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煩悩の数だけある音源
モルドバのアントノフカ・レコーヅ


 前世紀までは、(旧)ソ連邦諸民族の伝統音楽音源に接することは、決して容易ではありませんでした。
 しかし近年では、インターネット上に膨大な量の各種音源が溢れており、ほんの少し前には全く想像もできなかった洪水状態と化しており、逆に、「どれを聴かずに済ませて捨てれば良いか」を見極める判断力が求められております。
 そのような中で、旧ソ連邦の民族的少数集団の良質な伝統音楽音源を、「Bandcamp」(https://bandcamp.com/about)上で大量に我々に提供しているのが、モルドバのレーベル「アントノフカ・レコーヅ Antonovka Records」です。
 https://antonovkarecords.bandcamp.com/
 2019年7月26日に第一号を公開して以来、着実に音源を増やし、2023年9月8日には、ついに煩悩の数と同じ108点に到達しました。
 私がその存在に気付いたのは2022年12月末のことでした。イルクーツク州の西ブリヤート人の音源があることに大いに感心しておりましたところ、他にもイルクーツク州の移住フィン系ヴェプス人、チェチェン語と同系統の言語を話すバツビ(ツォヴァ・トゥシェティ人)、ナガイバク人(マグニトゴルスク東方の改宗正教徒クリャシェン・タタール人。民俗音楽学者V.M.シューロフのCDでも紹介)、ベセルミャン人(タタールの影響を受けてイスラム化した後、チェプツァ・タタール人と共にチェプツァ川下流へ移住して18世紀に正教に改宗した南ウドムルト人)、オレンブルグ州の離散チュヴァシ人・エルジャ=モルドヴィン人、トヴェリ州の離散カレリア人、パンキシ渓谷のキスト・チェチェン人、その他もろもろのV.M.シューロフ的稀少音源が満載されていることに、仰天・衝撃・興奮のあまり、おそらく血圧が急上昇していたものと思われます。
 その108点を分類してみますと、およそ次のとおりになります。

モンゴル系
 ブリヤート  4点
 カルムィク  2点
テュルク系
 チュヴァシ  4点
 タタール(含クリャシェン、ナガイバク) 7点
 バシコルト  2点
 クルグズ   4点
 カラチャイ他 1点
 ウイグル   2点
 メスヘティア・トルコ 1点
フィン系
 カレリア   2点
 イングリア  1点
 ヴェプス   3点
 モルドヴィン 3点
 マリー    2点
 ウドムルト他 1点
 ベセルミャン 1点
スラヴ系
 ロシア(含ドゥホボル派、リポヴァン、セメイスキー、ポリャーク、ゴレンドラ) 30点
 ベラルーシ  1点
 ウクライナ  6点
 セルビア、モンテネグロ 4点
ラテン系
 ルーマニア、モルドバ 1点
アルメニア   1点
イラン系
 クルド    1点
 ワヒー    1点
ダルド系
 コワール   1点
ブルショ    2点
カフカス系
 アディゲ   1点
 ダゲスタン  2点
 チェチェン  1点
 グルジア(含バツビ) 6点
漢蔵系
 ドゥンガン  2点

中央アフリカ  1点
ルワンダ    7点

 音源のダウンロードは有料ですが、「試聴」だけならば特に問題はないようです。108点のうち私が「試聴」したのは三分の一程度にとどまっております。時間は無限にあるわけでありませんので、アフリカや一部のロシア音源は「試聴」もせずに済ませますが、それでも聴いてみたいのは60点程あります。また、今後さらに新しい音源も公開されていくはずです。当面、煩悩が続くことは避けられないことでしょう。
 ところで、ロシア人の下位集団として一般的に分類されている集団、ゴレンドラ(голендры)については、このアントノフカ・レコーヅにおける一連のイルクーツク州諸民族音源のおかげで、私は初めてその存在を知ることができました。ゴレンドラとは即ち「オランダ人」を意味し、ストルィピンの農制改革の後、西ブーグ川付近からシベリアへ移住したルーテル派ドイツ・オランダ系住民で、ウクライナ語の特殊な方言と、儀礼でポーランド語を使用し、イルクーツク州南西部に居住しているとの由(参照:https://old.bigenc.ru/ethnology/text/2802100)。しかしながら、当該音源の説明は簡略に過ぎますので、是非とも詳細な解説がほしいところです。音源を収録するために各地域で行なわれた現地調査に関するCD付き報告書または詳細解説書付きCDが刊行されれば、万難を排してでも購入いたしたいものでございます。
2023.9.25.記)
 



九月二十九日より、早稲田大学エクステンションセンター公開講座にて、カザフ汗国史を開講します。
 
中央アジアのチンギス・ハンの子孫たち
モンゴル帝国解体後の中央アジアにおけるカザフ汗国とカザフ王族

https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/60591/

講義概要
 モンゴル帝国を建てたチンギス・ハンの子孫は現在、モンゴル民族だけでなく中央アジアのカザフ民族の間にも数多く存在します。チンギス・ハンの長男ジュチの十三男トカテムルには顕著な事蹟がありませんが子孫は非常に繁栄し、モンゴル帝国の西北部を占めたキプチャク汗国の汗位は14世紀後半以降、彼らが多く占めました。彼らの中からカザフ汗国の建国者が現われ、同国のもとでカザフ民族が形成されました。同国が帝政ロシアに併合された後も、チンギス・ハンの後裔たるカザフ王族は貴族として特権を保ち、カザフ近代史に大きな影響を与えた人物も輩出しました。本講座ではモンゴル帝国解体後のカザフスタン地域の歴史を人物中心に概観します。

第1回 09/29 キプチャク汗国の解体とカザフ汗国の成立
 チンギス・ハンの長男ジュチの後裔を戴いたモンゴル帝国の西北政権キプチャク汗国は14世紀中葉頃、嫡系にあたるジュチの二男バトと長男オルダの子孫が断絶し、傍系である五男シバンと十三男トカテムルの子孫が抬頭、その過程で分裂しました。トカテムルの後裔の一人オロスはキプチャク汗国東部を統一しましたが、その統一は彼の子の代に失われました。彼の二人の曾孫ケレイとジャニベクは1470年頃、後世の研究者からカザフ汗国と呼ばれることになる政権を建てました。第1回はカザフ汗国建国までの歴史を簡述します。

第2回 10/06 16世紀におけるカザフ汗国の発展と隆盛
 カザフスタン東南部に興起したカザフ汗国は、ウズベク(ジュチの五男シバンの後裔アブルハイル汗とシャイバーニー朝)との抗争を繰り返しつつ勢力を拡大し、16世紀末、タシケントを獲得しました。また、衰退した東チャガタイ汗国(モグーリスターン汗国)から離脱した天山北麓地域の騎馬遊牧民集団(ドグラト族)を組み込み、また、カザフスタン西部のノガイ・オルダ(マングト族)の一部も編入し、中央アジアにおける最強の騎馬遊牧民政権としての地位を確立しました。第2回は、全盛期のカザフ汗国について説明します。

第3回 10/13 ボリス・ゴドゥノフに仕えたカザフ王族、オラズ=ムハンマド
 モスコヴィア(ロシア)の俘虜となったカザフ王族オラズ=ムハンマドはモスクワ皇帝ボリス・ゴドゥノフに仕え、モスコヴィア領内の従属政権カシモフ汗国の君主となりました。彼の重臣、ジャライル族のカーディル=アリー・ベクは、『歴史集成』の名で呼ばれるテュルク語史料を残しました。本史料は、イスラム教徒の著者がキリスト教徒のモスクワ皇帝を賛美するという稀有な存在ですが、後期キプチャク汗国、カザフ汗国、カシモフ汗国史の史料として重要です。第3回は、数奇な運命をたどったカザフ王族とその周辺について解説します。

第4回 10/20 17〜18世紀におけるオイラト(カルマク)の侵攻
 モンゴル高原西部からジュンガル盆地を本拠地とした西モンゴル系のオイラト集団(テュルク語でカルマクと称されました)は、17〜18世紀、たびたびカザフ汗国を攻撃して猛威を振るいました。特に1723年におけるジュンガル王ツェワン・アラブタン治世下のオイラトによる猛攻でカザフ人は潰滅的な大敗を喫し、後世に到るまで「裸足の逃走(アクタバン・シュブルンドゥ)」の呼称によって語り伝えられました。第4回は、外敵に苦しめられたカザフの苦難の時代について説明します。

第5回 10/27 カザフ汗国の分裂と、ロシア皇帝に臣従したアブルハイル汗
 カザフ汗国は、英主として名高いタウケ汗(在位1680?〜1718)を最後に統一君主はいなくなり、集団ごとに汗が立てられて分裂しました。そして、カザフにおける大中小の三つの部族連合体「ジュズ」の存在が確認されるようになります。タウケ汗の生前に小ジュズの汗として抬頭していたアブルハイル汗は、オイラト(ジュンガル)の侵攻に対抗するために、1731年、ロシア皇帝の臣下となる宣誓を行いましたが、これが後に帝政ロシアによるカザフ併合の法的根拠となりました。第5回は、カザフ汗国分裂の諸相について概観します。

第6回 11/10 帝政ロシアと清朝との狭間でカザフ汗国を再興したアブライ汗
 中ジュズの汗アブルマンベトと共に1740年、ロシア皇帝の臣下となった王族アブライは、オイラト(ジュンガル)の捕虜となる苦杯を嘗めましたが、ジュンガル王ガルダン=ツェリンの没後まもなくジュンガル政権が清朝に滅ぼされた後、1757年、清朝に帰順しました。帝政ロシアと清朝との間に巧みな二重外交を展開したアブライは、1771年、中ジュズの汗となり、カザフ汗国における最後の輝かしい時代を現出させました。第6回は、カザフスタン独立後の紙幣の意匠にもなったアブライ汗の事跡を説明します。

第7回 11/17 帝政ロシアによるカザフ汗国併合とケネサルの武力闘争
 ロシア皇帝へのカザフ汗・王族の臣従は、当初、オイラトに対抗するための手段として名目的な要素が強く、汗たちは実質的に独立君主として振る舞っておりました。しかし、1781年のアブライ汗の没後、帝政ロシアはカザフ汗国の植民地化に乗り出し、汗たちの政治的権力の剥奪に着手し、1822年、中ジュズのアブライ後裔の汗が廃位され、1824年、小ジュズのアブルハイル後裔の汗も廃止されました。アブライの孫ケネサルはロシアの植民地化政策に抵抗しましたが、1847年に敗死しました。第7回は、カザフ汗国の消滅の過程をたどります。

第8回 11/24 ボケイ汗国(ブケイ・オルダ)の成立と廃止
 ヴォルガ川下流東岸地域におけるオイラト(カルマク)のトルグート集団は、帝政ロシアからの圧迫から逃れるために、1771年、ヴォルガ西岸地域の人々を置き残して遠く清朝領域内へ東遷しました。小ジュズの王族ブケイ(ボケイ)は、人口稀薄となったヴォルガ・ウラル両河間地帯への移住を帝政ロシアに請願し、1801年に認められ、1812年、汗位をロシアから承認されました。こうして帝政ロシア領内にボケイ汗国が成立しました。第8回は、ロシアの支配下に汗が1845年まで存続したボケイ汗国(ブケイ・オルダ)の歴史を概観します。

第9回 12/01 ヒヴァ汗国とカザフ王族
 18世紀以降、小ジュズのカザフ王族が、チンギス・ハンの子孫であるという理由のもとに、アムダリヤ下流域(ホラズム地方)におけるウズベクのヒヴァ汗国(ジュチの五男シバンの後裔が建国)の汗位に即く事例が多くなります。彼らの多くは傀儡汗に過ぎませんでしたが、彼らの一族の中には、ヒヴァ汗国とロシアの関係で重要な役割を果たした人物も現われます。曽祖父・祖父・父がヒヴァ汗となった経歴がある、小ジュズの一部の汗、アルンガズは、その一人です。第9回では、ヒヴァ汗国と関係が深いカザフ王族の事蹟を紹介します。

第10回 12/08 帝政ロシア〜ソビエト初期に活躍したカザフ王族たち
 カザフ王族は、帝政ロシアの支配下に入った後も、カザフ汗国以來の特権を保持し、貴族階層を構成しました。彼らの中からは、カザフ最初の近代的知識人の一人にして夭折した大学者チョカン・ワリハノフ(アブライの曾孫)、カザフ伝統音楽の巨匠ダウレトケレイ(アブルハイルの曾孫)、ロシア革命・内戦期のカザフ民族自治政府アラシュ・オルダの指導者アリハン・ブケイハノフ(ボケイハン)が輩出しています。第10回では、近代カザフ王族の事蹟を紹介し、最後に、カザフ史上におけるチンギス・ハン後裔たちの存在意義を総括します。




赤坂恒明 監訳/金山あゆみ 訳注『ラシード=アッディーン『集史』「モンゴル史」部族篇訳注』(風間書房, 2022.4.
https://www.kazamashobo.co.jp/products/detail.php?product_id=2446)が、現在、発売中です。気合を入れれば大学生でも購入できる価格に設定されております。風間書房の意気に応じていただければ幸いです。
2022.5.1



978-4-642-08369-0

日本史史料研究会 監修
 
赤坂恒明
 
「王」と呼ばれた皇族
 
  古代・中世皇統の末流

 
東京、吉川弘文館、二〇二〇年一月
 
(発売:二〇一九年十二月二十日)
 
ISBN 978-4-642-08369-0
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b487640.html


細々と発売中の本書にも、「個人用電子書籍」が、202111月より、紀伊國屋書店の「Kinoppy」等で配信される、との由です。価格は紙の書籍と同額です。なお、電子版の発売にともない、紙の書籍の存在意義が相対的に低くなります。紙の書籍の購入を御検討の方は、拙著『ジュチ裔諸政権史の研究』の如く品切・絶版となって入手不可能となる前に、お早目に御購入いただければ、と存じます。
2021.10.21



小文「刀鍛冶の徒弟であった御落胤、伏見宮貞致親王」所載の 渡邊大門 編『歴史が拓く未来』(市川、歴史と文化の研究所、2021.1)は、発行されるや即日、品切れとなり、その後、ごく少部数が増刷されましたが、同じく品切れとなりました。本書を所蔵する図書館・研究機関は、私の把握する限り、国立国会図書館と八王子市図書館のみです。そこで、すでに稀覯書と化しております本書の517頁に所載の小文を、編者 渡邊大門先生から御認可いただきまして、ネット上に公開いたしました(ただし、「おわりに」の大部分は公開を差控えております)。学術論文ではなく、小著『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流 』で割愛した文章を増補修訂した、一般読者向けの文章です。御一読いただければ幸いです。
2021.4.28



赤坂恒明のページ


過去に掲げた探訪記・写真等



● 以前に使用していた電子メール・アドレス「akasaka@aoni.waseda.jp」は既に廃止されております。

● かつて私が或る公開講座にて語った内容が、甚だ不正確に解釈された形で、私の発言として或るブログに書かれております。しかし、そのようなことは全く述べておりません。まことに困ったことです。

● 本ページのアドレスは、二〇〇四年九月末、
   http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3312/index.html
 から
   http://www.geocities.jp/akasakatsuneaki/index.html
 に変更され、更に二〇一九年二月十三日、
   http://akasakatsuneaki.c.ooco.jp/index.html
 に変更されました。




ウクライナ共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国クリミア自治共和国民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ドネツィク(ドネツク)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国ヘルソン州民族・母語人口統計一覧表(2001年)
ウクライナ共和国オデサ(オデッサ)州民族・母語人口統計一覧表(2001年)



過去の記事より

 
(再公開作業中)


 
2020年全ロシア国勢調査の衝撃

 
マリウポリのクインジ記念美術館の破壊

 
戦禍のマリウポリとクリミア・ギリシア人

 
「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」Реве та стогне Дніпр широкий ウクライナ民族の象徴的歌曲
  「広きドニエプル川は咆哮し、うなりをあげ」(「広きドニエプルの嵐」)のウクライナ語カタカナ歌詞 PDF

 
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地名サランスクを知らざる金帳汗国史研究者は“もぐり”也と云わざるべからず (2018629日)

 
研究情報 : 十八〜十九世紀の北カフカスの歴史におけるチンギス・ハンの後裔たち (2018312日)

 
東カレリア北部のカレリア・フィン民謡の音源資料(2016.11.27.記)

 
価格百分之一 トルクメンとモンゴルの豪華写真集(20151013日)

 
研究情報 : 近刊のランプール本『集史』「モンゴル史」写真版刊本(2015108日)

 
訃報 タラスベク・アセムクロフ Talasbek Asemkulov 氏(2014年11月4日記)

 
拙稿中の一章「ウテミシュ=ハージーの『チンギス=ナーマ』の史料性,再論」(2013.6.29)

 
タタール民族の国民的芸術家ウルマンチェ生誕115年記念展図録(2013.6.8)

 
研究情報 : 十五〜十七世紀のロシアにおけるチンギス家一門 (2012.4.27)

 
アルメニアで刊行された、アイヴァゾフスキーに関する美術研究書 (2012.4.12)

 
三たびクインジ (2012.2.7)

 
油地獄 イサーク・レヴィタン生誕百五十周年 (2011.09.04)

 
ロシア美術館のアルヒプ・クインジ (2011.07.18)

 
A.I.クインジ歿後百周年によせて (2010.11.22)



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