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小島草庵跡、多賀谷城址を訪れる
20231017日)

小島草庵跡 多賀谷城本丸跡

 快晴の20231017日、ちょうど予定が入っておりませんでしたので、「座業には適度な運動が必要」と、例の如く古自転車に乗って八時間ほど外出し、茨城県下妻に行ってまいりました。主要目的地は、下妻市小島における親鸞聖人の小島草庵跡です。
 いつもより早目に910分に出発し、往きはなるべく近い経路を取り、県道岩井野田線で芽吹大橋を渡り、利根川の土手道を北上して945分に(旧)小山の渡し付近に到ります。
 
芽吹大橋
芽吹大橋
(旧)小山の渡し付近
(旧)小山の渡し付近
 
 岩井市街を1015分頃通過し、県道結城坂東線(20号線)を進み、国王神社には1025分頃、弓田で寄り道をして1035分頃「ぽっくり不動尊」こと慈光寺弓田不動尊に参詣しました。
 
慈光寺弓田不動尊 慈光寺弓田不動尊
 
 沓掛では並行する旧道に入り、1055分、「猿島之鎮」を称す沓掛香取神社を参拝、沓掛商店街を抜けて新道に戻り、1110分頃、飯沼川に架かる「上高橋」を経て、東仁連川は工事中の紅葉橋で渡り、峰房の丁字路を右折して「皆葉峰房線」(217号線)を東進、皆葉の交差点を更に直進して鬼怒川の土手に出ます。右手に筑波山を望みつつ北上し、1135分、「大形橋」で鬼怒川を渡ります。
 
大形橋
 
 「つくば古河線」(56号線)を東進し、廃庁となった旧千代川村役場と同じ敷地内の千代川公民館に少し立ち寄ります。
 
旧千代川村役場 旧千代川村役場
旧千代川村役場
 
 1150分頃、そこから至近距離にある宗道神社を参拝しました。
 
宗道神社
 
 宗道神社には崇道天皇の由緒がありますが、勿論、後世の牽強付会でしょう。
 ちなみに境内には、「奉納/秋篠宮悠仁親王誕生記念/お印の樹 高野槇」碑と記念樹があります。
 
宗道神社
 
 さらに東進し、関鉄常総線の宗道駅の北の踏切では上下列車の通過を待たされました(1203分頃)。
 
関鉄常総線 関鉄常総線
 
 踏切の先200mほどで左折、刈り入れ後の田圃の中の農道のような舗装道路を、山ヒダまではっきりと見える筑波山を眺めつつノンビリと北北西に進み、突き当りを左折、社殿でなくお祠の新堀日枝神社(飛督神社)に立ち寄り参拝します。
 
新堀日枝神社 新堀日枝神社
 
 その北西方に位置する小島草庵跡に到着したのは1220分でした。
 
小島草庵跡 小島草庵跡
 
小島草庵跡
 
小島草庵跡
 
 現地には浄土真宗系の建物でもあるのだろうか、と思っておりましたが、「(株)野村住建工業」という大看板のかかった事業所に隣接した一区画に、二本の大鴨脚ほかの樹下に石碑と多宝塔があるだけです。
 到着時、地元民らしい自転車の老人が先客として来ておりましたが、私が自転車を止めて挨拶しますと、ろくに返答もせずに立ち去りました。
 大量の銀杏が落ちており、参道を歩みますと、踏まれた銀杏の臭気が立ち込めます。そこで、「草引き十本」だけでなく、参道上の銀杏と鴨脚の落葉をすべて清掃しました。
 1250分頃に小島草庵跡を離れます。下妻市街方面への道は道路工事で完全に通行止めとなっておりましたので、田圃の中の未舗装の農道を、小島草庵跡の南方そして西方を大きく迂回しました。
 
小島草庵跡遠景
 
小島草庵跡遠景
小島草庵跡遠景
 
 田圃の西の端には関鉄常総線の線路があり、列車が往来するのがよく見えます。列車の車内からも小島草庵跡は眺めることができるはずです。線路の東側の細道を北上すると、遮断機のない趣のある踏切が二箇所ありました。
 下妻市街を東西に横断する県道125号線に出て、小野子丁字路から北上すると、右手に、如何にも昭和の市役所然とした建物が見えてきました。
 
下妻市旧庁舎
 
 これは今年の五月に廃庁となった古い市庁舎で、道を挟んだ東側に真新しい新市庁舎が建っております。
 
下妻市新庁舎
 
 この新庁舎内の一階ロビーでしばし休息しました(1320分頃〜1340分頃)。
 旧市庁舎のすぐ近くにブックオフがありましたので立ち寄り、
浄土宗の縁山声明CDその他を購入しました。
 1405分頃、そこから目と鼻の先の「多賀谷城跡公園」に行き、多賀谷城(下妻城)本丸跡の小丘にのぼります。
 
多賀谷城本丸跡 多賀谷城本丸跡
 
多賀谷城本丸跡
 
 1420分頃、下妻駅に寄って、下妻訪問記念に下妻駅でなく大宝駅の入場券を購入しました(実は、下妻から大宝までの乗車券と勘違いしただけの話です)。
 
下妻駅
 
下妻駅
下妻駅
 
 実は、時間があれば大宝城にも行きたかったのですが、日が落ちる時間を考えますと、そうノンビリもできませんので、大宝行きは次の機会、と帰途に就きました。
 関鉄常総線に並行する旧国道294号線の県道357号線を南下すると、1430分頃、右手に社叢が見えてきました。「豊田三十三郷・幸嶋十二郷総社」を称する宗任神社です。
 
宗任神社
 
宗任神社 宗任神社
 
 実のところ、宗道地区に宗道神社と宗任神社の二社があることを把握しておらず、往きに訪れた宗道神社にまで戻ったとばかり思い込んでおりました。
 この宗任神社は、その名のとおり「阿部宗任」こと安部宗任を祭神としておりますが、神社の案内板においては、朝廷に弓を引いた叛逆人を祀っているという事実が完全に伏せられております。代わりに、「国家君が代」「敬神生活の綱領」「神威赫々」「皇紀二六五〇年記念〜」「敬神仰徳」といった石碑が目につきます。
 その一方で、参道の傍らで、横倒しになった底のない大樽の中に納まっているかのような末社は、「成り成りて成り余れる」モノと「成り成りて成り合わざる」モノの真新しい石造物が鎮座しており、思わず「おーっ」というよりも「まぁ」という感じ、です。その名も「子宝神社」。
 時間の関係で長居はできず、宗任神社を辞去し(1440分頃)、往きと同じ、または、それにほぼ並行する経路を取って帰路を急ぎます。
 大形橋で鬼怒川を越えて(1450分頃)、峰房では県道結城坂東線(20号線)の東側200mほど離れた田舎道を南下しましたところ、行く手には台地の裂け目のような谷があり、それを越える下り坂の先の谷底は泥濘に埋もれているようで、恐れをなして、もと来た道を引き返しました。
 往きと同じく「紅葉橋」、そして「上高橋」を渡り、沓掛香取神社付近は新道を通過(1520分過)、弓田では旧道を通り、岩井弓田郵便局に立ち寄り(1535分頃。84円切手を10枚購入)、国王神社を参拝して(1550分頃)、馴染みの平将門像がある「坂東市総合文化ホール」で最後の休息を取ります(1600分〜1610分)。
 
平将門像
平将門像
(旧)小山の渡し付近
(旧)小山の渡し付近
芽吹大橋から望む利根川
芽吹大橋から望む利根川
 
 そして、(旧)小山の渡し付近を経て(1630分頃)、芽吹大橋を渡り(1640分頃)、薄暮迫る1712分につつがなく帰宅いたしました次第です。
2023.11.21.公開)
関東鉄道常総線


幻の縁山声明CD
 
 20231017日、自転車で茨城県下妻市を訪れました。市役所のすぐ近く、「多賀谷城跡公園」の南東隣に位置する新古書店、ブックオフ下妻市役所前店(看板を見るまで、その存在を把握しておりませんでした)に立ち寄りまして、次の浄土宗声明CD二枚組。帯ナシ)を購入しました。

縁山声明 津田徳翁の心

縁山声明 津田徳翁の心
響玅
大本山増上寺 教授師 津田徳翁
np., nd.
[VTT-3721]
Recording at VANRYUJI STUDIO

 一見、「緑山」かと思いましたが、「緑」でなく「縁」です。「縁山(えんざん)」は、三縁山広度院増上寺の略称です。
 表題の「響玅」というのは、翻字がこれで果たして正しいものか否か、実のところ判然としておりません。「響竗」のようにも見えなくもありませんが、意味をなすようにも思われません。また、「響鈔」と読むにはカネ偏に無理がありそうです。もっとも、これをいえば「響玅」の「玄」も、最後の筆画がトメでなくハネですので、かなり無理ぎみではあるのですが...
 ともかくディスク情報を確認してみよう、とネット検索を試みてみました。ところが、ネット上には当該CDに関する情報が、まったく見当たりません。ネット検索に掛からないということは、世間的には存在しないも同然の扱いです。もちろん、「響玅」で正しいかどうかも分かりません。
 これは いかなこと、ということで、とりあえずBing博士に「縁山声明 響玅」につき質問してみました。すると、ただちに次のありがたい回答を得ることができました。

    「縁山声明」とは、浄土宗の声明の一つで、増上寺に伝わる声明の一つです。縁山声明は、大原流を継承しつつも、旋律は大原流とまったく趣きを異にした独特な旋律唱法を生み出したとされています。一方、「響玅」とは、浄土宗のお経の一つで、阿弥陀如来を讃えるお経です。

 おお、と思わず納得しかけてしまいましたが、念のため、更に質問を重ねてみますと、

     「響玅」とは、浄土宗のお経の一つで、阿弥陀如来を讃えるお経です。このお経は、浄土宗の開祖である法然上人が、自らの教えをまとめた『教行信証』に基づいて作られたもので、法然上人が自らの死期が近づいた際に、弟子たちに説いたとされています。
     「響玅」は、阿弥陀如来を讃えることで、人々が阿弥陀如来の慈悲深い心に触れ、救済されることを願って唱えられます。また、「響玅」は、浄土宗の教えを広めるために、法然上人が作ったお経であることから、浄土宗の教えを学ぶ上で重要なものとされています。

とのことで、甚だ遺憾ですが回答は信頼できないと確信することができました次第。
 それはともかくとして、「縁山声明」につきましては、『新纂浄土宗大辞典』「声明」三「増上寺に伝わる声明」に解説があります。
 http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/声明
 これによりますと、「尊超法親王は、縁山の声明道にも意を注ぎ、叡山古来の声明と縁山当代の声明を比較し、音声の扱い方と節奏等に差隔があったことを伝えている(『浄土宗法式精要』)」との由です。
 『新纂浄土宗大辞典』には、津田徳翁師も立項されております。
 http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/津田徳翁
 ここには、「声明の五線譜化を専門家に依頼し、自ら録音して縁山声明の伝承に尽力する」とあります。まさにその録音が、ネット上では存在自体を確認できない幻の当該CDに収録されている、ということなのでしょう。
 ちなみに「響玅」という用語は、「浄土宗全書テキストデータベース」にも、「大正新脩大藏經テキストデータベース2015版 (SAT 2015)」にも、掛かりませんでした。
 なお、当該CDの「Recording」が行われたとされる「VANRYUJI STUDIO」とは「蟠竜寺スタジオ」のことのようです。このCDの音源は、音質から推測するに、津田徳翁師がノーマイクでラジカセ録音したもののようで、おそらくその録音を「蟠竜寺スタジオ」でデジタル化した、ということであるかと思われます。
 「蟠竜寺スタジオ」を擁する蟠竜寺は、目黒不動尊と目黒寄生虫館の中間やや東側に位置しております。目黒方面へ赴く機会がありましたら参詣いたしたいものでございます。もし、ご住職と邂逅できましたら、「響玅」について教えていただくことができるかも知れません。
 この翻字が「響玅」でないとすれば、「響鈔」ということとなりそうですが、「響鈔」というのは、モンゴル帝国は元朝時代の漢語俗語で、金属製貨幣、すなわち銅銭や銀貨を指すものなのだそうです。要するに、紙幣である「交鈔」に対し、ジャラジャラ音が響くので「響鈔」と称するとの由。
 また一つ、勉強になりました。
2023.10.22.初稿, 2023.11.11.公開)
 



九月二十九日より、早稲田大学エクステンションセンター公開講座にて、カザフ汗国史が開講しております。
 
中央アジアのチンギス・ハンの子孫たち
モンゴル帝国解体後の中央アジアにおけるカザフ汗国とカザフ王族

https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/60591/

講義概要
 モンゴル帝国を建てたチンギス・ハンの子孫は現在、モンゴル民族だけでなく中央アジアのカザフ民族の間にも数多く存在します。チンギス・ハンの長男ジュチの十三男トカテムルには顕著な事蹟がありませんが子孫は非常に繁栄し、モンゴル帝国の西北部を占めたキプチャク汗国の汗位は14世紀後半以降、彼らが多く占めました。彼らの中からカザフ汗国の建国者が現われ、同国のもとでカザフ民族が形成されました。同国が帝政ロシアに併合された後も、チンギス・ハンの後裔たるカザフ王族は貴族として特権を保ち、カザフ近代史に大きな影響を与えた人物も輩出しました。本講座ではモンゴル帝国解体後のカザフスタン地域の歴史を人物中心に概観します。

第1回 09/29 キプチャク汗国の解体とカザフ汗国の成立
 チンギス・ハンの長男ジュチの後裔を戴いたモンゴル帝国の西北政権キプチャク汗国は14世紀中葉頃、嫡系にあたるジュチの二男バトと長男オルダの子孫が断絶し、傍系である五男シバンと十三男トカテムルの子孫が抬頭、その過程で分裂しました。トカテムルの後裔の一人オロスはキプチャク汗国東部を統一しましたが、その統一は彼の子の代に失われました。彼の二人の曾孫ケレイとジャニベクは1470年頃、後世の研究者からカザフ汗国と呼ばれることになる政権を建てました。第1回はカザフ汗国建国までの歴史を簡述します。

第2回 10/06 16世紀におけるカザフ汗国の発展と隆盛
 カザフスタン東南部に興起したカザフ汗国は、ウズベク(ジュチの五男シバンの後裔アブルハイル汗とシャイバーニー朝)との抗争を繰り返しつつ勢力を拡大し、16世紀末、タシケントを獲得しました。また、衰退した東チャガタイ汗国(モグーリスターン汗国)から離脱した天山北麓地域の騎馬遊牧民集団(ドグラト族)を組み込み、また、カザフスタン西部のノガイ・オルダ(マングト族)の一部も編入し、中央アジアにおける最強の騎馬遊牧民政権としての地位を確立しました。第2回は、全盛期のカザフ汗国について説明します。

第3回 10/13 ボリス・ゴドゥノフに仕えたカザフ王族、オラズ=ムハンマド
 モスコヴィア(ロシア)の俘虜となったカザフ王族オラズ=ムハンマドはモスクワ皇帝ボリス・ゴドゥノフに仕え、モスコヴィア領内の従属政権カシモフ汗国の君主となりました。彼の重臣、ジャライル族のカーディル=アリー・ベクは、『歴史集成』の名で呼ばれるテュルク語史料を残しました。本史料は、イスラム教徒の著者がキリスト教徒のモスクワ皇帝を賛美するという稀有な存在ですが、後期キプチャク汗国、カザフ汗国、カシモフ汗国史の史料として重要です。第3回は、数奇な運命をたどったカザフ王族とその周辺について解説します。

第4回 10/20 17〜18世紀におけるオイラト(カルマク)の侵攻
 モンゴル高原西部からジュンガル盆地を本拠地とした西モンゴル系のオイラト集団(テュルク語でカルマクと称されました)は、17〜18世紀、たびたびカザフ汗国を攻撃して猛威を振るいました。特に1723年におけるジュンガル王ツェワン・アラブタン治世下のオイラトによる猛攻でカザフ人は潰滅的な大敗を喫し、後世に到るまで「裸足の逃走(アクタバン・シュブルンドゥ)」の呼称によって語り伝えられました。第4回は、外敵に苦しめられたカザフの苦難の時代について説明します。

第5回 10/27 カザフ汗国の分裂と、ロシア皇帝に臣従したアブルハイル汗
 カザフ汗国は、英主として名高いタウケ汗(在位1680?〜1718)を最後に統一君主はいなくなり、集団ごとに汗が立てられて分裂しました。そして、カザフにおける大中小の三つの部族連合体「ジュズ」の存在が確認されるようになります。タウケ汗の生前に小ジュズの汗として抬頭していたアブルハイル汗は、オイラト(ジュンガル)の侵攻に対抗するために、1731年、ロシア皇帝の臣下となる宣誓を行いましたが、これが後に帝政ロシアによるカザフ併合の法的根拠となりました。第5回は、カザフ汗国分裂の諸相について概観します。

第6回 11/10 帝政ロシアと清朝との狭間でカザフ汗国を再興したアブライ汗
 中ジュズの汗アブルマンベトと共に1740年、ロシア皇帝の臣下となった王族アブライは、オイラト(ジュンガル)の捕虜となる苦杯を嘗めましたが、ジュンガル王ガルダン=ツェリンの没後まもなくジュンガル政権が清朝に滅ぼされた後、1757年、清朝に帰順しました。帝政ロシアと清朝との間に巧みな二重外交を展開したアブライは、1771年、中ジュズの汗となり、カザフ汗国における最後の輝かしい時代を現出させました。第6回は、カザフスタン独立後の紙幣の意匠にもなったアブライ汗の事跡を説明します。

第7回 11/17 帝政ロシアによるカザフ汗国併合とケネサルの武力闘争
 ロシア皇帝へのカザフ汗・王族の臣従は、当初、オイラトに対抗するための手段として名目的な要素が強く、汗たちは実質的に独立君主として振る舞っておりました。しかし、1781年のアブライ汗の没後、帝政ロシアはカザフ汗国の植民地化に乗り出し、汗たちの政治的権力の剥奪に着手し、1822年、中ジュズのアブライ後裔の汗が廃位され、1824年、小ジュズのアブルハイル後裔の汗も廃止されました。アブライの孫ケネサルはロシアの植民地化政策に抵抗しましたが、1847年に敗死しました。第7回は、カザフ汗国の消滅の過程をたどります。

第8回 11/24 ボケイ汗国(ブケイ・オルダ)の成立と廃止
 ヴォルガ川下流東岸地域におけるオイラト(カルマク)のトルグート集団は、帝政ロシアからの圧迫から逃れるために、1771年、ヴォルガ西岸地域の人々を置き残して遠く清朝領域内へ東遷しました。小ジュズの王族ブケイ(ボケイ)は、人口稀薄となったヴォルガ・ウラル両河間地帯への移住を帝政ロシアに請願し、1801年に認められ、1812年、汗位をロシアから承認されました。こうして帝政ロシア領内にボケイ汗国が成立しました。第8回は、ロシアの支配下に汗が1845年まで存続したボケイ汗国(ブケイ・オルダ)の歴史を概観します。

第9回 12/01 ヒヴァ汗国とカザフ王族
 18世紀以降、小ジュズのカザフ王族が、チンギス・ハンの子孫であるという理由のもとに、アムダリヤ下流域(ホラズム地方)におけるウズベクのヒヴァ汗国(ジュチの五男シバンの後裔が建国)の汗位に即く事例が多くなります。彼らの多くは傀儡汗に過ぎませんでしたが、彼らの一族の中には、ヒヴァ汗国とロシアの関係で重要な役割を果たした人物も現われます。曽祖父・祖父・父がヒヴァ汗となった経歴がある、小ジュズの一部の汗、アルンガズは、その一人です。第9回では、ヒヴァ汗国と関係が深いカザフ王族の事蹟を紹介します。

第10回 12/08 帝政ロシア〜ソビエト初期に活躍したカザフ王族たち
 カザフ王族は、帝政ロシアの支配下に入った後も、カザフ汗国以來の特権を保持し、貴族階層を構成しました。彼らの中からは、カザフ最初の近代的知識人の一人にして夭折した大学者チョカン・ワリハノフ(アブライの曾孫)、カザフ伝統音楽の巨匠ダウレトケレイ(アブルハイルの曾孫)、ロシア革命・内戦期のカザフ民族自治政府アラシュ・オルダの指導者アリハン・ブケイハノフ(ボケイハン)が輩出しています。第10回では、近代カザフ王族の事蹟を紹介し、最後に、カザフ史上におけるチンギス・ハン後裔たちの存在意義を総括します。




赤坂恒明 監訳/金山あゆみ 訳注『ラシード=アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』(風間書房, 2022.4.
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=2446)が、現在、発売中です。気合を入れれば大学生でも購入できる価格に設定されております。風間書房の意気に応じていただければ幸いです。
2022.5.1



978-4-642-08369-0

日本史史料研究会 監修
 
赤坂恒明
 
「王」と呼ばれた皇族
 
  古代・中世皇統の末流

 
東京、吉川弘文館、二〇二〇年一月
 
(発売:二〇一九年十二月二十日)
 
ISBN 978-4-642-08369-0
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b487640.html


細々と発売中の本書にも、「個人用電子書籍」が、202111月より、紀伊國屋書店の「Kinoppy」等で配信される、との由です。価格は紙の書籍と同額です。なお、電子版の発売にともない、紙の書籍の存在意義が相対的に低くなります。紙の書籍の購入を御検討の方は、拙著『ジュチ裔諸政権史の研究』の如く品切・絶版となって入手不可能となる前に、お早目に御購入いただければ、と存じます。
2021.10.21



小文「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」所載の 渡邊大門 編『歴史が拓く未来』(市川、歴史と文化の研究所、2021.1)は、発行されるや即日、品切れとなり、その後、ごく少部数が増刷されましたが、同じく品切れとなりました。本書を所蔵する図書館・研究機関は、私の把握する限り、国立国会図書館と八王子市図書館のみです。そこで、すでに稀覯書と化しております本書の517頁に所載の小文を、編者 渡邊大門先生から御認可いただきまして、ネット上に公開いたしました(ただし、「おわりに」の大部分は公開を差控えております)。学術論文ではなく、小著『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流 』で割愛した文章を増補修訂した、一般読者向けの文章です。御一読いただければ幸いです。
2021.4.28



赤坂恒明のページ


過去に掲げた探訪記・写真等



● 以前に使用していた電子メール・アドレス「akasaka@aoni.waseda.jp」は既に廃止されております。

● かつて私が或る公開講座にて語った内容が、甚だ不正確に解釈された形で、私の発言として或るブログに書かれております。しかし、そのようなことは全く述べておりません。まことに困ったことです。

● 本ページのアドレスは、二〇〇四年九月末、
   http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3312/index.html
 から
   http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/index.html
 に変更され、更に二〇一九年二月十三日、
   http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/index.html
 に変更されました。




ウクライナ共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国クリミア自治共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ドネツィク(ドネツク)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ヘルソン州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国オデサ(オデッサ)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)



過去の記事より

 
(再公開作業中)


 
煩悩の数だけある音源 モルドバのアントノフカ・レコーヅ
  「音源紹介 Antonovka Records

 
2020年全ロシア国勢調査の衝撃

 
マリウポリのクインジ記念美術館の破壊

 
戦禍のマリウポリとクリミア・ギリシア人

 
「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」Реве та стогне Дніпр широкий ウクライナ民族の象徴的歌曲
  「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」(「広きドニエプルの嵐」)のウクライナ語カタカナ歌詞 PDF

 
訃報 マリア・索(瑪麗亞・索 / 瑪利亞索 Maria Sologon / Мария Сологон)老(19212022) オルグヤ・エベンキ人の民俗文化伝承者

 
哀悼 チョイジ čoyiji(喬吉)先生

 
哀悼 ヒシクトクトホ č.kesigtoγtaqu(賀希格陶克陶)先生

 
2021年:現代ウイグル民族命名百周年(20211220日記)

 
今はなき清水公園の「乗り物公園」(2021920日記

 
遠州堀江城主大澤左衛門佐基胤夫妻の墓(池袋の瑞鳳山祥雲寺)(2021620日記

 
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学術関連情報 音源付きミシャル・タタール民謡集 L.X.ジガンシナ、L.I.サルヴァロワ編『ラムベラのタタール=ミシャル人の民謡』(《タタール民族音楽=詩作品》第五巻)(202157日記

 
木寺宮研究の進展(2021417日記

 
善良両氏 (202121日記

 
20201221日の「天声人語」における『スーホの白い馬』によせて (20201222日記

 
或る日本人モンゴル帝国史研究者から、或る中国人(漢族)若手同業者への便り (202099日 日本語による電子メールからの抄録

 
カザン刊民俗音楽音源付書籍三点と、ペルム地方の「黄金基産(フォンド)」CD六点 ──ヴォルガ・ウラル地域諸民族の民俗音楽音源資料より── ウドムルト、コミ=ペルミャク、マリー、タタール、バシコルト(バシキール)等 (20191213日)

 
地名サランスクを知らざる金帳汗国史研究者は“もぐり”也と云わざるべからず (2018629日)

 
研究情報 : 十八〜十九世紀の北カフカスの歴史におけるチンギス・ハンの後裔たち (2018312日)

 
東カレリア北部のカレリア・フィン民謡の音源資料(2016.11.27.記)

 
価格百分之一 トルクメンとモンゴルの豪華写真集(20151013日)

 
研究情報 : 近刊のランプール本『集史』「モンゴル史」写真版刊本(2015108日)

 
訃報 タラスベク・アセムクロフ Talasbek Asemkulov 氏(2014年11月4日記)

 
拙稿中の一章「ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性,再論」(2013.6.29)

 
タタール民族の国民的芸術家ウルマンチェ生誕115年記念展図録(2013.6.8)

 
研究情報 : 十五〜十七世紀のロシアにおけるチンギス家一門 (2012.4.27)

 
アルメニアで刊行された、アイヴァゾフスキーに関する美術研究書 (2012.4.12)

 
三たびクインジ (2012.2.7)

 
油地獄 イサーク・レヴィタン生誕百五十周年 (2011.09.04)

 
ロシア美術館のアルヒプ・クインジ (2011.07.18)

 
A.I.クインジ歿後百周年によせて (2010.11.22)



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