支配下に置き、絶大な権勢を振るいました。第2回は、モンゴル帝国史上、知名度において五指に数えられるバトの事蹟と、ジュチ・ウルスの分封構造について説明します。

第3回 4/19 モンゴル皇室最初のイスラム教徒、ジュチの三男ベルケ
 バトとバトの諸子の死後、ジュチ家当主となったベルケは、モンゴル皇室最初のイスラム教徒として、少なからぬイスラム史書では極めて高く評価されておりますが、イラン地域にイル汗国を樹立したモンケの子フレグと対立した結果、西アジアにおける権益を全て喪失し、中央アジアにおける権益も大損害を被り、バト時代のジュチ家の権勢は失墜しました。第3回は、その実態は「失地王」に近いと言うべきベルケの事蹟をモンゴル帝国史の中に位置付けます。

第4回 4/26 モンゴル帝国の内訌におけるジュチ家の立場
 第四代皇帝モンケ没後のモンゴル帝国の内訌において、オゴデイの孫カイドのもとに反フビライ勢力が結集し、カイドを盟主とした政権が中央アジアに樹立されました。ジュチ家とカイド政権は、最終的には敵対関係となりましたが、モンゴル帝国の内訌を収束に導く道を開いたのは、ジュチ・ウルス左翼政権の当主バヤン(バトの兄オルダの曾孫)でした。第4回では、モンゴル帝国の内訌におけるジュチ家の立場を明らかにすることを試みます。

第5回 5/10 トクタと有力王族ノカイとの抗争
 ジュチ家の傍系有力王族ノカイの支援によってジュチ家当主の地位を獲得したトクタ(バトの曾孫)は、姻族の宗教問題が原因でノカイとの関係が悪化し、両者は二度にわたって会戦し、最終的にトクタが勝利を収めました。さらにトクタは、ノカイの諸子をも打倒し、その旧領を自身の兄弟、その後、両子に分配しました。第5回では、有力王族ノカイの抬頭と、トクタによるジュチ・ウルス西部の再編成について解説します。

第6回 5/17 キプチャク汗国の全盛期、ウズベク汗とジャーニーベク汗の治世
 トクタ没後、トクタの子と、彼を支持する部将たち、および、他の諸王子を殺戮して即位したウズベク汗は、ジュチ・ウルスの実質的統一を完成させ、ジュチ・ウルスをイスラム化させました。ウズベク汗のもとには、有名な旅行家イブン・バットゥータも訪れています。ウズベク汗の子ジャーニーベク汗は、イル汗国分裂の混乱下にあるアゼルバイジャンを征服し、ジュチ・ウルスの最大版図を現出しました。第6回は、ジュチ・ウルスの全盛期にあたる両汗の治世を取り上げます。

第7回 5/31 トクタミシュによる束の間の再統一と、キプチャク汗国の没落
 ジャーニーベク汗暗殺後、ジュチ・ウルスは大混乱に陥り、バトと、バトの兄オルダの子孫が断絶し、代わって傍系王族、ジュチの五男シバンと同十三男トカ=テムルの子孫が抬頭しました。彼らの一人トクタミシュ汗は、中央アジアの覇者ティムールの支援を受けて対立勢力を撃破し、さらにジュチ・ウルスの再統一を果たします。しかし、ティムールに敵対し、二度にわたるティムールの親征を招き、首都サライは破壊されました。第7回は、14世紀後半におけるジュチ・ウルスの没落について言及します。

第8回 6/07 キプチャク草原西部における所謂「タタール三汗国」の成立
 15世紀には、ジュチ・ウルスを構成する諸集団(氏部族)が各々ジュチ裔を擁立して抗争を重ね、通説的な歴史叙述に従えば、キプチャク草原の西部に、キプチャク汗国の正統政権と位置づけられる「大オルダ」のほか、クリミア汗国、カザン汗国、アストラハン汗国が成立し、また、非チンギス・ハン裔のマングト氏族のノガイ・オルダも自立しました。第8回では、15世紀のキプチャク草原西部における諸政権の成立過程について説明します。

第9回 6/14 キプチャク草原東部における所謂「遊牧ウズベク国家」の成立と解体
 15世紀中葉、所謂「遊牧ウズベク国家」のアブル=ハイル汗(シバン裔)がキプチャク草原東部を統一しました。しかし、カルマク(オイラト)に敗北し、遊牧君主としての求心力がやや低下し、カザフ汗国の分離を招きました。アブル=ハイル汗の没(1468年)後、「遊牧ウズベク国家」は崩壊し、西南シベリアにテュメン汗国(シベリア汗国の前身)が、アムダリヤ下流域のホラズム地方にヒヴァ汗国が成立しました。第9回では、キプチャク草原東部における諸政権の分立を取り上げます。

第10回 6/21 モスコヴィアによるカザン汗国、アストラハン汗国、シベリア汗国の併合
 16世紀において、国力を増強したモスコヴィアのイワン四世(雷帝)によって、カザン汗国が1552年に、アストラハン汗国が1556年に併合され、また、シベリア汗国も1582年にコサック隊長イェルマクに首都を占領されて崩壊しました。第10回は、16世紀にモスコヴィアによって滅ぼされた三汗国の歴史を概観し、最後に、ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)の世界史上における重要性について総括します。




赤坂恒明 監訳/金山あゆみ 訳注『ラシード=アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』(風間書房, 2022.4. https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=2446)が、現在、発売中です。気合を入れれば大学生でも購入できる価格に設定されております。風間書房の意気に応じていただければ幸いです。
2022.5.1



978-4-642-08369-0

日本史史料研究会 監修
 
赤坂恒明
 
「王」と呼ばれた皇族
 
  古代・中世皇統の末流

 
東京、吉川弘文館、二〇二〇年一月
 
(発売:二〇一九年十二月二十日)
 
ISBN 978-4-642-08369-0
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b487640.html


細々と発売中の本書にも、「個人用電子書籍」が、202111月より、紀伊國屋書店の「Kinoppy」等で配信される、との由です。価格は紙の書籍と同額です。なお、電子版の発売にともない、紙の書籍の存在意義が相対的に低くなります。紙の書籍の購入を御検討の方は、拙著『ジュチ裔諸政権史の研究』の如く品切・絶版となって入手不可能となる前に、お早目に御購入いただければ、と存じます。
2021.10.21



小文「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」所載の 渡邊大門 編『歴史が拓く未来』(市川、歴史と文化の研究所、2021.1)は、発行されるや即日、品切れとなり、その後、ごく少部数が増刷されましたが、同じく品切れとなりました。本書を所蔵する図書館・研究機関は、私の把握する限り、国立国会図書館と八王子市図書館のみです。そこで、すでに稀覯書と化しております本書の517頁に所載の小文を、編者 渡邊大門先生から御認可いただきまして、ネット上に公開いたしました(ただし、「おわりに」の大部分は公開を差控えております)。学術論文ではなく、小著『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流 』で割愛した文章を増補修訂した、一般読者向けの文章です。御一読いただければ幸いです。
2021.4.28



赤坂恒明のページ


過去に掲げた探訪記・写真等



● 以前に使用していた電子メール・アドレス「akasaka@aoni.waseda.jp」は既に廃止されております。

● かつて私が或る公開講座にて語った内容が、甚だ不正確に解釈された形で、私の発言として或るブログに書かれております。しかし、そのようなことは全く述べておりません。まことに困ったことです。

● 本ページのアドレスは、二〇〇四年九月末、
   http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3312/index.html
 から
   http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/index.html
 に変更され、更に二〇一九年二月十三日、
   http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/index.html
 に変更されました。




ウクライナ共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国クリミア自治共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ドネツィク(ドネツク)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ヘルソン州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国オデサ(オデッサ)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)



過去の記事より

 
(再公開作業中)


 
早稲田大学図書館所蔵平田本『諸家近代系図』公開

 
煩悩の数だけある音源 モルドバのアントノフカ・レコーヅ
  「音源紹介 Antonovka Records

 
2020年全ロシア国勢調査の衝撃

 
マリウポリのクインジ記念美術館の破壊

 
戦禍のマリウポリとクリミア・ギリシア人

 
「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」Реве та стогне Дніпр широкий ウクライナ民族の象徴的歌曲
  「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」(「広きドニエプルの嵐」)のウクライナ語カタカナ歌詞 PDF

 
訃報 マリア・索(瑪麗亞・索 / 瑪利亞索 Maria Sologon / Мария Сологон)老(19212022) オルグヤ・エベンキ人の民俗文化伝承者

 
哀悼 チョイジ čoyiji(喬吉)先生

 
哀悼 ヒシクトクトホ č.kesigtoγtaqu(賀希格陶克陶)先生

 
2021年:現代ウイグル民族命名百周年(20211220日記)

 
今はなき清水公園の「乗り物公園」(2021920日記

 
遠州堀江城主大澤左衛門佐基胤夫妻の墓(池袋の瑞鳳山祥雲寺)(2021620日記

 
最初の在日ウイグル民族(2021524日, 61日記

 
学術関連情報 音源付きミシャル・タタール民謡集 L.X.ジガンシナ、L.I.サルヴァロワ編『ラムベラのタタール=ミシャル人の民謡』(《タタール民族音楽=詩作品》第五巻)(202157日記

 
木寺宮研究の進展(2021417日記

 
善良両氏 (202121日記

 
20201221日の「天声人語」における『スーホの白い馬』によせて (20201222日記

 
或る日本人モンゴル帝国史研究者から、或る中国人(漢族)若手同業者への便り (202099日 日本語による電子メールからの抄録

 
カザン刊民俗音楽音源付書籍三点と、ペルム地方の「黄金基産(フォンド)」CD六点 ──ヴォルガ・ウラル地域諸民族の民俗音楽音源資料より── ウドムルト、コミ=ペルミャク、マリー、タタール、バシコルト(バシキール)等20191213日)

 
地名サランスクを知らざる金帳汗国史研究者は“もぐり”也と云わざるべからず2018629日)

 
研究情報 : 十八〜十九世紀の北カフカスの歴史におけるチンギス・ハンの後裔たち2018312日)

 
東カレリア北部のカレリア・フィン民謡の音源資料2016.11.27.記)

 
価格百分之一 トルクメンとモンゴルの豪華写真集20151013日)

 
研究情報 : 近刊のランプール本『集史』「モンゴル史」写真版刊本2015108日)

 
訃報 タラスベク・アセムクロフ Talasbek Asemkulov2014114日記)

 
拙稿中の一章「ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性,再論」2013.6.29

 
タタール民族の国民的芸術家ウルマンチェ生誕115年記念展図録2013.6.8

 
筑波鉄道最後の日における常陸北条駅2012.5.9.記)

 
研究情報 : 十五〜十七世紀のロシアにおけるチンギス家一門2012.4.27

 
アルメニアで刊行された、アイヴァゾフスキーに関する美術研究書2012.4.12

 
三たびクインジ2012.2.7

 
油地獄 イサーク・レヴィタン生誕百五十周年2011.09.04

 
ロシア美術館のアルヒプ・クインジ2011.07.18

 
A.I.クインジ歿後百周年によせて2010.11.22



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